『奄美・沖縄エッセイ』060
■■■■■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 2010.03.19 ■
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◆■■ ---------- ■ 奄美・沖縄エッセイ ■◇■
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  □◆□◆□▼ 首里城のクワズイモ ▼□◆□◆□

ハイサイ。今月の5日から4日間、沖縄に行って来ました。そして、帰
洛した次の日、大震災が起きました。そのとき会議中だった私は、揺
れを感じた同僚(私は揺れを感じませんでした)がパソコンで確認した
ことで、大きな地震が起きたことをはじめて知りました。震災で亡く
なられた方に深く哀悼の意を表しますと同時に、その被害に会われた
方々が1日でも早く平穏な生活を取り戻されることを心よりお祈りい
たします。

さて、私の家には、クワズイモという植物を植えた、直径10センチほ
どの鉢があります。昨年の末に近くのスーパーで買ったもので、その
時は大きな葉が青々と茂っていたのですが、今はその葉も冬の寒さで
枯れています。クワズイモという名前は、奄美を描いた画家、田中一
村の名画のタイトル「不喰芋(クワズイモ)と蘇鉄」で知りました。そ
れ以降、奄美大島を訪れる度に、海岸の近くなどに濃い緑の私の家の
ものよりもはるかに大きな葉を幾重にも重ねているクワズイモを意識
して観てきました。Wikipediaで調べると「サトイモ科クワズイモ属
の常緑性多年草」とあり、「日本では四国南部から九州南部を経て琉
球列島に分布」するともあります。九州でクワズイモを見たことは無
いのですが、今の気候では京都でも育つということでしょうか。

今回の沖縄行きの目的の一つは、首里城を訪れることでした。空港か
らモノレールで首里城駅まで直行し、首里の鳥堀を下りながら、首里
城に向かいました。その途中に、私の学部時代は首里城の一部であり
、首里城とは尾根伝いの「上の毛」という公園があります。かつては
、キリスト教短期大学があった場所が、首里城公園の一部になってい
るのです。地元の人しか居ないその公園に上ると、子連れの家族が遊
んでいました。石畳道を進んで、首里城公園への階段のほとり、城の
石垣の辺りに少し大きめのクワズイモを見かけました。奄美大島の海
岸で見たそれよりは少し小ぶりでしたが、青々と葉を広げていました
。寒い京都を朝に出た私は、午後の昼下がり、少し汗ばみながら、常
夏の沖縄に着いたことを実感していました。

首里城公園への入り口、守礼の門、歓会門の当たりに近づくと、とく
に土曜日であったからでもあると思いますが、多くの観光客が居まし
た。荷物が詰まったケースを抱えながら、首里城の中に入り、今でも
水が湧き出ている龍樋の横の階段を上り、瑞泉門、漏刻門、広福門を
くぐり、下之御庭に向かいました。そこでは、休日に行われる、観光
客向けの琉球舞踊公演行われていましたが、これを右手に、正殿に入
る奉神門を左手に、正面の石垣の左に私は向かいました。その向こう
は、いわゆる京の内と呼ばれる聖域があった区画です。ここに来るこ
とが今回の目的の一つでした。ガジュマルなどが茂るその中に入り、
左手前方にある高台の階段を上り、石の門をくぐると小さな広場があ
り、その中に少し高い展望台があります。

私は荷物を抱えながら、そこまで一息に上り、そこから南東方向を見
やりました。かなり気を付けないと見えないと思うのですが、私が見
たかったものをそこに確認することができました。それは、久高島と
いう島です。このメルマガのNo19とNo20でも取り上げたことがありま
すが、その島は、琉球王国、とく第一尚王統、第二尚王統琉球王国に
とって、第一級の聖域として、神聖視されてきました。その島が首里
城から、とくに、京の内から見えることを確認したかったのです。私
が首里城から久高島が見えることに気付いたのは、これも、このメル
マガのNo23に書きましたが、2005年の夏、再建された首里城を訪れた
時のことでした。「てだこ(太陽子)」と呼ばれた琉球王国時代の王
の聖性の源である太陽、これと深く結びついた島、これが見えること
。最初は正殿の中から、その後、京の内から見えることも肉眼で確認
したつもりでした。

