『奄美・沖縄エッセイ』041
■■■■■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 2007.09.25 ■ ■■◇■ ◆■■ ---------- ■ 奄美・沖縄エッセイ ■◇■ ■■ ■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ No0041 ■ =========================================================== +++++ 等幅フォントによってレイアウトされています。++++++++ =========================================================== ■□■ 奄美・沖縄、なんでも話題、メールマガジンです。■□■ ■□■満月と新月の夜に配信します/本日旧暦0815○満月■□■ -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-      □◆□◆□▼ 琉球使節と命の酒(続き) ▼□◆□◆□ ハイサイ、みなさんお元気ですか。前回の続きです。この二週間で、 ずいぶん秋めきましたね。 さて、潮待ちのために、鞆の浦に宿をとった琉球使節一行ですが、そ のときの記録が、鞆の浦の旧家、中村家の文書にあることがわかりま した。その日記には、1842年と、1850年の記録が記されています。と くに後者の方が記録が詳細です。1850年、嘉永3年の尚泰王即位の謝 恩使で、6月2日に琉球を出発し、10月30日に江戸に到着しています 。 鞆の浦には、翌年の復路、1月18日に到着しています。前日には、琉 球人が来ることが、福山近辺の中村家懇意の家に知らされ、見物の人 たちが、鞆の浦の魚屋万蔵の宿に宿泊したと書かれています。実は、 この宿には、坂本龍馬も談判のために宿泊したことで知られており、 現在旅館へと改装中でした。当時としては、大変珍しいがられた琉球 使節の通過に際しては、鞆の浦ならず、各地で多くの見物人が現れま した。鞆の浦でも、これを見物するために宿泊する人も居たことがわ かります。 とくに使節中のいわば団長である「正使」は、中村家の別邸である朝 宗亭に宿泊しました。これは、港のずく側にあり、それとわかります 。建物内部は未公開とのことですが、現在は国の重要文化財に指定さ れています。私の関心を引いたのは、この中村家の職業です。それは 、「保命酒(ほめいしゅ、地元の人はホウメイシュとたしか呼んでい ました)」と呼ばれる特産のお酒を販売していた商家だということで す。保命酒は、江戸時代のはじめから造られていたといいいます。 鞆の浦を歩いていると、現在でも、この保命酒を販売する店をいくつ か見つけることができます。買い求めたお酒に付いている解説により ますと、大阪生玉で開業していた医師中村壌平利時の長男吉兵衛吉長 が、家伝の薬法をもって、1653年に3月7日に製造販売したのが始まり とのことです。現在の保命酒と当時のものが同じかどうかわからない のですが、これには現在16種の生薬が含まれています。これが、アル コール成分によって体にまわり、吸収されるというものです。つまり 、よく知られた養命酒と同じ原理のお酒なのです。 琉球使節は、琉球を出発し、帰るまで、ほぼ一年を要する過酷な行程 でした。当然ながら、途中で体調を崩す人も居ました。たとえば、17 90年の使節に随行した楽師の向生は、鞆の浦で22歳の人生を閉じてい ます。彼は鞆の浦で丁重に葬られ、福山藩の学者により碑も建てられ ました。その6年後に訪れた使節が、向生のために、葬られた小松寺 に扁額を寄贈しています。残念ながら、時間がなく、私はここを訪れ ることができませんでしたが。 このような過酷な行程のなか、おそらく、保命酒は、使節達の体調維 持になくてはならないものだったに違いありません。中村家の日記に は、使節の人々がこの保命酒を大量に買い込んだことが記録されてい ます。また、江戸時代の保命酒についての詩や宣伝文を記録した中村 家の『竹葉集』にも、「うるまの王使たりけるもこの家のなだたる酒 をたへに入れつ」と記され、宣伝にも使われていたことがわかります 。 沖縄や奄美の文化を専攻しながら、情けないながら、酒がほとんど飲 めない私も、町中にあるお店で一杯試飲させてもらいましたが、とて も甘く飲みやすかったです。それだけで少し酔ってしまった勢いで、 当時の琉球使節のことを思いながら、ちょっと元気になったような気 がして、何本かお土産に買い求めました。朝鮮通信使も買い求め、幕 府への献上品になってからは、アメリカ艦隊のペリーの宴にも出たと いうこのお酒、通信販売もあるようなので、皆さんも、歴史に思いを 馳せながら、一杯どうですか。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=- ■◇■ あとがき ■◇■ 鞆の浦に行くと行ったら、友人が、宮崎駿も気に入ったところだと教 えてくれました。それで、ネットで調べてみましたら、「鞆の浦の町 並みを保存しようと、映画監督の宮崎駿さんや大林宣彦さんらが地元 NPOと協力、基金『鞆・町家エイド』の設立準備を進めている。」 という記事を見つけました。呼びかけ人には、両監督の他、C.W.ニコ ル氏も加わっているとのことです。 そして、なんと宮崎監督の次回作『崖の上のポニョ』(2008年夏公開 予定)について、ウィキペディアによれば、「舞台が海沿いの街とな ったのは、宮崎が2005年の春2ヶ月ほど滞在した瀬戸内海・鞆の浦の 風景が気に入った事からである。本作の構想もこの時に練られた。」 とあります。琉球使節が立ち寄った港町が、現代のアニメとして甦る ことになったのです。ご多分に漏れず宮崎作品ファンの私としては、 これほど嬉しいことはありません。映画の公開が今から楽しみです。
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