『奄美・沖縄エッセイ』046
■■■■■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 2008.09.29 ■
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    □◆□◆□▼ 世礼国男のオルガン ▼□◆□◆□

ハイサイ。今夜は、旧暦9月1日、いよいよ秋真っ盛りです。古都では
、まだまだ暑い日もありますが、秋を感じることが多くなりました。
個人的には、本州での今年の秋の訪れは、例年より早いような気がし
ます。

今夏、例年のように、学生とともに仕事で沖縄を訪れました。そのさ
い、唯一自由になった沖縄滞在の最終日(8月24日)に、このメルマ
ガにも何度か登場している、古書店BOOKSじのんの天久斉君に連れら
れて、大学時代の恩師の一人にお会いしてきました。お名前は、湧上
元雄先生と言います。琉球大学の法文学部旧国文学科で、民俗学とい
う講義を担当されていました。私たちが大学3年のときに定年で退官
されましたが、温厚な先生でした。また、湧上先生は、「貧民救済」
のための社会運動で沖縄ではたいへんよく知られた、湧上聾人(ろう
じん)のご子息でもあります。

そのような湧上先生にお会いしようと思い立ったのは、二つの偶然が
重なったからです。7月31日付けで天久君から送られてきたメールに
、湧上先生が突然店に来られ、書籍を購入されたと書かれていました
。そのさいの会話の中で、先生が私のことも覚えておられると言われ
たとのこと。最後にお会いしてからおそらく十数年。今年92歳とのこ
と。ところが、その次の日、職場のオープンキャンパスにはるばる沖
縄から訪れた、やはり湧上という名前の受験生と出会い、先生のこと
をお話しすると、「それは僕の祖父の兄弟です」と言うので。びっく
り!

この二つの出来事が重なったのは、なにかの導きに違いないと思った
私(思いこみが強いのです(^_^;))は天久君と、湧上先生にお会いし
に行くことに決めたのでした。南城市玉城船越のご自宅は広々として
いて、南国を思わせる風光に満ちていました。天久君の車で着いた私
たちを、先生は元気に迎えて下さいました。那覇市の波の上宮にある
という釈迢空(折口信夫)の歌碑の拓本掛け軸を前に、いろいろとお
話を聞かせていただきました。そして、最後に、編集委員長として関
わられ、一部執筆もされている『玉城村史』2冊までも頂きました。
帰り際には、天久君と写真も撮らせていただきました。

さて、前置きが長くなりました。そのさいの写真とともに、お礼のお
便り、さらに「身体の楽譜」という拙論を先生にお送りしました。論
文は、本マガジンno34でも取り上げた、世礼国男という人物が独創で
書き上げた、琉球古典音楽野村流の「声楽譜」という楽譜について論
じたものです。これを読まれた湧上先生から、ご返事を頂いたのです
。そのなかに、世礼国男に関する貴重な証言が記されており、これを
紹介するのが、今号の主な目的なのでした。先生は、昭和5年から10
年まで県立二中(現那覇高校)に在籍されており、そこで世礼国男は
教鞭を執っていたのです。

さらに、世礼とともに野村流の古典音楽を研究する会を結成していた
、真栄田義見や阿波根朝松という人々も同校に教師として在籍してい
ました。湧上先生は、そういった、当時沖縄を代表する知識人から直
接教えを受けていたのです。実は、私は世礼を直接知る人々の証言を
探し続けてきたのでした。できれば、『世礼国男論』といったものを
書きたいと、ずっと考えてきたからです。そして、思わぬところから
、世礼についての証言を得ることができたのです。湧上先生は、次の
ように書いておられます。記録として残すこと前提に私に教えて下さ
ったと判断し、私信を以下に引かせていただきます。

