Rosalita 夜明け前
   
 
 ロザリータ夜明け
    
 ロザリータとは、私にとって一体なんだろうか。 飯の種でもあるし、神聖な職場でもある。
 自分に趣味に囲まれた引きこもり部屋。 そう言えば、休日に、意味もなくテーブル席で何を
 するでもなく座りこんでいる事が多い。  又、友人達が集まり仕事半分、プライベート半分の時も
 正直ある。そのどれもが当てはまる。

 要するに、私自身の小宇宙空間であろうか。
 これが私の、すべてとは言い切れないがそれに近いものがある。それゆえ、日々成長と、
 退化の繰り返しだ。 些細な事にも、心の底から感動する事もあるし、もう明日はないかと、
 落ち込むこともある。そんな日々の連続で17年目を迎えた。

そもそも、なぜロザリータを創める事になったのか? なぜ、ロザリータなのか?

昔から、小さい店には憧れがあった。家の近くにある、駄菓子屋、パン屋、文房具屋。親父1人か、
 家族でまかなっているシンプルな商売。・・・

 こんな仕事を、ぜひやりたい! とまではいかないにしても、仄かな親近感は合った。

 
 20代も後半になり、何か店をと思うがなかなかさざまらない普通の喫茶店は退屈そうだし、
 スナックというのも崩れた男のイメージだし。 私が言うのもなんだし今だにそう思うのだが、
 日本のバーというのも何となく胡散臭い。

 
 そんな時、たまたまローマにいく機会があった。もしそれが香港なら、今頃、≪和歌山飯店≫に
 なっていたかもしれない。何気なく行ってみたのだが、この時に、店のルーツ、核になるものを
 獲るきっかけになった。

 ヨーロッパの大人の包容と遊び心を、感じさせる人達。繁栄と退廃が同居する街並み。
 そしてそれにフィットする街角のバール。どれをとっても新鮮だった。
 日本でいうところの喫茶店かバーなのだが、それらとはまったく違う、
 まさに似て非なる物とはこの事だろう。 内装、接客,そしてそこに集う混ざり合う様々な客層。
 どれをとっても、私の、理想に近い風景だった。 

 これならやりたい。必ずできる.それも私でないとできるまい、とにかく自分に合っていた。  

何回か通ううち確信に変わっていった。何だろう、この空気感は?

 しかしそのまま地元に持ってきても無理がある。まずカウンターには椅子がいるし
 あんな僅かな量のエスプレッソではだめだ。おまけにカラオケ親父の登場だ。

  店の立上げを決めてから、どんどん構想は膨らんでいったが、現実を考えると徐々に不安になってきた
 、もしかして自分はとんでもない思い違いをしていて、大失敗するんじゃないか。イタリアに、
 目を向けてから、日本のBarや、喫茶店には目もくれなかったし、ましてジャパニーズナイズされた、
 中途半端なカフェの類は、何の参考にもならないし鼻につくばかりだ。
 
 市場調査もくそもあったもんじゃなかったし知ろうとも思わなかった

  

これでは危ういぞと心の中で黄ランプが点滅していた。

 日本の店を見て廻ろう。業者の目で確かめよう。すぐ決心し、妻と2人で視察旅行に出た。
 車で、北海道を1カ月間駆け回った。関西にこだわらず広い視野で高級店から若者の店、
 2人で手当たり次第に廻ってみた。

しかし何も得られなかった。都会のBar、田舎の喫茶店、観光地のカフェ、居酒屋、
 こだわりましたの若者好みのBar。 何処をとっても観光旅行としては、愉しかったが、
 視察としては何処も手応えが感じられず、ほぼ意味がないづくしで、唯一、牧場で馬蹄を
 オブジェとして売っていた事だけが、印象に残っている。

 妻と2人。まっゆっくり旅行ができたからいいか。
 店を始めたら当分無理だろうし。 小樽から敦賀港に着き、1夜明け、朝早い時間、
 駅前の商店街を歩き,小腹が空き、しけた地元の喫茶店に入った。

 何となくトーストとコーヒーで2人で過ごしていた、その時何かを感じた。
  具体的に何に、とは言えないが、心の中で、何かが弾けていた。
 バーテン1人で切り盛りしているどうてことのまったく無い店。

パッとしない地方都市の、特別な事も、奇をていようもない。
とって付けたものが何1つなく淡々と自分の仕事だけをするバーテン。 
メニューも、トーストとドリンクだけのシンプルな普通すぎる店。

