そもそも、なぜロザリータを創める事になったのか? なぜ、ロザリータなのか?
昔から、小さい店には憧れがあった。家の近くにある、駄菓子屋、パン屋、文房具屋。親父1人か、
家族でまかなっているシンプルな商売。・・・
こんな仕事を、ぜひやりたい! とまではいかないにしても、仄かな親近感は合った。
20代も後半になり、何か店をと思うがなかなかさざまらない普通の喫茶店は退屈そうだし、
スナックというのも崩れた男のイメージだし。 私が言うのもなんだし今だにそう思うのだが、
日本のバーというのも何となく胡散臭い。
そんな時、たまたまローマにいく機会があった。もしそれが香港なら、今頃、≪和歌山飯店≫に
なっていたかもしれない。何気なく行ってみたのだが、この時に、店のルーツ、核になるものを
獲るきっかけになった。
ヨーロッパの大人の包容と遊び心を、感じさせる人達。繁栄と退廃が同居する街並み。
そしてそれにフィットする街角のバール。どれをとっても新鮮だった。
日本でいうところの喫茶店かバーなのだが、それらとはまったく違う、
まさに似て非なる物とはこの事だろう。 内装、接客,そしてそこに集う混ざり合う様々な客層。
どれをとっても、私の、理想に近い風景だった。
これならやりたい。必ずできる.それも私でないとできるまい、とにかく自分に合っていた。
何回か通ううち確信に変わっていった。何だろう、この空気感は?
しかしそのまま地元に持ってきても無理がある。まずカウンターには椅子がいるし
あんな僅かな量のエスプレッソではだめだ。おまけにカラオケ親父の登場だ。
店の立上げを決めてから、どんどん構想は膨らんでいったが、現実を考えると徐々に不安になってきた
、もしかして自分はとんでもない思い違いをしていて、大失敗するんじゃないか。イタリアに、
目を向けてから、日本のBarや、喫茶店には目もくれなかったし、ましてジャパニーズナイズされた、
中途半端なカフェの類は、何の参考にもならないし鼻につくばかりだ。
市場調査もくそもあったもんじゃなかったし知ろうとも思わなかった。
これでは危ういぞと心の中で黄ランプが点滅していた。
日本の店を見て廻ろう。業者の目で確かめよう。すぐ決心し、妻と2人で視察旅行に出た。
車で、北海道を1カ月間駆け回った。関西にこだわらず広い視野で高級店から若者の店、
2人で手当たり次第に廻ってみた。
しかし何も得られなかった。都会のBar、田舎の喫茶店、観光地のカフェ、居酒屋、
こだわりましたの若者好みのBar。 何処をとっても観光旅行としては、愉しかったが、
視察としては何処も手応えが感じられず、ほぼ意味がないづくしで、唯一、牧場で馬蹄を
オブジェとして売っていた事だけが、印象に残っている。
妻と2人。まっゆっくり旅行ができたからいいか。
店を始めたら当分無理だろうし。 小樽から敦賀港に着き、1夜明け、朝早い時間、
駅前の商店街を歩き,小腹が空き、しけた地元の喫茶店に入った。
何となくトーストとコーヒーで2人で過ごしていた、その時何かを感じた。
具体的に何に、とは言えないが、心の中で、何かが弾けていた。
バーテン1人で切り盛りしているどうてことのまったく無い店。
パッとしない地方都市の、特別な事も、奇をていようもない。
とって付けたものが何1つなく淡々と自分の仕事だけをするバーテン。
メニューも、トーストとドリンクだけのシンプルな普通すぎる店。
気がつけば何時の間にかカウンター席は一杯になり、それ以上を求めるでも無く
それ以下では許さない常連客達で埋まっていた。
すべての時間が淡々と始まり淡々と進んでるほんの日常のひとコマだった。
これか!私の求めていた空気感は。1ヶ月の視察旅行の成果はこれで十分だった。
思い切って出て来た甲斐があった。
それからの約一ヵ月後、ロザリータは、淡々とスタートを切った。
確信を得たボストンシェーカー
店をする以前、何度か妻と一緒に訪れ、珍道中を繰り返してきた。恐れ知らずとはいえ何度かのピンチを交わしてきた。とぼけたエピソードは尽きないが私なりに印象深い話を幾つか紹介しよう。 これほどの贅沢なパノラマは他にないだろう。眼下のフェリーニの世界そのままのスペクタクルにしばらく魅入ってしまった。・・・ |
イタリア賛歌
その昔バブルの頃と前後してイタリアブームが到来した
。島国日本が初めて欧州の超一流を恒間見た頃だった。
日本のD.Cなどにあきあきしていた私もブランドファッションだけではなく、文化芸術、ライフスタイル、
何もかもに刺激され何度も足しげくも足を運んだものだ。
観る物、触れる物、感じる物、すべてに魅了された。古代と中世そして現代、豊かさと貧しさ 、