このことの重要性についてその後気付くことになり、結果として、一
本の論文を書きました。それは「京の内庭史考 -- 首里城の起源と久
高島 -- 」(『南島文化』第32号、沖縄国際大学南島文化研究所、
2010年03月)というものです。首里城の始まりを、久高島が見える聖
域である京の内と結びつけて考察したものです。タイトルに「京の内
〈庭〉」と「庭」が付いてるのは、そう呼ばれてきたのではないかと
いう、私の考えからです。それまで、首里城から久高島が見えること
について触れた研究者は、私が知る限り居ませんでした。よって、首
里城の始まりが久高島と関係があるというのは、首里城の歴史を考察
する上でのかなり大胆な仮説なのです。しかし、京の内から見える久
高島の写真を論文に載せるために、何度が訪れた首里城では、そこの
区画の地盤がひび割れを起こしたということで、これを補修する工事
のために何年も立ち入りが禁止されていました。

数年の間、沖縄を訪れる度に京の内を訪れましたが入ることができず
、論文の活字化には結局間に合いませんでした。よって、論文には首
里城の別の場所から見た久高島の写真を載せざるを得ませんでした。
しかし、論文を書いている間、島が見えた時は重要性を認識せずカメ
ラに収めることをしなかったこともあり、京の内から私が見た久高島
は、実は見間違い、幻では無かったかという疑心暗鬼に陥っていきま
した。活字化されてからも、この気持ちが消えませんでした。だから
こそ、今回の訪問で確認したいという強い思いがありました。そして
、今回、展望台から、たしかに久高島を確認することができました。
南東方向、知念半島と、手前の小山の間に小さく見える海上に、一本
の筋のように、しかしはっきりと久高島を確認することができます。
肉眼ではそれは小さく、その気になって見ないと判りにくいのですが
、間違いなく久高島です。正直言って私は感動しました。自身の記憶
よりも、よほどはっきりと見えました。

浦添城を居城とした英祖王統以降、海上でそこから太陽が昇る「太陽
の島」とされたと考えられる久高島。この島を以降の王統も神聖視し
たはずだと私は考えました。私が論文をお送りした研究者の中には、
浦添城の王統と首里城の王統にはこのような伝統の「断絶」がむしろ
あったかも知れないというご意見の方もしらっしゃいましたが、たし
かにその可能性も捨てきれないものの、しかし一方で、王や聞得大君
が久高島にわざわざ行幸した記録も確認できます。だから、かつての
王城の人々、とくに京の内という聖域に関わる人たちは、彼方に見え
る小さな、しかし聖なる太陽の島を、目を凝らして見ていた時代があ
ったはずだと私は考えています。私の上記論文は、そのことを歴史的
に考察したものです。このメルマガの読者の方の中に、首里城を訪れ
る方がいらっしゃれば、無料で入ることのできますので、京の内の展
望台から、久高島を探してみて下さい。その視線は、かつての琉球王
国の人々の視線と重なっているかも知れないのです。
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           ■◇■ あとがき ■◇■

沖縄を訪れた目的は他にもあったのですが、今回はそのうちの一つに
ついて書きました。風景は、その中に人々の歴史をも刻み込んでいま
す。そういう意味で、このたびの震災、それにともなう津波でなぎ払
われた街々の光景をテレビ画面で見ておりますと、人々がそれらをい
きなり奪われたことに暗澹たる思いになります。しかし、実は沖縄、
そして首里城にもそのような暗い時代がありました。沖縄戦による破
壊です。戦後すぐの写真を見ますと、日本の陸軍司令部が置かれた首
里城は、米軍の艦砲射撃で瓦礫の山と化していました。そこに米軍が
大学を建て、私は日本復帰後、そこに通いました。しかし、今、その
首里城も復元され、かつての面影を取り戻しつつあります。たしかに
、そこに至るには長い時間とたくさんの人々の努力が必要なのですが
、まだ早すぎるかも知れませんが、今回の大震災に被災された地域に
人々の息吹が帰ってくることを願わざるをえません。

もし、今回の内容に関心を持ち、上記にとり上げた論文を読んでやろ
うという方は下記アドレスまでご一報下さい。コピーを無料で、送ら
せていただきます。
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