▽真栄田先生は一年生の時の学級主任、世礼先生は、よく大講堂で天
長節などで「君が代」をオルガンで伴奏なさる。そして、中学四、五
年の時の国語担任でした。授業中、琉球音楽や三味線については一言
も発言しませんでした。県立二中では、方言、空手、芝居、三味線な
どタブーでしたから。△

天長節は今の天皇誕生日。上記は、拙論中「世礼は、琉球古典音楽の
声楽を、西洋の平均律的な音符に置き換えることをあえて選択しなか
ったのである。」と書いていることへの、湧上先生なりの証言だと思
われます。世礼は、国語教師でありながら生徒に教えるほど西洋音楽
に通じていたということは、同僚の阿波根なども書いていますが、世
礼がオルガンを弾くことができたというのは、初耳です。大講堂でオ
ルガンに向かう世礼。上記の記述は短いものですが、その姿を思い浮
かべながら、背後にいろいろなことを想像し、考えました。

重要なのは、第二次大戦前の沖縄では、とくにそこを代表する学校で
ある県立二中では、琉球固有の文化について、生徒に話すことがタブ
ーだったことです。日本列島全体の大政翼賛的な動きの中で、地域に
固有な文化、とくに、かつて国家として独立し、特有の文化を有して
いた琉球、沖縄の文化に触れることは、タブーだったと知れます。国
語教師の世礼は、沖縄出身で初めて中央で詩集を刊行したことがあり
、そのなかですでに琉球の文化を取り込んだ試みをしていました。そ
して、標準語による近代詩から離れた後も、仲間とともに琉球固有の
文化の研究に没入していきました。世礼らの活動につて、湧上先生は
、次のようなお話も記して下さいました。

▽私が知念高校在職中(湧上先生は沖縄戦後知念高校に赴任さないま
した、末次注)、屋良朝苗先生が校長として赴任されました。その時
、二中の先生方が、夜中の二時、三時ごろ遊里の街から帰られたと、
いかにも憤懣そうに語っておられた。(屋良先生は、私が二中卒業後
、物理化学担任で二中赴任)貴著によると、世礼先生は昭和7年、部
員仲間(二中の先生方)と、「おもろさうし」研究会を組織、そして
、同8年、「泊三弦同好会」を結成、那覇市泊兼久にあった豊平楽器
店二階で週三回も会を開くとある。屋良先生が昭和12年ごろ二中赴任
ですから、世礼先生方は、遊里の辻近くで、会合をもたれたかも、知
れませんね。屋良先生が誤解されたと、今、判明した次第です。△

屋良朝苗は、復帰後の沖縄県知事ですが、彼が回顧しながら、世礼ら
の行動を「遊離遊び」だと判断したのは、当時、表だって琉球文化の
研究を行うことができず、そういう場所を選んだためかも知れません
。私が世礼国男に関心を持ち、勉強を始めたのは、大学院卒業後のこ
とですから、残念ながら在学中湧上先生と世礼について話をお伺いす
ることはありませんでした。さらに今回の訪問でも同様です。その先
生が、歴史の貴重な語り部であることを知ったのは驚きでしたが、湧
上先生のご経歴を考えれば、それは当然のことであると言えるかも知
れません。もっとお話をお聞きすれば良かったと、後悔しました。ぜ
ひ、先生を再度お訪ねして、さらにお話をお聞きしたいと思っていま
す。
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           ■◇■ あとがき ■◇■

少し長くなりました。しかし、世礼国男のことを調べていると、いま
までに何度かこのような幸福な出会いがあります。今回も、あの世の
世礼国男が導いてくれたのかも知れません。

今号を読まれて、拙論「「身体の楽譜 -- 琉球古典音楽野村流と世礼
国男の『声楽譜』 -- 」(『沖縄文化』第42巻第1号、沖縄文化協会
、2008年05月17日)に関心を持たれ、読んでやろうという方は、
「『身体の楽譜』希望」と記し、送り先と共に、下記アドレスにメー
ルでお知らせ下さい。無料で、送らせていただきます。
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