 気がつけば何時の間にかカウンター席は一杯になり、それ以上を求めるでも無く
 それ以下では許さない常連客達で埋まっていた。

 すべての時間が淡々と始まり淡々と進んでるほんの日常のひとコマだった。

  これか!私の求めていた空気感は。1ヶ月の視察旅行の成果はこれで十分だった。 
          思い切って出て来た甲斐があった。

それからの約一ヵ月後、ロザリータは、淡々とスタートを切った。 

確信を得たボストンシェーカー




旅立ち                                            



はじめに、今回、この機会に私のささやかな自己紹介をかね遠い思い出を振りかえることにしよう。

色々とこの一年以上この場でのべさせてもらいありがたく思っている。

いったいお前は、何者なんだ?という人もいるだろう。
判って貰おうというおごり等ないが、少し知っておいて貰うのもお互い損にはならないはずだ。
今回は私の学生時代、はるかむかしの話にはなるが思い出してみよう。

 地元の工業高校を出たのが最終学歴だ。小学校から高校までの学生生活で、
 ほとんどと言っていいほどいい思い出は残っていない。

 一言で言えばみんなでひとつの輪になってというのが苦手なだけで、本当は強く望んでいるのだが
 うそ臭い仲良しごっこに長年悩まされてきた。 苦痛なだけの学校の時間から開放され自宅のテレビで
絵空事の学園ドラマに夢中になっていた。

    『自分の殻に閉じこもりがちなので気をつけてあげてください』
 
と通知簿に書かれ、母親にため息をつかせていた。
中学に入ると何となくバスケット部に入部するが結局は高校卒業までの6年間続ける事になる。
しかし何もモノにはならずじまいで、後で思えば思春期の気紛らわしと、体と体力づくりに貢献できただけで
メンタル面でのやれチームワークだのスポーツマンシップだの先輩後輩の礼儀だのは胡散臭さだけが残り
自分自身の何の身にもつかず猜疑心だけが後味に残った。
  
 クラスでも主席で入学したのはいいが進学校でもなく大学へ進むつもりもないのでこれからは
一切真面目に勉強すまいと心に決めた。 そんなところでせこせこ勉強しているくだらないグループから距離を
置き馬鹿騒ぎしている連中とはどうしてもなじめず、さりとて不良グループとはそりが合わず、
ようするにさめたやりにくい高校生だったのだ。
 中学からの中央市場でのバイトとバスケットだけは続けてはいたがそれ以外は無味乾ソウで
中途半端な生活や立場がいやでいやで仕方がなかった。 
    
    自分の身の置き所が何処にもなかったのだ。・・                    
 
・しかし卒業さえすれば何となく今の生活を変えられそうな、変なしがらみから逃れられそうな、かすかな希望という奴を感じていた。                                                  
 担任の教師を旨く丸め込め最後の学割を使い卒業式をさぼり雪を見に北海道へ行き、ほとぼりがさめたころ
卒業証書を取りに気の抜けた学校に行くとこっちの話も聞かず

   「こんな事なら許可するんじゃなかった。」

 恥じをかかされた自分の立場のみをごちる教師の顔に、ハイライトの煙をはきかけ持って行った土産物を
職員室の端に投げつけ目的の書類だけひったくると改造したバイクでいやいやながらも3年間通った校門を
爆音と共に駆け抜けた。                                                           
    「もう2度とこんな所来るかい!」と。・・・

就職の時担当の教師ともめ、「うちは職安とはちがうぞ。」この1事でこんな奴ら金輪際絶対信用するかと
机をひっくり返してきたので学校の世話など到底あてにもできず親の見つけてきた建設会社に取りあえず入社した。                                 

 が半年も経たぬうちに社長のバクチで倒産した  

。 その頃前々からのストレスで胃に親指大のポリープができやっと完治した頃会社は跡形もなくなっていた。
むしろせいせいし以前からの中央市場でのバイトでつなぎ知り合いの口利きで今度は建設資材の小さな会社へ
入社する事になる。  ほとんど家族でまかなってる会社で、人も善くしばらくは折り合いもよく
機嫌よく働いていたものだ。・・・

何年間が過ぎ少し世間を知ってくると自分の置かれている境遇が段々に見えてくる  。
何年働いても同じことの繰り返し、給料もほとんど変わらず会社の肝心な所は巧くはぐらかされハードな
労働なくせにすこしも先の見通しがない事に気がついた。  

