『奄美・沖縄エッセイ』023
■■■■■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ 2005.11.16 ■ ■■◇■ ◆■■ ---------- ■ 奄美・沖縄エッセイ ■◇■ ■■ ■>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>◆ No0023 ■ =========================================================== +++++ 等幅フォントによってレイアウトされています。++++++++ =========================================================== ■□■ 奄美・沖縄、なんでも話題、メールマガジンです。■□■ ■□■満月と新月の夜に配信します/本日旧暦10.15○満月■□■ -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=- □◆□◆□▼ 「おせんみこちや」の窓から ▼□◆□◆□ ハイサイ、みなさん、お元気ですか。 百聞は一見にしかず、とはよく言いますが、現場を訪れることに より、それまでの思いこみが間違いであったことを知ることはよく あることです。 もうすでに、11月半ばです。それにもかかわらず、今回もまた、 夏の沖縄合宿に関わることについて書きたいと思います。これは、 琉球王府の信仰の核心に触れることですので、なにとぞご容赦下さ い。 私が学生時代を過ごした頃(1978-83)の那覇市首里の高台には、 今のように首里城は建っていませんでした。1945年、第二次世界大 戦末期の沖縄戦でアメリカ軍の集中砲火をあび、その想像を絶する 猛攻撃に、国宝に指定されていた首里城は灰塵に帰しました。城が 再建されたのは、1992年のことです。今からは想像しづらいことか も知れませんが、再建以前の首里城跡には、アメリカ軍がつくった 琉球大学のビルが建っていました。 学部時代をそこで学んだ私は、首里の高台で琉球王府の文化を勉 強しながら、かつての琉球王府の王や士族、そして神女たちと時を 隔てて生活空間を共有しているという妙な感覚を持つようになって いました。キャンパスから遠く座間味諸島を眺めながら、これがか つて歴代の王が見てきたた眺めだなどと思っていたのです。その思 いがすべて間違っていたというわけではありませんが、今度学生た ちと首里城を訪れていて、一つの誤りを見つけてしまいました。 今回の合宿は、前回までのメルマガで触れたように、久高島を訪 れることが目的でしたから、首里に集合した私と学生たちは、久高 島を意識しながら行動していました。とくに、あまり観光客が訪れ ることのない、首里城北方の聖地・弁ヶ嶽を訪れることにしていた のは、そこから久高島を望んでから島に渡ろうと考えてのことでし た。琉球大学のキャンパスからは、つまり首里城からは久高島は見 えないと思っていたからです。かなり前に刊行した拙著にも、次の ように記していました。 「首里城から直接久高島をみるこはできないので、王は弁ヶ嶽か ら太陽を拝んでいたのである。」(『琉球の王権と神話』第一書房、 1998年、180頁)校正ミスが多い、拙い本ですが、琉球王の権力の 源を明らかにしたいという妙な熱病に取り憑かれながら若書きした 一書です。上記の引用は少し舌足らずで、補足すると、王は「久高 島から昇る」太陽を弁ヶ嶽から拝んでいたと述べようとしています。 わざわざタクシーに乗って、蚊が飛び回る聖地に赴いたのは、上記 を実証しようと思ったからです。 ところがです、最初に訪れた首里城で、大庫理(ウフグイ)と呼 ばれる正殿の二階を訪れたときです。その南東隅にある「おせんみ こちや」(語義未詳)という部屋の窓から久高島の方を眺めていた ときです。丘々が重なる谷間から島らしきものが一部ながら見えて いるのに気付き、ハッとしました。そうです、それは久高島だった のです。首里城の二階という位置に上がったことによって、島が見 えたのです。「火の神」を祀る床の間があるというその部屋は、久 高島への遙拝所でもあったわけです。 たしかに、弁ヶ嶽からの眺め(こここからも全景は見えませんが) に比べると、一部ではありますが、聖なる島、久高島がたしかに見 えます。一緒に行った学生達も気付いたようです。今回は、久高島 に宿泊することが目的でしたから、意識していたのだと思います。 あるいは、かつてのキャンパス内のビルの上の階からは、意図すれ ば島が見えていたのかも知れません。しかし、首里城のある丘か らは久高島は見えないと私は思いこんでおり、そのために拙著に上 記のように書いたのです。 第一尚王統以前の王統が居城とした浦添城から見ると、冬至に太 陽がそこから昇るという久高島が見えるかどうか。これは太陽を聖 なる力の源とする王権のあり方を前王統より引き継いだと考えられ る、第一・第二の尚王統には大問題なのです。豊見山和行氏は、拙 著以後、新しい資料により、琉球王が久高島に渡り、島最大の聖地 クボー御嶽に入ったことを実証しています(『北の平泉、南の琉球 (日本の中世5)』中央公論社、2002年)。あの聖なる空間で王は どのような祭礼を行ったのでしょうか。 今回、発見した(?)事実をもとに、私の琉球王権論も考え直す べきところがありますが、それはメルマガというスタイルでは内容 がくどすぎるような気がします。また、別の形で考えてみたいと思 います。 -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=- ■◇■ あとがき ■◇■ ほんとうに長く引っ張りましたが、夏休みの合宿に関わる内容は、 今回で終わり(のはず)です。それにしても、再建された首里城を これまで何度も訪れているのに、「おせんみこちや」から見える久 高島に気付いていなかったのは、うかつでした。「見える」ことと 「見る」ことはほんとうに違うのですね。もし、みなさんが首里城 を訪れましたら、二階の窓から見える久高島を見つけてみて下さい。 =========================================================== ■<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<■ □------◆ 電子メールマガジン:「奄美・沖縄エッセイ」 □----◆ 発行人:末次 智 (すえつぐ さとし) □--◆ E-mail:suetsugu@kyoto-seika.ac.jp □◆ 配信の解除URL:http://www.kyoto.zaq.ne.jp/suetsugu/ ■<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<■




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