『奄美・沖縄エッセイ』047
■■■■■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 2008.10.29 ■
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    □◆□◆□▼ 国文学、魂のリレー ▼□◆□◆□

ハイサイ。10月も終わりを迎え、古都は、いよいよ本格的な秋を迎え
ようとしています。我が家の白い萩の花も早くに散り、夜にはコオロ
ギの鳴き声が絶え間なく聞こえるようになりました。

さて、一月ほど前のことになりますが、9月27日の朝日新聞朝刊に小
さな訃報が載りました。「古代文学研究に貢献 西郷信綱さん死去」
。おそらく、普通の人なら見過ごすに違いない、小さな記事です。そ
こには。「古事記をはじめ古代文学研究で知られる国文学者で文化功
労者、横浜市立大学名誉教授」とあります。今回は、この方に触れた
いと思います。

世の中から、とくに私の職場である学校の世界から、「文学」そして
「国文学(日本文学)」という言葉が消え始めてかなり経ちます。「
文学部」あるいは「文学科」といった名称を残すのは、おそらく少数
の学校に限られると思います。つまり、受験生、学生の世代は「文学
」という言葉に魅力を感じなくなったということでしょう。たしかに
、新聞には、出版社の広告が毎日のように掲載され、そこには小説を
はじめてとして、「文学作品」が刊行され続けていることが記されて
いますが、これらを「文学」という言葉はすでにとらえきれていなく
なっているのかも知れません。

しかし、かつて作品の読者にとって「文学」という言葉が強いリアリ
ティを持ち、これを前提に文学作品を対象とした研究が成り立ってい
た時代がありました(今も成り立っているのかも知れませんが、私に
はそのようにはあまり感じられないのです)。日本文学研究者の団体
としては今も最大であると思われる「日本文学協会」、この創立にも
、西郷氏は深く関わりました。そのなかで、第二次大戦後の古代文学
研究を牽引した一人が、西郷氏でした。私は、西郷氏の仕事に大きな
影響を受けました。

とくに戦前、天皇の起源を記した書物として聖典視された古事記、そ
して万葉集など、古代文学と呼ばれると呼ばれるこれらの作品群を読
み直す重要な仕事を残しました。西郷氏の仕事は多岐にわたりますが
、私にとり印象深いのが、1946(昭和21)年に刊行された『貴族文学
としての万葉集』です。私が生まれる以前、戦後すぐに粗末な紙で刊
行された薄いこの本を古書店で購入し、読んだ時の印象は忘れがたい
ものです。そこには、聖典としての古典を貴族の表現として捉え直す
ことで、社会に還元しようとする強い意志を感じました。

その西郷さんの仕事で忘れがたいものに、岩波書店の日本思想体系18
『おもろさうし』(1972)の解説(のちに『古代の声』朝日新聞社、
1985、に再録)があります。この本は外間守善氏との共編で、外間氏
が、本文校注と解説も行っています。これに、本来は琉球文学を専攻
していない西郷氏がさらに解説を行っていることを不思議に思ってい
たのですが、これについて、このメルマガに何度か(no26、37、43)
登場している藤井貞和氏がやはり朝日新聞(9月30日朝刊)の西郷氏
への追悼文で、次のように言及しています。藤井氏は1970年代に、ス
ランプ時に自らの詩集を手に西郷氏宅を訪問しています。

▽西郷さんの貴重な仕事に日本思想大系『おもろさうし』(外間守善
氏と校注、1972)の解説がある。この訪問以後のことだろう、私のサ
ブテーマが沖縄社会へと定まってきたのは。/この本のことを話題に
出すと、西郷さんは笑って多くを言ってくれなかった。琉球社会最大
の古典を思想大系に入れるために、沖縄文学を専門にするわけでない
西郷さんが、侠気で解説を引き受けたにちがいない。△

岩波書店の思想大系という「日本」を代表する思想表現の集成に、琉
球国の宮廷歌謡集を加えるために、西郷信綱という(岩波書店、編集
委員側から見て)「権威」が必要だったというということなのでしょ
う。おそらく自らの権威を利用することを是とされない西郷氏も、『
おもろさうし』をそこに加えることの重要性を認め、引き受けたとい
うことなのです。ここでさらに言えば、歌謡集成である『おもろさう
し』は、同じ岩波書店の日本古典文学大系に加えられるべきものだっ
たと私は思うのですが、大系の編集委員の「日本古典文学」という視
野には入らず、これはかないませんでした。このことは、日本の古典
文学(研究)の現在のあり方を考えるうえで一つの契機になると思う
のですが、今回はこれ以上触れません。

「沖縄研究家であるわけでもなく、まして、『おもろさうし』を専攻
するものでもない私にできることは、ただ一つしかない。すなわち、
できるだけこの道の専門家の説にもとづき、……オモロという歌謡の
もっているはずの文化上・文学上の意味を取りだしてくるように努力
することである。」このような謙虚な書き出しで始まる西郷氏の『お
もろさうし』解説は、その謙虚さに反して、琉球文学、とくに『おも
ろさうし』専攻の私から見ても、たいへん優れた、刺激的なものでし
た。ここでは、詳しく触れることはできませんが、ある意味でオモロ
という歌謡表現の核心を衝いています。もし、関心のある方は、ぜひ
ご一読のほどを。

さて、西郷氏の追悼文を書いた藤井氏には日本文学協会の『日本文学
』(第27巻10号、1978)という雑誌に書いた「西郷信綱論」という文
章(のちに『国文学の誕生』三元社、2000、に再録)があります。そ
のなかで研究者の倫理について問う西郷氏に共鳴している藤井氏が居
ます。藤井氏の沖縄に関する仕事をまとめた『甦る詩学』(no36参照
)の編集を手伝わせていただきながら、藤井氏が沖縄に向かった契機
を探った私に、今回の追悼文は一つの答えを与えてくれました。それ
は、西郷氏の沖縄に向かう倫理性にあるということです。西郷氏の解
説は、その学術的なレベルの高さの背景に、沖縄に向かう倫理を湛え
ています。戦中世代の大和人である西郷氏にとって、沖縄を問うこと
は、自らの倫理を問われることであったはずです。

藤井氏の『甦る詩学』編集のお手伝いの過程の産物として、「異郷・
倫理としての沖縄」(『四條畷学園短期大学研究論集』第35号、2002
)という拙い私の文章があります。私はここで藤井氏の仕事における
沖縄の意味について考察したのでしたが、その冒頭に偶然にも、藤井
氏の「西郷信綱論」を引いたのでした。西郷信綱氏、そして、藤井貞
和氏という日本を代表する「国文学者に導かれながら、大和人として
の私も沖縄、ささやかながら琉球弧に向かってきたとも言えます。沖
縄、琉球弧を問うことは、大和人としての倫理を問われることだと私
は考えていますが、それは、こういった先学に導かれてのことなので
す。
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           ■◇■ あとがき ■◇■

藤井氏は上記の追悼文の末尾に次のように書いています。「この日が
来るとは思いもしなかった、西郷さんを国文学が喪失する日。いや、
ありふれた言い方だけど、われわれ後来のの中に氏は生きつづける。
喪失なんありえない……」ここであえて「国文学」という語を使う藤
井氏のなかに、それはリアリティをもって生きていると言えます。私
たちは、それをどう受けとめるべきなのか、を考えなくてはなりませ
ん。おそらく、それは自明なのではなく、問い続けることの中にしか
現れないのでは、とも思います。
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