繁栄と退廃、それらがお互いに同居し融合され、そしてそれらを彼ら持ち前の陽気さで包み込んでしまう国民性。
後味して感じるのは結局豊かさだった。
そのころの日本のはかなげなバブルの豊かさじゃなく壮大な歴史に裏打ちされた本物の豊かさだった。
日本に戻るたびだんだんと憂鬱になった。
何もかもがくすんだグレーにしか見えない街並、何を考えてるかわからない人々の表情・
華やかさのかけらも感じられない商店街。 戻ってきて憂鬱な気分で約1ヶ月程、家に引きこもった事もある。
久しぶりに外へ出ると旅行会社へ再度申し込みに行っていた。
何度も行き来するうち欧州の空気感を地元でつくってみようと決心した。
その頃、心酔していたデザイナ-がヴェルサーチとモスキーノだった。
彼らは常に期待に応えてくれた。ミラノの本店にも何度か足を運んだ。
キラ星のごとく数あるイタリアンブランドの中でもこの2人は特別な存在だった。
あまりにも芸術性ゆえ売ち出しも商品も極端だった。もちろん値段もだが・・・。
それまでは、絵描きだったモスキーノがデザイナーになったのはヴェルサーチの勧めだったそうだ。
世間一般には奇抜すぎるゆえ敬遠されがちだったが私の感性とはぴったりだった。
私の着る服はこれと決めていた。ある日、T.Vでミラノファッションのデザイナー達のインタビューが
あり何気なく観ているとやはりこの2人だけは異彩を放っていた。
“最近のファッション界はおかしい。シーズンごとにコロコロ目まぐるしく小手先だけを変え、
売っていく事だけしかみんな考えていない。もっと本当に質のいい物づくりをこれから我々デザイナー達が
責任を持って考えていくべきだ。”
あの過激でアナーキーな外見とは裏腹にしっかりと地に足を着けた真っ当すぎるモスキーノの
コメントに驚かされた。 続いてヴェルサーチ
“何も上から下まで私のブランドでなんて望んでなんかいない。
しかしどこか一点だけでも私の商品を加えるだけで全体の印象が変わるでしょう。又、
それ位の物をつくっている自負が私にはある”
アーティストとしてのプライドとストイック性。 おごる事なく身につける側の立場を
十分考えた上でのコメント、他のデザイナー達の
“ファッションとは芸術人生を豊かにする。とても素晴らしい事なのです”
等などの建前話、理想論とはあきらかに一線を引いていた2人のコメントが印象に残った。
同時代に生きている喜びにまで感じ、これからもずっとこの2人と共に生きようとまで思った程だ。
だがはからずも、ほんの何年か後に2人ともこの世の人ではなくなってしまった。
しかしブランドだけは残り、しばらくは様子をうかがっていたが途端に作品の中に
確かに存在していたスピリットの様な物が失せてしまった気がしていつの間にか心が離れていってしまった。
そのあおりかも知れないがファッション界全体に興味が失せてしまいその後、
心躍る程のブランドもなくなりもうどうでもよくなってしまった。
それから、月日はいくつも流れたがファッション界の流れもすっかり様変わりし今では
量販店にある商品も高級ブティックで扱われる商品も見た目左程、
変わらない気がするのは私だけなのか。 今、自分の年齢を把握し惨めな若作りでもなく、
気のぬけたずんだれたオヤジでもなく、自然体でまわりの風景に邪魔にならない服装をと
思うのはもう年のせいなのか。
みずみずしい中年を目指す ボストンシェーカー
VOL 17 ゆめ
子供の頃から ゆめ を見なさい。目標を持ちなさいと廻りの大人達に
何度となく言われ続けてきた。ゆめ とは理想、願望、欲望、それらもろもろへの想いと、
眠っている間に感じる現象との違いがはっきりしない時代から背中を押され続けてきた。
やがて物心を持ち始めた頃、フォークソングブームで、少し年上の兄貴達から色々な
メッセージを聞かされたものだ。子供と大人との 狭間 だった自分は、まだ何も実感を
持てずただ、たくろうや泉谷の歌声をおぼろげに聞き流していた。
現実味をおびてきたのは自分で働き始めての頃だった。
ぼーっとしてたら廻りにほっていかれる つっぱっていたら望んでもいない世界に引っぱられる。
折り合いのつけられる世界を自分の内から追い求めるしかなかった。
未知な大人の世界を介間みるゾクゾクする高揚感と、すねかじりにはもうもどれない不安感とで
確かな何かにすがりつきたい思いの日々だった。
知らない世界への期待、 自分の未知の可能性への胸騒ぎ、お祭り騒ぎの様な日々の
連続だった。 世間もその頃は全体が右肩上がりの元気があり、エネルギーの
ぶつかり合いが当然のような 若者文化と大人の道理とのせめぎ合い。