 結局は安い人件費で世間知らずの若者をこき使い見通しのない現状維持をただ続けているだけで、
早い話が飼い殺し状態だった。  正当な企業努力や、要求を経営者に投げかけても聞こうとも耳を貸そうともせず暖簾に袖押しで、ある日突然ばかばかしくなった  。

 それまでの長年オリのようにたまっていたものがだんだんに形になりかけていた。何かといえば『異国の地』への好奇心だった。それまでは、ほとんど関西から出た事がなく『東京は街も人もどんなに垢抜けているんだろうか?。
北海道はどんなに素朴な人たちが地に足をつけ暮らしているんだろう?』 

 まだ見ぬ土地や人々の憧れが募っていた。

     こんな所で世間知らずのまま年をとり骨抜きにされるのは真っ平だ。
 せめて垣間見るだけでもしたい。有り余る若さのエネルギーは充電しっぱなしで放電の機会をやっと得たのは、
24歳ぐらいだったろうか。少し遅いが間に合わぬほどでもない。

  1年間延ばしっぱなしの髪を色々なメッセージを書きなぐったヘルメットで覆い派手さの
 微塵もない黒とグレーのマシン。・・・好き放題にいじりまくり元々付いていたパーツ類を取りはぶきメーター類や計器類を捨て去り黒のスプレーで塗りつぶしストイックなまでシンプルに、その上に通信販売で購入したパーツをつなぎ合わし最早、自分の分身のごとく 原型を跡形もなくチョップし高く伸ばしたハンドルとみじかくカットしほとんど役に立たないショックアブソーバにペタペタのシートに体を預け手製の鉄筋をおりまげて作ったシーシーバーに必要最低限の荷物をくくりつける  。北へ北へと海の向こうはソ連領というさいはての所をめざし旅立った

  。それがその男のそれまでの、何をどうやっても、誰と会っていても、我が身のオキドコロのどうしても見い出せぬどうしょうもないはぐれ者だった男。その文字通りの転機・旅立ちになった。・・・  それが20何年以前のわたしの姿だ。

                                        
  過去の話は苦手だが私の人生の第1章はこんなところか。あまりいい話でもないかもしれないが真実はこんなものか。賛否両論は当たり前だがこんな男の話もたまにはいいだろう。これからもお付き合いをいただければうれしく思う。                                      

    ふと振り返り懐かしみと心新たなボストンシェーカー。




















ピンチョの丘


ピンチョの丘

店をする以前、何度か妻と一緒に訪れ、珍道中を繰り返してきた。恐れ知らずとはいえ何度かのピンチを交わしてきた。とぼけたエピソードは尽きないが私なりに印象深い話を幾つか紹介しよう。

  ローマの有名すぎる名所スペイン階段。世界中から花とジェラートを求め人々が集まる広場。その階段を登りきった所にいくつかのホテルと教会がある。その中のこじんまりとしたホテルに1週間ほど滞在した事があってローマ市内を色々と散策していた。
 
  旅に出ると気分がハイになる。日中いつもの如くあちらこちらと歩き廻り、夜は疲れ果て、早寝早起きで過ごしていた。あるとき何時だかしらないがベッドの中でバッチリ目が醒めてしまった。夜明けまでかなり時間があり部屋はまっ暗く妻はまだまだ熟睡している。再度寝ようと試みるがするが、時差ぼけの影響も手伝い全然眠れない。 
「もういいか。」
起きる事にした。妻を起こさないようにそっと着替え、やばい奴に絡まれてもと小銭入れとルームキィだけをポケットに入れごついジャケットをはおり夜明け前の、ホテルを後にした。

 季節は1月下旬の冬真っ只中。刺すような冷気がむしろ心地よかった。
白い息を吐きながらどこへ行こうか、辺りはまだ真っ暗だ。その辺りは丘になっていて、もっと上へと道が続いている。
 馬鹿は高い所を目指すというが,ふと行ってみる気になり なだらかな坂を登っていった。上の方に着くと大きな門があり門の中は森のようになっており
   
    「入っておいで」
  
  と言わんばかりに開かれている。夜中の森、少し躊躇したが別世界への入口のようで好奇心の方が勝ってしまい誘われるように入っていった。
石畳の歩道が続き、辺り一面はやはり森になっていて迷路のように道は続いているが暗いのでよくわからない。 一本道だから迷う事もないだろうとどんどんと先へと進んでいく。視界が少し開け簡単な広場のような所に出た。
  
