『奄美・沖縄エッセイ』055
■■■■■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 2010.06.12 ■
■■◇■
◆■■ ---------- ■ 奄美・沖縄エッセイ ■◇■
■■
■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ No0055 ■
===========================================================
+++++ 等幅フォントによってレイアウトされています。++++++++
===========================================================
■□■ 奄美・沖縄、なんでも話題、メールマガジンです。■□■
■□■満月と新月の夜に配信します/本日旧暦0501●新月■□■
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-
        □◆□◆□▼ 天皇と柳田国男 ▼□◆□◆□

ハイサイ。また、ご無沙汰です。この間に、大きく動くかと思われた
、沖縄の普天間基地問題も、結局は元の状態に戻り、沖縄の人々の情
念のみが積み重なる結果となりました。

柳田国男と言えば、このメルマガの読者のみなさんも、よくご存知だ
と思いますが、民俗学という学問をほとんど一人で確立した、近代の
知の巨人の一人です。そして、彼の学問、つまり民俗学の中で、奄美
・沖縄の島々が持つ意味の大きさは、よく知られています。それを端
的に示すのが、彼の最晩年の著作で、1961(昭和36)年7月に筑摩書
房から刊行された『海上の道』です。

この中では、日本人の祖先が稲をたずさえて、南方から奄美・沖縄の
島々を渡って北上したという壮大な仮説が展開されていることもよく
知られています。「宝貝のこと」という同書の一節では、その冒頭に
琉球の宮廷歌謡集『おもろさうし』からうたが引用され、そこにうた
われている「つしや」という語が、宝貝を指すという仮説が述べられ
ています。このことについてのみ言えば、現在では「つしや」は「一
つぶずつになった(水晶の)玉」(『沖縄古語大辞典』)のこととさ
れ、残念ながら柳田の仮説は当たっては居ません。

柳田の年譜で確認しますと、この「宝貝のこと」という文章は、1950
(昭和25)年10月に、沖縄文化協会の雑誌『文化沖縄』第2巻7号に発
表されています。同12月には同協会の人々にその内容を話してもいま
す。柳田76歳のことです。これは、『海上の道』に収録された文章の
中でもっとも古いものです。つまり、柳田の日本人北上仮説の出発と
言えるものです。同書の刊行は柳田87歳の時であり、そこで述べられ
る仮説の壮大さゆえにというべきでしょうか、同書についてはさまざ
な評価があります。ある時は、荒唐無稽とされたり、最近はまた見直
されたりと。

さて、今回は一冊の本を読んでいて、柳田国男のこの仮説にまつわる
興味深い逸話が紹介されていたからです。柳田は、1954(昭和29)年
80歳のおり、5月18日、19日、21日、24日、25日に、皇居で開かれた
言語学研究会に、金田一京助、泉井久之介、服部四郎とともに出席し
ています。金田一はよく知られたアイヌ語の研究者、泉井は、調べて
みますとラテン語の研究者です。そして、服部四郎は多くの言語に通
じた、言語学の大家です。当時、45歳、柳田よりも35歳下の壮健の研
究者でした。

服部は、琉球語(方言)の研究にも大きな影響を与えました。天皇へ
の進講の翌年、1955(昭和30)年の10月2日から12月26日の間、彼よ
りも一歳年上で、東京帝国大学文学部在学中からの盟友で、当時琉球
大学の副学長であった仲宗根政善(『ひめゆりの塔をめぐる人々の手
記』の著者)の招聘で、同大学で沖縄に滞在することになります。こ
れを機会に同大学に方言研究クラブが誕生するなど、琉球方言研究の
進展を考えるうえで彼の訪沖は重要な意味を持つのですが、この辺の
事情については、これから触れる『服部四郎沖縄調査日記』(汲古書
院、2008年)に詳しいので、そちらをご参照下さい。

