ぱたぱたと戸を叩く雨音に、サチは針仕事の手を止めた。
 今時分なら耳にするはずの、野良仕事の人たちの陽気な唄声はどこか遠く、水かさを増した川の轟音が、うんと近くで響いている。
(まんず、よく降る雨っコだじぇ、堰さ崩れねばええんだども……)
 土間の隅に置いてある壷に目をやって、サチはひっそりと溜め息をついた。壷の中には少しずつ溜め込んできた白米が備えてある。だがこれだけで足りるかどうか。
 猿ヶ石川の水かさが増し、取り入れ口の堰を押し流し、稲があらかた駄目になったのは三年前のことだった。飢餓状態で、食料の尽きた二月には、雪解けの山に最初に芽吹くあのカタゴを、摘みに行かねばならなかった。
(また、あんなことさなってみろ……)
 ぞぞぞ、と背筋に這い登ってくるものを感じて、言葉にするとそれが本当になるとでもいうように、サチは頭を一振りして過去の悪夢を追い払った。そして昨日から猟に山に入っている捨松に、想いを馳せた。
 カタゴを摘みに分け入った山の中で、サチが賊に襲われたのも、三年前のことだった。村中どこの集落も、豊作とは無縁の痩せた土地。たとえ奪うものがなくても、若い女なら廓に売れば金になる。その危ういところを捨松が救ってくれたのだ。
 飢餓と山賊が結んだ奇縁。なんと神さまァいるもんだ、とサチはつくづく感動した。今やその捨松はサチの夫となり、真面目に働いてくれている。盲の母トミは、どこの馬の骨ども知れね男だと言って捨松を毛嫌いし、一向に仲良くしてはくれないが……。
 再び思考が暗いほうへ傾いているのに気付いて、サチは自分に言い聞かせた。
(いんや、大丈夫だ。おらァ心配しすぎんべ)

 しかし雨は降り続けた。
 ようやく止んでも空はどんよりと曇り空。いっかなお天道さまを拝めやしない。サチはその日、土間で昼餉の支度をしていた。大根の漬物に粟飯の握り。野良仕事に駆り出された捨松に持って行ってやるのだ。
 座敷にいる母親に声を掛けようとしたその時だった。ドンドンと戸を叩く音がした。サチはとっさに身構えた。一瞬頭を過ぎったのは、真之介が押し入って来たときのことだった。大きな手で掴まれて逃げ切れず、床に組み敷かれた恐怖は、まだ記憶にも新しい。
「……誰だ、捨松か?」
 怖々と木戸越しに声をかけると、聞き覚えのある声が言った。「おらだ、長次郎だ。トミに相談してえことがあっで来た」
 サチは盛大に顔をしかめた。長次郎は、あの真之介の父親であり、村一番の長者どのでもあって、寄り合いではいつも大きな顔をして人に指図する。だが母親のトミは物知りで評判の巫女、長次郎はひいき客の一人なのだ。サチはしぶしぶ木戸の閂を外した。
 しかし外には長次郎だけではなく、庄屋の喜兵衛、そして過去の一件など忘れたような顔をして真之介が立っていたから驚いた。喜兵衛が呆れた顔して言った。
「あいかわらず用心深えの。そんだら用心してっから、お前んとごの捨松、子供さらって食う山男だなんて、噂立てられんだと」
 二人が笑うその後ろで、真之介の薄い唇がにやりと笑った。サチはぞっとした。
 確かに捨松は評判が悪い。赤子の時に山に捨てられ、猟師に拾われ育てられたが、その養父も早くに死んだらしく、それ以後は山で独りきりの生活だったという。加えて巨漢の赤ら顔だ。その出自と見目が、山男の噂のもとになったのだろう。
 捨松も否定しないから、「頭悪ぃか山男、おめが打った田ァ畦もねべ」だの、「山男のくせに木綿着てっど。麻のムジリさどこやった」などと、囃したてる方も調子に乗る。最近では節までついて、子供のわらべ唄になっている始末だ。
 だが実際のところ、それは真之介の逆恨みのせいなのだ。
 あの時、真之介が押し入ってきたのは、サチを手込めにするためだった。相手にしてくれないのを思い余ってのことらしい。しかしそれも捨松に邪魔されて、たった一発で彼は伸びた。いい気味だ。だが、それが彼の自尊心を傷つけたのは、想像するに難くない。
 二十三になってまだ身を固めねェのはお前のためだ。おらと一緒になれサチ。好きなだけ贅沢させてやんべ。雨あられと降り注がれた口説き文句が絶えたのもそれ以来。代わりに湧いて出たのが、捨松が山男だという根も葉もない噂話だった。
 しかしその程度なら可愛いもの、悠長に構えて受け流してもいられるが、サチはここのところ少し不気味に感じている。野良仕事はおろか満足に馬も扱えない真之介は、それでも長次郎の後継ぎだ。村人の多くを小作人として雇うことになる次の地主さま。彼に追従し愛想を振りまく村人はたくさんいる。噂だけで気が済んでくれれば良いのだが……。
「かがさ呼んで来っから、座敷さ上がって待っでいでおぐんなせ」
 三人を座敷に案内するあいだ、サチは体中にまとわりつく視線に堪えねばならなかった。それが誰のものかなど確かめるまでもない。真之介だ。いったい何を企んでいることか。
 逃げるようにして隣の座敷に行けば、トミが見えぬ目を壁に向けて正座していた。
「ががァ、いまな……」
「ああ、聞いてたと。相談ごとなら、堰のことさ違えねェ」
 そして、いつものように手を貸すサチに「ああサチ、お前はええがら捨松に握りっコ持っで行げ」などと言うから、サチは一瞬耳を疑った。
「捨松にだか……?」
「んだ。んでその帰りに、川の水なじょになっているか、母に教えてくんろ」
 サチは目を瞬かせた。これは捨松を思いやっての言葉だろうか。大飯食らいのウスノロといつも罵倒する母親が? 判断しかねて小首を傾げるサチに、トミは促すように言った。
「さっさと行げ。真之介と一緒にいてえか」
 サチは頷きそして落胆した。トミはいつも、娘の自分には優しいのだ。
 