 突然、眼の前に巨大なローマ時代のレプリカだか本物だかのダビデ像のような石像が立ちはだかり思わず息を呑んだ。 幾体もが並びトレビの泉のように噴水になっている。
  森の中に突然現われまさに生きづいている様な錯覚をする。いやに自然の中でリアル間がある。しばらく見とれていると段々に目に慣れ、まさしく不思議の森に来た様で楽しくなってきた。
  
  もっと何かあるに違いない。 道に沿って行くと色々な植物園のような所に出た。真夜中の無言の植物園もシュールで非日常を体験できる。どうやらここは、広大な森林公園らしい。動物園らしき矢印もあり近くで暗闇での獣達の鳴き声や息遣いが感じられたり、思いもがけず広大な芝生の運動場にも出た。
 あまりあちこち行くと迷子になりそうだし、本当に合いたくない手合いにも遭遇しそうだし、そろそろ戻るとするか。
  
  一体何時間ほどウロウロしていたろうか時計もないから想像できない。来た道を戻っていると、道中、さまざまな大きいのから地蔵さんのようなサイズから人間やら妖怪じみたキャラクター物から石像、彫刻やらオブジェやらが無数に点在していてまったく飽きない。
 
  少し歩き疲れた頃、白じらと夜が明け始める。入ってきた門を出るとホテルと反対方向にまだもっと上へと道が続き高台へと延びている。ものはついでと思わず登ってしまいどんどん進むと行き止まり付近が展望台になっていてベンチやらが設置されていた。広場になっていて観光スポットのようだが時間が時間だけに人っ子独りいない。もし誰か居てもいやだが・・・。
 
 すると、もうしあわせた様に陽がさし始め、一気に辺りが明るくなってきた。展望台の手すりになっている所に立つとローマの街全体を見下ろせた。段々に黄金色に染まってゆく街の全景が浮かび上がってくる。まさに永遠の都ローマの夜明けが始まった。

     遥かかなたに古代、コロッセオやフォロロマーノなどの遺跡群。 
      少し手前にはルネサンスの頃の聖サンピエトロやカンピトリオなどの建築物。
     真下にはブランド群が軒を並べるビァコンドッティの今の近代ローマ。

これほどの贅沢なパノラマは他にないだろう。眼下のフェリーニの世界そのままのスペクタクルにしばらく魅入ってしまった。・・・
  
 そろそろ下の商店街への搬入のおじさん達や小型トラック達で慌ただしくなってきた
 ポケットの小銭入れのコインでエスプレッソくらいは飲めるか。
 それともおそらくまだ夢の中にいる妻に気付かれない様ベッドの中に潜りこむか。
 
            まっさらなローマの1日が始まる。


                         フェデリコに改名したかったボストンシェーカー


イタリア賛歌

その昔バブルの頃と前後してイタリアブームが到来した
。島国日本が初めて欧州の超一流を恒間見た頃だった。

日本のD.Cなどにあきあきしていた私もブランドファッションだけではなく、文化芸術、ライフスタイル、
何もかもに刺激され何度も足しげくも足を運んだものだ。
 
  観る物、触れる物、感じる物、すべてに魅了された。古代と中世そして現代、豊かさと貧しさ 、
 繁栄と退廃、それらがお互いに同居し融合され、そしてそれらを彼ら持ち前の陽気さで包み込んでしまう国民性。
後味して感じるのは結局豊かさだった。

そのころの日本のはかなげなバブルの豊
かさじゃなく壮大な歴史に裏打ちされた本物の豊かさだった。
日本に戻るたびだんだんと憂鬱になった。
何もかもがくすんだグレーにしか見えない街並、何を考えてるかわからない人々の表情・
華やかさのかけらも感じられない商店街。 戻ってきて憂鬱な気分で約1ヶ月程、家に引きこもった事もある。

久しぶりに外へ出ると旅行会社へ再度申し込みに行っていた。
 
  何度も行き来するうち欧州の空気感を地元でつくってみようと決心した。
 
その頃、心酔していたデザイナ-がヴェルサーチとモスキーノだった。
彼らは常に期待に応えてくれた。ミラノの本店にも何度か足を運んだ。
キラ星のごとく数あるイタリアンブランドの中でもこの2人は特別な存在だった。
あまりにも芸術性ゆえ売ち出しも商品も極端だった。もちろん値段もだが・・・。  
それまでは、絵描きだったモスキーノがデザイナーになったのはヴェルサーチの勧めだったそうだ。                                      