同書の10月10日に天皇進講のさいの柳田について触れる箇所かあり、
それに注が付されています。それには、24日に服部と柳田は進講を共
にし、「この時柳田は、日本人の祖先は南島にのみ生息する宝貝を求
めて南方から北上したのであろう、と講じた」とあります。つまり、
すでに発表していた「宝貝のこと」をベースに話したと考えられます
が、実は、この注を誰が記したのか、明確ではないのですが、おそら
く『服部四郎沖縄調査日記』の編者であるご子息の服部旦氏の、父国
男からの聞き書きではないかと思われます。そして、上記の注には、
引き続き次のようなことが書かれています。

宝貝の学名を柳田に確認せられた後、2度目の機会(同慰労の会。〈
柳田や服部らは、6月9日の宮中の昼食(午餐)に招かれています、末
次注〉)に天皇は、御用邸海岸で自ら採取された宝貝の標本を示され
た。帝王学で批判的な意見は何も仰せにならなかったが、柳田は自説
の根拠の揺らいでいることに気付かないかのように、「ほう、綺麗で
すな」とのみ答えたという。この様子を見て、以後四郎は柳田の学問
に信を置かなくなったと。亀山市歴史博物館蔵の「服部四郎遺品・記
念品目録」番号22・238・239の宝貝の3種は、この関心により蒐集し
たものであろう。

最初に触れたように、この6年後の1961(昭和36)年、「宝貝のこと
」を収めた『海上の道』を刊行するわけです。つまり、研究者として
の昭和天皇の「実証的な」批判を無視したということになります。御
用邸は天皇や皇族の別荘ですが、この宝貝を採取した海岸のある御用
邸は、葉山か須崎でしょうか。いずれにしろ、柳田の宝貝をめぐる仮
説は、奄美・沖縄の島々にしか宝貝が無いことを前提にしているので
すから、上記の注にあるように柳田の仮説の根拠が揺らいだわけです
。それにもかかわらず、柳田はそのことを記した文章を収めて、『海
上の道』を刊行したのです。

すると、同書の最初の批判者は、昭和天皇であり、服部であるという
ことになります。「宝貝のこと」以外にも、進講の以前に、同書に収
める文章の多くは発表されています。70歳の後半から積み上げていっ
た柳田生涯最後の仮説を揺るがす昭和天皇の静かな反論は、柳田に無
視されたことになります。学問に厳密な言語学者は、その態度から柳
田国男という知の巨人の仕事に信を置かなくなったというのです。た
しかに、80歳となり、老境を迎えていた柳田を強く批判することもで
きないようにも思えます。しかし、ここには、学問がどのようにある
べきかを考えさせる契機があるように思えます。事実の前には謙虚で
あること。これが大切だと私には思えます。服部の態度は、そういう
意味で信をおけるものです。
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-
         ■◇■ あとがき ■◇■
服部四郎の随筆をまとめた『一言語学者の随想』(汲古書院、1992)
という書物があり、その目次に「陛下と琉球方言」という文章のタイ
トルが見えます。もしかすると、本書で取り上げた『服部四郎沖縄調
査日記』の注は、この文章を踏まえたものかも知れませんが、確認で
きていません。そのうち、確認してみたいと思っています。

今回の内容を確認するため、『海上の道』を久しぶりに読み直してい
ましたが、今号の結論に反するようですが、魅力的です。ただ、以前
に、やはり柳田が奄美・沖縄の島々を旅したさいの旅行記『海南小記
』(1956、昭和31)を読み直していて、そこに後に問題となる重要な
テーマが尽くされているように感じたのとは、別の魅力です。学説の
真偽というより、晩年を迎えた柳田が奄美・沖縄の島々に寄せる情熱
といったものを感じたからでしょうか。
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-
■<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<■
 □------◆ 電子メールマガジン:「奄美・沖縄エッセイ」
 □----◆ 発行人:末次 智 (すえつぐ さとし)
 □--◆ E-mail:suetsugu@kyoto-seika.ac.jp
 □◆ 配信の解除URL:http://www.eonet.ne.jp/~rekio/ 
■<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<■


前ペ−ジに戻る

SuetsuguHOMEに戻る