『奄美・沖縄エッセイ』064
■■■■■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 2012.02.22 ■
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◆■■ ---------- ■ 奄美・沖縄エッセイ ■◇■
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  □◆□◆□▼ ワールド・ミュージック再考 ▼□◆□◆□

ハイタイ。年も変わって、いつのまにか、一ヶ月も過ぎ、旧正月も節
分も終わってしまいました。そして、暦は春なのに、パソコンに向か
っている本日(02.08)、窓の外では雪が降っています。先日は「最
強寒波」というのがシベリアから日本列島を襲い、その雪の多さや被
害が繰り返し報道されていました。しかし、私が住む京都市内では、
それほど雪が積もることなく、ましてや、奄美や沖縄では、「さすが
に寒い」というつぶやきはネット上に散見するものの、もちろん雪が
降ることはありません。日本列島の、風土の違いを感じます。

そのような寒い日に、薩摩の琉球侵略直前に王府に滞在したことで知
られる、高僧袋中上人が興隆した檀王法林寺のすぐ西、三条川端東北
隅のビルにあるBOOK・OFFにふらりと立ち寄りました。最近は、一冊
の古書を探して、古書店巡りをすることもほとんど無くなり、掘り出
し物探しに同店に立ち寄ることも無くなっていたのですが、その日は
久しぶりに立ち寄ったのです。場所がら混み合う店内を人をかき分け
歩いていると、雑誌コーナーに、『ロッキング・オン・ジャパン』他
の大量の音楽雑誌のバックナンバーを見つけました。そこには、とて
も古いモノも並んでいます。

この手の雑誌は、職場の講義や演習で、Coccoを取り上げるようにな
ってから、彼女を「研究」する大切な資料としてバックナンバーに目
を通す癖が付いていて、その時も、しゃがみ込むようにして、背表紙
を追っていました。その中に「沖縄ポップ台風」というタイトルを見
つけました。『MUSIC MAGAZINE』1990年8月号。今から20年以上前に
刊行された雑誌です。値段は200円でした。目次を見ると「沖縄ポッ
プタイフーン再上陸」という巻頭特集があり、迷わずに買い込みまし
た。中には、喜納昌吉や照屋林賢のインタヴューも、若い頃の彼らの
写真とともに収められていました。

他には、原田尊志「島うたは今を生きる。郷愁とはかかわりなく。」
という、なかなか硬派で本格的の島うたのディスク(カセットも含む
)紹介や、そして、いちばん気になった、伊達政保という人の「そこ
は日本ではない。リゾートでもないのだ。」という、沖縄音楽につい
ての批評が載せられていました。帰りの電車で、これに目を通してい
ると、喜納昌吉をオキナワとして安易に受け入れる本州弧の風潮が批
判されていました。これは、喜納のインタヴューと合わせて読むとと
ても面白いものでしたし、真の沖縄は、安易にヤマト(本州弧)に取
り込まれることを拒んでいるというその批評の内容は、私には納得の
いく、とてもすぐれた内容でした。

その文章の最後に、次のような一文を見つけました。「ワールド・ミ
ュージックとは、精神的に自己のアイデンティティーを求めて反乱す
る植民地の音楽である。」この、「ワールド・ミュージック」という
表現になんとなく胡散臭いものを感じていた私は、この表現に「それ
ならば」と納得してしまいました。当時、レコード店では、沖縄音楽
は「ワールド・ミュージック」のコーナーにありました。もちろん「
植民地」という言い方に抵抗がある人は居るでしょう。しかし、伊達
氏は、この文章の中で、「文化的植民地」という言い方をしており、
本州弧の文化シーンに次々と消費されていた沖縄の文化について、こ
のように表現しているのです。とくに「ブーム」として取り上げられ、
消えていった沖縄音楽を思い出せば、それはすぐにわかるはずです。

そして、いまやグローバル化の時代です。日本という枠組みを超えて
、地球規模で文化が平準化しています。日本の音楽の問題を、琉球弧
と本州弧の対立で捉えていたこの雑誌刊行の時代よりも、問題がもっ
と深刻化、複雑化しているように思います。いつも送っていただく、
兵庫沖縄協会の『榕樹』363号(2012.02.07)は、「琉球新報」の昨
年11月の沖縄県民意識調査を紹介していました。それによりますと、
「沖縄文化を誇りに思うか?」という問いに、「とても」と「まあ」
を合わせて、94.1パーセントも居るとのことでした。この数字は、日
本の府県で同じ内容の調査を実施したとしても、おそらく最も高いの
ではないでしょうか。

しかし、『榕樹』の記事では、「文化」の内実について記していませ
ん。もちろん、世代間の相違については触れられていましたが、それ
ぞれの世代が「沖縄の文化」からイメージする内容については触れら
れていません。上記の雑誌で「土地と結びつくことにおいて生活の条
件を共有している人々の間で歌われる」民謡がまだ生きていると、原
田氏は上記ディスク紹介で沖縄のことを述べていますが、これは今で
も言えることでしょうか。若い人たちのイメージは、このようなもの
とは少し違うような気もします。これは、たとえば『琉神マブヤー』
をどう捉えるかということだと思います。これは、このメルマガでは
取り扱うには、とても大きく難しい問題です。でも、「自己のアイデ
ンティティーを求めて反乱する」という意味で、上記の県民調査の結
果は、沖縄の人々の強い希望、少し乱暴な言い換えをするなら「反乱
」を示しているのかも知れません。

ワールド・ミュージックには、今となっては使い古されたい感じを私
は覚えますが、グローバル化の中で、自らの立脚点(アイデンティテ
ィー)を求める人々にとって、この「ワールド」という言い方を、伊
達氏のような視点で、見直しても良いのかも知れません。グローバル
化が、平準化へ向かうベクトルだとすれば、ワールド化とは、上記の
ようなアイデンティティーを求心力とする人々の集まりの、その集合
体として世界に向かうベクトルだということになります。そういう意
味で沖縄の音楽が、レコード店のワールド・ミュージックのコーナー
に置かれていることは良いことだと評価してよいのかも知れません。
さて、ここまで書いてみて、今実際はどうなっているのかを確認する
ためにレコード店に行ってみることにしましょう。いや、衰退気味の
レコード店ではなく、iTunesストアのジャンル「ワールド」を見てみ
ることにしましょうか(^_^;)
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           ■◇■ あとがき ■◇■

ということで、実際にiTunesストアを開いてみますと、お勧めの中に
『Seijin Noborikawa Live! Just One Night at CAY 2010.8.29』が
ありました。『MUSIC MAGAZINE』の紹介記事でも登川誠仁は取り上げ
られていて、それは『登川誠仁/セイ小(グワー)のカチャーシー』
というカセットでした。20年間の間に、カセットテープから、ネット
上のデータへと変化した登川誠仁のうた。しかし、メデイア(媒体)
はそのように劇的に変わりながらも、その歌をネットで試聴してみる
と、おそらく円熟味を増している以外は変わらないのです。これをみ
ずからのアイデンティティーとして聴く人たちと、その外から聴く人。
この二つの間に、そして、自分がどちらの立場に立つことを選ぶのか
に、グローバル化を生きるヒントが隠れているのかも知れません。
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