『奄美・沖縄エッセイ』042
■■■■■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 2007.10.11 ■ ■■◇■ ◆■■ ---------- ■ 奄美・沖縄エッセイ ■◇■ ■■ ■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ No0042 ■ =========================================================== +++++ 等幅フォントによってレイアウトされています。++++++++ =========================================================== ■□■ 奄美・沖縄、なんでも話題、メールマガジンです。■□■ ■□■満月と新月の夜に配信します/本日旧暦0901●新月■□■ -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-     □◆□◆□▼ 風葬のかたち ▼□◆□◆□ ハイサイ、みなさんお元気ですか。いよいよ秋も深まりましたね。 もう2ヶ月前になるのですが、夏休み、8月25日から27日まで、ゼミの 学生たちと、沖縄本島の南西に浮かぶ久高島を訪れてきました。ここ でのゼミ合宿は二度目、2年ぶりになります。前回の不思議なお話は 、このメルマガの、No19,20,21で書きました。今回は、あらたな学生 との訪問です。 さて、今回も、久高宿泊交流館のお世話になりながらの滞在でした。 久高島は現代における新たなあり方を求めて、この2年の間にも少し ずつではありますが、変わっているようでもありました。しかし、一 方で、深いところで、昔からの伝統が延々と脈打っていることを知っ たのは、島の方にお聞きした話からでした。 交流館では、朝食はお願いできるのですが、夕食は島内の食堂で食べ ることになります。一日目の夜は、「とくじん」で済ませたのですが 、二日目の夜は、昼間に何人かの学生と沖縄特製の氷ぜんざいを食べ たご縁で、「食事処けい」で食べることになりました。ちなみに、私 はけい特製の「海ブドウ丼」を食べたのですが、これはうまかった。 海ブドウは、久高島での養殖ものなのですが、その下にカジマグロの 肉が敷き詰められていました。とくに、カジキマグロの肉は始めて食 べたのですが、おいしかったです。これは、久高の海人が獲ったもの でしょう。 学生たちと食事をするさい、一度に10名を超えることもあり、手伝い として、けいの女将さんの、おそらく旦那さんであろう方が手伝って おられました。その方といろいろと話をするなかで、興味深いことを お聞きすることになりました。不真面目な私は、そのときのことをメ モするわけではなく、記憶だけで書いていますので、以下の内容には 、不確かなことが含まれているかも知れませんが、その点はご容赦下 さい。記憶に残ったのは、亡くなった方の葬送の方法でした。 たしか、久高にある泉(カー)のこつにいてお話しする中で、問わず 語りに語られたお話でした。久高島の集落近くの崖下には、いくつか の泉があります。もとは、生活水をはじめ、生活に必要な水はすべて ここからくみ上げたもので、その仕事は女性によるものでした。今で も、いくつかの泉を見ることができますが、崖下からの搬送は、重労 働だったに違いありません。水道が通った現在では、ほとんど使われ なくなっているのですが、その中でも、現在でも使われている数少な い泉が、新川(ミーガー)と呼ばれる泉だということでした。 どのような使われ方をしているかといいますと、その一つは、亡くな った方の体を洗うときに使われるというのです。これ以降、以前に配 信していた「琉歌詞華集」(まぐまぐ)というメルマガのNo03,04で 触れたことのある、写真家・比嘉康雄さんの遺著『日本人の魂の原郷  沖縄久高島』(2000、集英社新書)という本の記述にも助けられな がら、書いていきます。久高島では、亡くなった方を葬るのは、昔か ら風葬でした。集落から200メートルほど北の西海岸にある崖下に、 木棺ごと置いて、風雨により亡骸を風化させるというものです。風化 した凪からは、寅年の旧暦10月20日にミガーの泉の水で洗骨されたと 、比嘉は書いています。 ところが、これが変わったのが、1966年です。比嘉氏によれば、島の 女性が神になるという、12年に一度のイザイホーという島で最も重要 な儀礼(1978年を最後に行われていない)のさい、心ない外来者が風 葬途中の木棺を開けて、島人がその死者の判別可能な状態を写真撮影 し、しかも翌年この写真を雑誌に発表するということをしました。こ れを重視した島人は、風葬地(グゥソー、おそらく後生という意味) の情報の平地にブロックなどで新たに墓を作って埋葬したと、比嘉は 記しています。風葬地を、古(フル)グゥソー、新たな墓を新(ミー )グゥソーと呼びます。けいの旦那さんは、必要がなければ、今でも 島人は、そこに近づかないと言われました。 興味深かったのは、これに続くお話で、今では多くのお年寄りが、島 外の施設で亡くなられることが多いので、本島の火葬場で火葬されて 、骨になって島に戻ることが多いということです。私にも、その事情 はよくわかりました。しかし、一方で、イザイホーを通して神人(ナ ンチュ)になった方などは、本人、そして家族の希望もあって、火葬 せずに島に戻ることもあるというのです。そのさい、どうするのかと いいますと、上に記した新グゥソーのブロック墓の中には、棺が入る ほどの穴がセメントの底に掘られており、そこに海岸の石、つまり波 に洗われたサンゴのかけらが敷き詰められ、その上で3年間そのまま におかれるというのです。 比嘉氏の本には、このことは触れられていません。比嘉氏の他の著書 、あるいは、葬送法などを調べている民俗研究者には、このことは周 知のことなのかも知れませんが、それは確認できていません。私とし ては、風雨にさらされる崖下よりもおそらく風化が進みにくいであろ うセメント墓の中で、静かに風化している亡骸が今でもあるというこ とに、驚きを隠せませんでした。自らがどのように死を迎え、葬られ るのか。火葬を拒む久高の死者には、島を包む小宇宙がまだ生きてい ます。ソールイガナシーという名の神役が司るミーガーの泉で洗われ た亡骸は、風雨にさらされ、白骨となり、魂は、海の彼方の世界ニル ヤハナヤに行くと信じられていたと、比嘉氏は記しています。そうい う宇宙を最期まで生きること。このことに、深い感動を、私は覚えま した。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-           ■◇■ あとがき ■◇■ 宿泊交流館に、高知から来たという、高校2年の女の子が同宿してい ました。詳しくは聞けなかったのですが、どこかの映像集団に属して 、その一行と沖縄の映像を撮りに来ているというその少女は、一人で 久高に居ることが不安でもあるらしく、夜は、私たちの会話の輪に加 わってきました。しかし、昼間は、一人でビデオを廻しながら、島を 歩いていたのですが、グゥソーの辺りで、とても怖くなり、引き返し たといいます。その後、そのビデオを、島のユタ(巫者、シャーマン )らしき女性に見せたところ、「怖すぎて私は見ることができない」 と言ったといいます。島の外では、単なる心霊譚になってしまう話で すが、それがリアリティを持つのが、久高島という空間です。
===========================================================




前ペ−ジに戻る

SuetsuguHOMEに戻る