『奄美・沖縄エッセイ』044
■■■■■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 2008.07.17 ■
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    □◆□◆□▼ 補陀洛山としての琉球 ▼□◆□◆□

ハイサイ、いつのまにか、夏まっただ中です。前号の配信が、2月で
したので、いつのまにか季節が二つ過ぎたことになります。このグロ
ーバル化、スピード化の社会になんということでしょうか。読者の皆
さま、なにとぞ小メルマガの身勝手をお許し下さい。

さて、現在、私の手元に一冊の本があります。書名は『琉球仏教史の
研究』、著者は、神戸女子大学教授の知名定寛氏です。発行元は、沖
縄の榕樹書林、古書店も営む武石和実氏が出版し続ける琉球弧叢書の
一冊(No17)として刊行されました。索引を除き、総頁数440頁の大
著です。知名氏は同書林から『沖縄宗教史の研究』(1994)という大
著をすでに刊行されており、本書はこれに続くものです。これを、著
者にお送りいただいたこともあり、少しずつ読み始めました。さすが
に、なかなか簡単に読めるような本ではありません。

このことは、知名氏が本書にも何度も書いていることなのですが、現
代の沖縄では、本州に比べて、仏教が人々の生活に根付いてないこと
もあり、仏教についての研究はそれほど進んでいません。たしかに、
仏教を保護した王が居たことも知られており、首里城の北には、第二
尚氏の菩提寺として弘治7年(1494年)に鎌倉の円覚寺を模して建立
された、円覚寺という仏教寺院があったことも知られていて、宮廷を
中心に仏教が受け入れられていたことは、事実なのですが、体系的に
研究されたことは、ほとんどありませんでした。そのこと自体が、沖
縄の人々の仏教への関心の浅さを示しているとも言えます。

本書への書評は、別のかたちで記すことになっておりますので、そち
らに譲ることにいたしまして、本書で紹介されている、琉球の史書に
記されている興味深い記事について、ご紹介してみたいと思います。
それは、『琉球国由来記』(1711年成立)という本の第10巻に記され
ている次の記事です。原文は漢文ですが、ここでは、知名氏の著書を
もとに引用いたします。

現在の浦添市に拠点をおいた、英祖王の時代、咸淳年間(1265〜74)
に、葦造りの軽船に乗って禅鑑という僧侶が、小那覇津(港)に漂着
しました。名前を語らず、補陀洛僧とのみ答えたといいます。英祖王
は禅鑑の容姿をを見て悦び、浦添城の西に「補陀洛山極楽寺」を創建
して禅鑑を住まわせました。これが琉球における仏教の始めなのだと
いうことです。

上記は、史書が「伝聞」と断ったうえで、それより約450年前のこと
を記しているのであり、これを史実として受け入れるには、無理があ
るかも知れません。知名氏は、この記事について、とくに極楽寺跡に
ついて詳細に検討しています。そして、それは考古学的にも実証でき
るようです。しかし、私の関心は別のところにあります。それは、禅
鑑が自らを補陀洛僧と語っていることです。

Wikipediaを参照して、陀洛僧について説明します。補陀洛僧という
のは、補陀洛渡海(ふだらくとかい)を行った僧ということです。補
陀落渡海は、日本の中世において行われた、捨身行の形態です。つま
り、宗教的な裏付けに基づいた自殺的行為、殉教の一種とされます。
仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀
落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれました。その原語は
古代サンスクリット語の「ポータラカ」です。補陀落は華厳経にも説
かれるとおり、観自在菩薩(観音菩薩)の浄土であるとされました。

実際に渡海船が出立した地は紀伊(和歌山県)の那智勝浦が有名で、
他に足摺岬、室戸岬、那珂湊などがあります。『琉球国由来記』には
、どこを船出した僧かということは記されていません。しかし、その
うちどこからの海岸から船出した僧侶が琉球に流れ着き、その僧によ
り、琉球の仏教が始まったと、18世紀初頭、琉球の宮廷に出入りした
僧侶が認識していたということは間違いのないことです。知名氏の著
書では、琉球の仏教史について記した数少ない先学、名幸芳章氏、あ
るいは宮家準氏ともに、禅鑑を熊野那智から渡海した僧ではないかと
推測していることが引用されています。

私の関心は、『琉球国由来記』の記述の具体性にあります。禅鑑が乗
っていた船を「一葦軽船」と記しています。Wikipediaの「補陀洛寺
」に掲載されている復元された「補陀洛船」は、木製の本体の上に屋
形が作られています。して、船上に造られた屋形には扉がありません
。屋形に人が入ると、出入り口に板が嵌め込まれ外から釘が打たれ固
定されるからです。その屋形の四方に4つの鳥居が建っていて、これ
は「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門を表わし
ているとされます。写真で見る限り、屋形も檜皮葺きのように見えま
す。しかし、屋形が葦で葺かれていも不思議ではありません。もちろ
ん、他の海からどういう船旅だったのかということもあります。

というのも、その小さな葦船という表現が具体的だからです。これを
記したのは、円覚寺の僧侶たちですが、まるで、補陀洛渡海の船を見
たことがあるかのように記されています。それが補陀洛渡海の船であ
ったかどうかはわかりませんが、質素な葦作りの船で、大海を渡るこ
とは、死出の船旅であることを知っていて記しているように見えます
。そして、禅鑑のために建立されたという寺を、補陀洛山極楽寺とい
うのも、渡海の果てにたどりついた南の琉球が、僧にとっての補陀洛
、つまり極楽であると認識したからかも知れません。

だんだん、私の空想の領域に入ってきました。知名氏は、先に引用し
た名幸氏や宮家氏の推測に対して、海上保安庁の海流図を提示して、
本州から出立したとしても、黒潮は北流していることから「太平洋側
に面した地域からの琉球漂着の例はほとんど見あたらない」とし、も
し「禅鑑が熊野那智から漂着したとするらば、それは奇跡としか言い
ようのない偶然の連続の結果と表現するしかない」としています。波
任せの小舟です。本州から琉球まで生きて漂着することも、同様でし
ょう。しかし、円覚寺の僧達は、補陀洛渡海の僧を乗せた小さな葦船
をどこかで見たのでしょうか。あるいは、そのように「伝聞」つまり
伝承されていたのでしょうか。

どうも「補陀洛」という言葉のイメージに引かれて、勝手な空想をふ
くらませ過ぎたかも知れません。18世紀初頭、琉球の宮廷近くに居た
僧達が、自らの仏教の由来を、補陀洛渡海の僧に求めた理由を考えた
いと書きはじめたのでしたが、限界があるようです。ただ、補陀洛渡
海の貴重な一資料として、『琉球国由来記』の記述があることは間違
いないでしょう。ここまで読んでいただいて、今回の内容に関心を抱
かれた方は、ぜひ知名氏の『琉球仏教史の研究』を繙いていただくよ
うにお願いいたします。
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           ■◇■ あとがき ■◇■

今年も、今月の後半に、学生達と沖縄を訪れる予定です。多くの学生
は、交通手段に飛行機を用いますが、昨年は、フェリーで那覇港まで
きた学生も居ました。大阪南港から2泊3日の行程ですが、それだけで
も、沖縄までの遠さを実感できたと言っていました。船旅で、距離の
遠さを実感してみるのも、一興だと思います。
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