   世間一般には奇抜すぎるゆえ敬遠されがちだったが私の感性とはぴったりだった。
私の着る服はこれと決めていた。ある日、T.Vでミラノファッションのデザイナー達のインタビューが
あり何気なく観ているとやはりこの2人だけは異彩を放っていた。
        “最近のファッション界はおかしい。シーズンごとにコロコロ目まぐるしく小手先だけを変え、
売っていく事だけしかみんな考えていない。もっと本当に質のいい物づくりをこれから我々デザイナー達が
責任を持って考えていくべきだ。”

  あの過激でアナーキーな外見とは裏腹にしっかりと地に足を着けた真っ当すぎるモスキーノの
コメントに驚かされた。 続いてヴェルサーチ
  
  “何も上から下まで私のブランドでなんて望んでなんかいない。
しかしどこか一点だけでも私の商品を加えるだけで全体の印象が変わるでしょう。又、
それ位の物をつくっている自負が私にはある”
 
 アーティストとしてのプライドとストイック性。 おごる事なく身につける側の立場を
十分考えた上でのコメント、他のデザイナー達の

 “ファッションとは芸術人生を豊かにする。とても素晴らしい事なのです” 
等などの建前話、理想論とはあきらかに一線を引いていた2人のコメントが印象に残った。
同時代に生きている喜びにまで感じ、これからもずっとこの2人と共に生きようとまで思った程だ。
 
   だがはからずも、ほんの何年か後に2人ともこの世の人ではなくなってしまった。
 しかしブランドだけは残り、しばらくは様子をうかがっていたが途端に作品の中に
確かに存在していたスピリットの様な物が失せてしまった気がしていつの間にか心が離れていってしまった。
 そのあおりかも知れないがファッション界全体に興味が失せてしまいその後、
心躍る程のブランドもなくなりもうどうでもよくなってしまった。                            
 
  それから、月日はいくつも流れたがファッション界の流れもすっかり様変わりし今では
量販店にある商品も高級ブティックで扱われる商品も見た目左程、
変わらない気がするのは私だけなのか。 今、自分の年齢を把握し惨めな若作りでもなく、
気のぬけたずんだれたオヤジでもなく、自然体でまわりの風景に邪魔にならない服装をと
思うのはもう年のせいなのか。          

                                      みずみずしい中年を目指す  ボストンシェーカー



VOL 17    ゆめ                                                 

  子供の頃から  ゆめ  を見なさい。目標を持ちなさいと廻りの大人達に
何度となく言われ続けてきた。ゆめ  とは理想、願望、欲望、それらもろもろへの想いと、
眠っている間に感じる現象との違いがはっきりしない時代から背中を押され続けてきた。
やがて物心を持ち始めた頃、フォークソングブームで、少し年上の兄貴達から色々な
メッセージを聞かされたものだ。子供と大人との  狭間  だった自分は、まだ何も実感を
持てずただ、たくろうや泉谷の歌声をおぼろげに聞き流していた。 
現実味をおびてきたのは自分で働き始めての頃だった。
 ぼーっとしてたら廻りにほっていかれる つっぱっていたら望んでもいない世界に引っぱられる。
 折り合いのつけられる世界を自分の内から追い求めるしかなかった。
未知な大人の世界を介間みるゾクゾクする高揚感と、すねかじりにはもうもどれない不安感とで
確かな何かにすがりつきたい思いの日々だった。 

知らない世界への期待、 自分の未知の可能性への胸騒ぎ、お祭り騒ぎの様な日々の
連続だった。 世間もその頃は全体が右肩上がりの元気があり、エネルギーの
ぶつかり合いが当然のような 若者文化と大人の道理とのせめぎ合い。
「ゆめ」など改めて考える程でもないそんな日々だった・・・。
   時は流れ、いつしか世の中全体の肩の力が抜け、快適な未来が約束された錯覚をした。
 今までのすべてを覆すとんでもないドンデン返しがすぐ近くまで迫っている事を誰もが予想できなかった。  
       そして文字通りのバブルの崩壊・・・


  人の心、他人を思いやる優しさなど今はもうすでにパロディのようになってしまい
虚ろに  ゆめ  を手に入れようと若者達がさびれた街角でほそぼそと歌っている。 

 自分達がかつて熱い思いを焦がした時代はなんだったのか。
バカな幻想だったのか。とんでもない勘違いだったのか。 
ただ その時代のしたたかな大人達に踊らされただけだったのか。  
 かつての若かった自分達に熱い火をつけた当のメッセンジャー達は、
ブラウン管の向こうで気の抜けたただの変なオヤジになり、若者達に媚びうすら笑いを浮べている。
それも又、無理もないのかと納得してしまう自分自身も何かむなしい。

