アドバイザー


水谷 実雄
(ミズタニ ジツオ)


生年月日:1947/11/19


宮崎県串間市出身のプロ野球選手(外野手→一塁手)。
2006年まで阪神タイガース二軍打撃コーチを務めた。現在は西宮市で飲食店を経営


来歴・人物


宮崎商業高校では2年夏の甲子園でベスト4。
1965年、ドラフト4位で広島カープに投手として入団。
しかしいきなり腎臓病を患い入院、1年目の日南キャンプは不参加。以来「ジンちゃん」の愛称で親しまれる。
2年目に外野手へ転向。
しばらくは2軍暮らしが続き戦力外リストに入ったこともあったが、上田利治、関根潤三、広岡達朗各コーチらの指導により1970年に1軍定着。

1975年の広島初優勝ではウイニングボールを掴んだ。
また1978年には首位打者を獲得(打率.348は球団記録)し、山本浩二(後の監督)や「鉄人」の愛称で親しまれた衣笠祥雄らとともに赤ヘル黄金時代を築いた。
アレックス・ラミレスのような、バットのヘッドをピッチャーに向けて威嚇するように構え、ピッチャーの球種を読んで、球をおもっいきり振り抜く勝負強い打撃が特徴だった。

不動の五番打者として活躍するもチームが4位に終わった1982年オフ、加藤英司との大型トレードにより阪急ブレーブスに電撃移籍。
1983年移籍後は新外国人のブーマー・ウェルズを差し置いて四番・指名打者を任され、130試合フル出場。114打点で打点王を獲得、また36本塁打で自身初の30本塁打をマークする。
しかし1984年ロッテとの開幕戦で土屋正勝投手から頭部に死球を受けて調子を崩し、1985年のシーズン終了後に現役を引退した。

引退後は1年だけ関西テレビで解説者を務めた後、阪急、古巣・広島、近鉄、ダイエー、中日、阪神の打撃コーチを歴任。
1995年には鈴木啓示監督の途中辞任を受け、近鉄の監督代行をシーズン終了まで務めた。
この間高橋智、江藤智、前田智徳、金本知憲、中村紀洋、城島健司、井口資仁、松中信彦、井端弘和、福留孝介など多くの強打者・巧打者を育てた。
単身若手の独身寮に住み込み、熱血なスパルタ打撃指導をするなど、コーチとして非常に評価が高い。


略歴



所属球団



経歴・タイトル



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