「ゆめ」など改めて考える程でもないそんな日々だった・・・。
時は流れ、いつしか世の中全体の肩の力が抜け、快適な未来が約束された錯覚をした。
今までのすべてを覆すとんでもないドンデン返しがすぐ近くまで迫っている事を誰もが予想できなかった。
そして文字通りのバブルの崩壊・・・
人の心、他人を思いやる優しさなど今はもうすでにパロディのようになってしまい
虚ろに ゆめ を手に入れようと若者達がさびれた街角でほそぼそと歌っている。
自分達がかつて熱い思いを焦がした時代はなんだったのか。
バカな幻想だったのか。とんでもない勘違いだったのか。
ただ その時代のしたたかな大人達に踊らされただけだったのか。
かつての若かった自分達に熱い火をつけた当のメッセンジャー達は、
ブラウン管の向こうで気の抜けたただの変なオヤジになり、若者達に媚びうすら笑いを浮べている。
それも又、無理もないのかと納得してしまう自分自身も何かむなしい。
大人達がくだらない雑念に振り回されず、いいゆめを語り合える世の中。
自分達の身の丈に応じた希望を見い出し、お互い何かの手応えをさぐり合える
もうそんな時代は無理なのか。
ぶらくりはどう? 本町はこれからどうなるの? いろんな人達に問われる機会が最近増えてきた。
みんなの関心が高まってきているのは大歓迎だが、内心複雑だ。
無料景品セール、倒産セール、閉店セール。飲み放題 食べ放題。
そんな時にだけ、今まで眠っていたような人達がどっと街中にあふれ平日はうそみたいに寄り付きもしない。
おしゃれなセンスのいい店がこの辺には見当たらないと日頃から文句を言いつつ
、いざ、今までにないあか抜けた店がオープンしてもしばらくすると、
あんな店自分達には似合わない、敷居が高い 値段が高い などと勝手な言い訳や
思い当たる限りのけちを付け始め、しばらくすると完全無視を決めこんで平気で手の平を返してくれる。
ああしたらどう? こうしたらどう? と誰でもが思いつくど素人考えを店主に押し付け、
結局は店にとってはなんの身にもならず、やがて無責任なアドバイスにどちらも飽きた頃、
いつの間にかな目新しい別の店にと 河岸を変えてしまう。
商いに何の関係もないのに廻りにいる人達のプライベートを根掘り葉掘り聞き出し、
聞いてもいない当人のプロフィールをまくし立て、開店当初の頃の初々しい 程よい心地の良い
いい緊張感を 所帯くさいローカルな自分達だけの場末の空気に平気で入れ替えてしまい、
そのうち御本人が特別扱いされない相手にされないと気付くや否や、自分のとりまき達を
巻き込んで急に寄り付きもしなくなる
そんな現状の繰り返しを今までに何度となく目のあたりにしてきて
何かやればいいのに、目新しいことを誰かがすればいいのにと泣き言を
いわれても二の足を踏むのも当然だろう。
地に足を着け、ここ和歌山で、その場限りの使い捨てにされるのではなく何とか
斬新で面白い良い物をと挑み今までに何人の志を持った先輩や仲間たちが去っていったろうか。
ゆめ が最早パロディ化した今こそできる事があるのだろうか。
こんな時代にこそトライできる大の大人達が賭けてみるに値する何かの金鉱、鉱脈に
値する手応えのもてるものはないのだろうか。 人の後ろをただついていくだけで
安心する発想しかないアイガモを独り立ちするハヤブサに変える魔法の杖はないのだろうか。
ある。 それはあると思う。 それは何かとははっきりと具現化して言えないが必ずあるはずだ。
それがゆめだろうか。 そいつが今の私にとってのゆめなのだろうか。
しらけてしまうのはいつでもできる。 途中でなげてしまうのは負け犬の専売特許だ。
今までの長い積み重ねだった努力や生き方が必ずや報われ真っ当な思いや前向きな感情が
永い間に凝縮圧縮され、今ここぞとタイミングを見計らい思いもよらない力強い火花が
磨きあげられた鋭い感性の如くの点火プラグから打ち出され、信じられないほどの巨大な
エネルギーが開花大爆発されるはずだ。
それまでのくすみっぱなしで、モノクロのかすんだ過去にすがるしか道のない商店街に
観るも鮮やかな天然色が授けられ、百年開かずの間のごときの何もかものあきらめの
象徴だったシャッター群が揃って開かれる時がくる。
たとえカラ元気でも。たとえ1人よがりでもと。結局、自分1人だけになってしまってもと決意した時、
そしてそれらの感覚が自分の肉体の隅々にまでゆきわたり・・ いつかそんな事すらも、
もう忘れさられた様にみんなが見えた頃、 そのゆめ がかなえられそうな気がする。
ぶらくり丁、本町、近い将来、和歌山全体のゆめの街にもう一度返り咲こうではないか!
これはまじな話だぜ。
ゆめを探求するボストンシェーカー