大人達がくだらない雑念に振り回されず、いいゆめを語り合える世の中。
 自分達の身の丈に応じた希望を見い出し、お互い何かの手応えをさぐり合える
 もうそんな時代は無理なのか。   

ぶらくりはどう? 本町はこれからどうなるの? いろんな人達に問われる機会が最近増えてきた。
 みんなの関心が高まってきているのは大歓迎だが、内心複雑だ。 
無料景品セール、倒産セール、閉店セール。飲み放題 食べ放題。 
そんな時にだけ、今まで眠っていたような人達がどっと街中にあふれ平日はうそみたいに寄り付きもしない。
 おしゃれなセンスのいい店がこの辺には見当たらないと日頃から文句を言いつつ
、いざ、今までにないあか抜けた店がオープンしてもしばらくすると、
あんな店自分達には似合わない、敷居が高い 値段が高い などと勝手な言い訳や
思い当たる限りのけちを付け始め、しばらくすると完全無視を決めこんで平気で手の平を返してくれる。
 
 ああしたらどう? こうしたらどう? と誰でもが思いつくど素人考えを店主に押し付け、
結局は店にとってはなんの身にもならず、やがて無責任なアドバイスにどちらも飽きた頃、
いつの間にかな目新しい別の店にと 河岸を変えてしまう。
 商いに何の関係もないのに廻りにいる人達のプライベートを根掘り葉掘り聞き出し、
聞いてもいない当人のプロフィールをまくし立て、開店当初の頃の初々しい 程よい心地の良い 
いい緊張感を 所帯くさいローカルな自分達だけの場末の空気に平気で入れ替えてしまい、
そのうち御本人が特別扱いされない相手にされないと気付くや否や、自分のとりまき達を
巻き込んで急に寄り付きもしなくなる
 

 そんな現状の繰り返しを今までに何度となく目のあたりにしてきて
何かやればいいのに、目新しいことを誰かがすればいいのにと泣き言を
いわれても二の足を踏むのも当然だろう。
 地に足を着け、ここ和歌山で、その場限りの使い捨てにされるのではなく何とか
斬新で面白い良い物をと挑み今までに何人の志を持った先輩や仲間たちが去っていったろうか。

   ゆめ  が最早パロディ化した今こそできる事があるのだろうか。
 こんな時代にこそトライできる大の大人達が賭けてみるに値する何かの金鉱、鉱脈に
値する手応えのもてるものはないのだろうか。 人の後ろをただついていくだけで
安心する発想しかないアイガモを独り立ちするハヤブサに変える魔法の杖はないのだろうか。
  ある。 それはあると思う。 それは何かとははっきりと具現化して言えないが必ずあるはずだ。
 それがゆめだろうか。 そいつが今の私にとってのゆめなのだろうか。

しらけてしまうのはいつでもできる。 途中でなげてしまうのは負け犬の専売特許だ。
 今までの長い積み重ねだった努力や生き方が必ずや報われ真っ当な思いや前向きな感情が
永い間に凝縮圧縮され、今ここぞとタイミングを見計らい思いもよらない力強い火花が
磨きあげられた鋭い感性の如くの点火プラグから打ち出され、信じられないほどの巨大な
エネルギーが開花大爆発されるはずだ。 

 それまでのくすみっぱなしで、モノクロのかすんだ過去にすがるしか道のない商店街に
観るも鮮やかな天然色が授けられ、百年開かずの間のごときの何もかものあきらめの
象徴だったシャッター群が揃って開かれる時がくる。

  たとえカラ元気でも。たとえ1人よがりでもと。結局、自分1人だけになってしまってもと決意した時、
そしてそれらの感覚が自分の肉体の隅々にまでゆきわたり・・ いつかそんな事すらも、
もう忘れさられた様にみんなが見えた頃、 そのゆめ  がかなえられそうな気がする。  

 ぶらくり丁、本町、近い将来、和歌山全体のゆめの街にもう一度返り咲こうではないか!       
    これはまじな話だぜ。

 

ゆめを探求するボストンシェーカー

ロザリンコラム集vol,1
ロザリン日誌に戻ります

このページには、今までの過去にロザリン日誌にて、投稿されたコラム集を、掲載させてもらいます。単行本感覚で楽しんでください。

   
夜明け前、 旅立ち、 ゆめ、
  
  イタリア賛歌、  ピンチョの丘、