『奄美・沖縄エッセイ』050
■■■■■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 2009.03.11 ■
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◆■■ ---------- ■ 奄美・沖縄エッセイ ■◇■
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     □◆□◆□▼ 倭人と大倭人 ▼□◆□◆□

ハイサイ。みなさん、お元気ですか。前回から二ヶ月も経ち、いつの
まにか、3月も半ばになってしまいました。

さて、今年は、奄美、沖縄にとって、大きな節目の年なのですが、皆
さんはご存じでしょうか。奄美、沖縄の島々が、琉球という一つの国
であったことは、このメルマガを読んで下さっている方なら、よくご
存じだと思います。

しかし、その王国の存続が大きな危機を迎えたことがありました。そ
うです、西暦1609年、日本年号で、慶長14年の3月、薩摩の山川港を
出港した島津軍は沖縄本島の首里に至り、琉球高官の人質による講話
に応じ、国王尚寧が首里城を出た翌日の4月5日に、首里城を接収しま
す。これが、よく知られた、島津氏の琉球侵略です。

島津軍は、沖縄本島にいたる過程で、奄美、喜界、徳之島、沖永良部
などの各島を武力で制圧しながら南下し、沖縄本島北部の古宇利島に
上陸し、北部の今帰仁城を攻略します。その後、浦添城を経て、首里
城に至ります。実戦経験豊かな島津軍は、やすやすと奄美諸島、そし
て沖縄本島で勝利をおさめたのです。

5月25日、尚寧王や重臣たちは鹿児島に連行されます。さらに、翌年
の5月、尚寧は、薩摩藩主島津家久に引き連れられて、駿府城で徳川
家康に会い、8月28日に江戸城に登城、当時の将軍秀忠と、その後継
者竹千代(後の家光)に謁見します。これは、諸大名に幕府の権威を示
すためでした。

1611年の9月には、島津氏は、沖縄諸島以南を琉球国とし、奄美諸島
を薩摩藩の直轄地として割譲します。これ以降、この境界が、沖縄県
と鹿児島県の境界として現在まで引き継がれます。琉球国にとって大
きな変化となったこの事件の発端、1609年の侵略から、今年は400年
目に当たるのです。

それまで中国に朝貢はしていたものの、独立の王国であった琉球が、
実質的には島津氏の支配下に入るのです。枠組みとして琉球国を残し
たのは、とくに鎖国体制のなかで、琉球を通して、明との交易を行う
ことが目的だったと考えられています。このとき、幕藩体制の基本原
理である検地、石高制、キリシタン禁制といった制度が導入されます
。つまり、日本列島同時代の近世が、琉球に流れ込むことになったの
です。(以上、真栄平房昭「島津の琉球出兵」『沖縄を知る事典』日
外アソシエーツ、参照)

その後、薩摩藩、島津家は、奄美諸島や、琉球王国から収奪を続ける
ことになります。この事件は、そのような琉球王国への画期をなすも
のとして、琉球の人々に強く記憶されることになります。それから40
0年、今年は大きな節目なのです。しかし、日本列島に生活する人の
うち、このことを意識するのは、どれほどいるでしょうか。地元の沖
縄や奄美では、研究者等によるシンポジウム等が開かれたりしている
ようですが、地元でも認識は薄いようです。

今回は、琉球、沖縄の人々が、このような関係を持つに至った、島津
家、薩摩藩、そして鹿児島県人にどのような感情を抱いていたかを示
す明治初めの記録をご紹介しようと思います。1893年(明治26年)の
5月から、奄美諸島から八重山諸島までを踏査した笹森儀助という人
物が記録した『南島探検』という書物からです。同年の6月5日の記述
に、次のように記されています。

▽嶋人通常鹿児嶋人ヲ指シテ倭人(ヤマトンチウ)ト云ヒ、其他ノ府県
人ハ総テ大倭人(オホヤマトンチウ)ト云フ。而シテ大倭人ハ穏和ナリ
、倭人ハ粗暴ナリト云フ。(『南島探検〈東洋文庫411〉』第1巻、平
凡社)
△

今でも、沖縄の人、とくに沖縄本島の人は、本州の人をヤマトンチュ
ウと呼ぶことが多いのですが、それには一昔前には区別があったので
す。鹿児島県人はヤマトンチュウ、それ以外の他府県人はオオヤマト
ンチュウと呼び、区別していたというのです。1879年に沖縄県となり
日本国に編集されてから、14年ほどしか経っていない頃のことです。
そして、後者が「穏和」なのに対し、前者が「粗暴」だというのです
。これは、鹿児島、つまり旧薩摩の人々に対して反発する感情を、他
府県人に敬意を表すという形で、裏返しに表現しているのでしょう。

このような当時の沖縄の人々の認識は、1609年の侵略からの島津家と
琉球国の関係を前提としているのは、言うまでもありません。最近で
も、鹿児島県の人に対して感情的なしこりがあるということを、半分
冗談めかして沖縄本島で聞いたこともありますが、一般的にはそのよ
うな認識は薄らいでいるのではないかと思います。少なくとも、オオ
ヤマトンチュウという呼び方は、聞いたことがありません。

しかし、今年は、日本列島の南の島々に、このような大きな歴史的な
事件があったことを思い出す良い機会なのです。400年前のおよそ一
ヶ月後、島津軍が南の島々に向かって船出していったことを思い起こし
てみて下さい。
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           ■◇■ あとがき ■◇■

実は、この一月ほど、私には珍しく、二つのテーマを同時に抱えなが
ら、仕事をすることことに取り組んでいました。一つは、このメルマ
ガでも取り上げたことのある、首里城から見える久高島の問題(No00
23)で、これを首里城の起源と結びつけて考察してみようとするもの
です。うまくすれば、これは活字化されるはずです。

もう一つは、明治の初め、県になったばかりの沖縄に長崎の平戸から
渡った、西常央(にしつねのり)という人の足跡をたどること。2月2
7日から3月2日に沖縄本島に渡り、地元で資料を確認してきました。こ
ちらついては、まとめはこれからですが、思ったより資料が集まり、
これを確認していると、沖縄の近代化が一人の人物を通して見えてき
ました。これも、なんとかかたちにしたいと考えています。

ところで、今回は本メルマガ50号です。2004年に創刊(!)して、5
年間で50号。継続だけが命のささやかなマガジンです。今後も、なに
とぞよろしくお付き合い下さい。
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