『奄美・沖縄エッセイ』027
■■■■■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 2006.01.29 ■ ■■◇■ ◆■■ ---------- ■ 奄美・沖縄エッセイ ■◇■ ■■ ■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ No0027 ■ =========================================================== +++++ 等幅フォントによってレイアウトされています。++++++++ =========================================================== ■□■ 奄美・沖縄、なんでも話題、メールマガジンです。■□■ ■□■満月と新月の夜に配信します/本日旧暦01.01●新月■□■ -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=- □◆□◆□▼ 「パトリ」とは何か ▼□◆□◆□ ハイサイ、みなさん、お元気でしょうか。 ここのところ、私の頭の中を一つの言葉が、しきりに往来してい ます。それは、「パトリ」という語です。TVドラマ「瑠璃の島」の 原作、『子乞い 沖縄孤島の歳月』の著者、森口豁氏が書いた『だれ も沖縄を知らない』(筑摩書房)という本を、最近買い求めました。 そして、宮台真司という社会学者が書いたこの本の改題が、「沖縄 を知ることは自分たちのパトリを知ること」と題されていました。 「パトリ」とは何か。さらに、松本健一という人の『民族と国家  グローバリズムを見据えて』(PHP新書202)から引用します。 「『パトリ』とはフランス語で『祖国』を意味するが、もともとは ギリシャ・ラテン語に由来する言葉で、先祖発祥の地、その土地の 神、固有の風土、田畑、そこに棲みつづけている動物、独自の文化、 またその文化を守っている人々、同胞、両親など、すべて含めた 『郷土』のことをことを指す」 つまり、「郷土」のことなのです。そのような「郷土」にもとづ いた思想をパトリオティズムと呼びます。これを普通の英和辞典な どで引くと、「愛国主義」などと書かれていることが多いのですが、 ナショナリズムとは異なります。簡単に言うと(じつはここがいち ばん重要なのですが)、ナショナリズムは、お上からもたらされる もの、パトリオティズムは生活のなかから自然に育つものと言えば よいでしょうか。 宮台氏は、この「改題」のなかで、グローバリズムの時代のなか で、沖縄という土地がどのような意味を持つのかを、このパトリを キーワードに述べています。短いながら、いろいろいと考えさせら れる文章です。私は、この文章で、漠然と考えていた、この現代に おける沖縄というとの意味、つまり、なぜ(私が)奄美や沖縄にこ だわるのか、ということへの指針を与えられたように思いました。 宮台氏は、ここで、グローバリズムは、マニュアル化された、交換 可能性に象徴されるとします。 これに対し、沖縄なら沖縄は、「ここが他ならぬここであること」 を、つまり他とは交換不可能であることを主張するために、重要な 土地だというのです。まだ、そういった側面をかろうじて保持する 沖縄こそは、日本の中において、グローバリズム化への流れを食い 止めるための杭となりうるのだというのです。(かなり、文章の内 容を端折り、私の言葉に置き換えていますので、関心を持たれた方 は、ぜひ宮台氏の文章を直接読まれて下さい) グローバリズム化は、たとえばコンビニエンス・ストアのように、 マニュアル化された交換可能性により、パトリオティズムに空洞化 をもたらすというのです。「他ならぬここであること」から、「ど こでもよいここであること」へ。日本中どこで見てもほぼ同じコン ビニエンス・ストア、世界中どこで見ても同じファースト・フード 店。このような要素が、私たちの生活に広がっていけば、「地域」 の意味は失われます。 沖縄が沖縄であること。さらに言えば、沖縄の中でも、それぞれ の人が生活する単位である(った)シマ(集落)が、そこで生活す る(した)人にとって、ただ一つの大切なシマであること。このよ うなわかりきったことが、じつは、忘れ去られようとしているとい うのです。私は、ゲームの世界に興じる我が子を見ながら、どこで やっても同じその世界は、心の深くまでグローバリズム化をもたら すのかも知れないとも、最近思います。 これに対して強調しなくてはならなこと。それが、パトリオティ ズムだというのです。橋川文三という評論家は、1968年に刊行した 『ナショナリズム』(紀伊国屋書店)という本の中で、ナショナリ ズムとの対比で、パトリオティズムについて触れています。そこに 引かれたミヘルスという学者のパトリオティズムの説明は印象的で す。以下、そのまま引用します。 「祖国とは私たちが子どものころに夕暮れまで遊びほうけた路地 のことであり、石油ランプの光に柔らかに照らし出された食卓のほ とりのことであり、植民地渡来の品物を売っていたお隣の店のショ ーウインドウのことである。私たちがその実のなるのを待ちわびた くるみの樹の生えた庭にこそ祖国はあった。」このような当たり前 の生活風景というのを、私たちは思い出さなくてはならなくなった ということなのです。まだまだこのテーマにはいろいろと考えるべ き問題があるのですが、今回はこの辺にしておきます。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=- ■◇■ あとがき ■◇■ 今日は、新暦の元旦。旧暦で生きていたつい先頃までの日本列島 の住人たちには、この生活感覚は生きているでしょうか。たとえば、 太陽の運行(新暦)をもとに生活する私たちは、朝が一日の始まり ですが、旧暦では月を見ることができる夜が一日の始まりであった 可能性があります。だから、旧暦の新年は、昨日28日の夜に始まっ ていたのかも知れません。このような生活感覚を思い出すことも、 グローバル化に対抗することになるのかも知れません。 =========================================================== ■<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<■ □------◆ 電子メールマガジン:「奄美・沖縄エッセイ」 □----◆ 発行人:末次 智 (すえつぐ さとし) □--◆ E-mail:suetsugu@kyoto-seika.ac.jp □◆ 配信の解除URL:http://www.kyoto.zaq.ne.jp/suetsugu/ ■<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<■




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