 曇り空の下、黄金色の稲穂が、風に吹かれてさわさわと揺れている。もうすぐ、今までの苦労の報われるときがくるのだ。だがそれが全て、徒労に終わるかも知れない――。
 かつて稲が水に浸かって横倒しになったさまを思い出し、サチは戦慄した。なんど頭を振っても、身体に刻み込まれた恐怖は簡単に消えやしない。飢饉の苦しみは地獄絵だ。神頼みしたくなる気持ちも、よく分かる。
(……だども今さら、なんじょできんべ)
 三年前に土台もろとも消失して以来、取り入れ口の堰は、修繕してもすぐに壊れてしまって打つ手がない。今のだっていつまでもつか。すでに猿ヶ石川は、その腕いっぱいに水を抱えて溢れんばかり。今にも泣き出しそうな顔した空が村を覆っている。
(ががァ知恵者だども、こればっかりはなんじょもなんね。それをなすて今さら……)
 真之介の見せた笑みが脳裏に張り付いて離れない。サチは畦道をとぼとぼと歩いた。
 長次郎は親ばかだし、頼みの綱の喜兵衛もまた日和見主義。トミにしても、二人は大事なお得意さまだ。針仕事を請け負うサチも、本業は猟師の捨松も、立場は同じだ。村の有力者に睨まれては生きていけない。だから座敷に通したものの。
 かつて狼藉を働いた男に何一つやり返すことができず、サチの我慢の限界はとっくの昔に超えている。子供じみた逆恨みも腹立たしいが、村人の生活がかかった堰についても、彼らは軽視しているとしか思えない。考えるほどに腹が立ってきて、崩れた水路に土を運ぶひときわ目立つ大男を見つけたときには、サチの怒りは頂点に達していた。

「……そんで、おっかねえ形相しでたのか」
 握り飯をほお張りながら、捨松は楽しそうに合いの手を入れる。サチは面白くなかった。
「だども腹立づでねェか。百姓の苦労も知んねェで今さらなんの相談だじぇ。真之介ァにやにや笑って気味悪いし。おら我慢なんね」
「サチ、言いてえ奴ァ言わせておけ」
 お前さま、と非難いっぱいに睨みつけるサチを無視して、捨松はぬかるんだ土手をひょいひょいと渡って行く。戻って来たその手には二つの竹筒、見るとなかには濁った川から汲んだとは思えぬほどの、清らかな水があった。
「今ァ雨が多いからこんなだども、もしこの川の水さ乾上がってみろ、おらだず飯っコにもありつけね。辛ぐども我慢するしかね。雪っコ解けるの待づのと同じだ」
 サチには返す言葉がなかった。ただでさえ隣村から移り住んできたヨソ者だったのがあの一件以来、さらに扱いがよそよそしくなり捨松は馬鹿にされ、それが気に障ってトミまでもが捨松に辛くあたる始末なのだ。真之介もその性根を入れ変える日が来るとは思えない。確かにじっと耐えるより良策はない。
 だがサチは時々、何かに追い立てられる夢を見て、夜半に目を覚ます時があるのだ。そうしたとき、サチは枕辺に手を伸ばす。そこにはいつも小刀が置いてあるのだ。枕刀と言って、主を悪い夢から守ってくれるお守りだ。それは捨松が猟で家を空けるときには、もっとも頼もしく感じられるものだ。
 だがそれも気休め、いざと言う時には何の役にも立たないであろうことを、サチはあの時、思い知らされた。
「……おら、お前さまと山で暮らしてえ」
 捨松が目を見開くのにも構わず、サチは一息に続けた。
「したら真之介も手ェ出してこれねェべ、おらも枕刀なぐともよぐ眠れっど。お前さまも馬鹿にされんでええがス」
「……んだら、ががさんはなんじょする?」
 駄々をこねる子供をあやすような口振りだった。サチはきゅっと唇をかんだ。濁った川の中、目の前を丸太が浮きつ沈みつして通り過ぎていく。轟音が沈黙を押し流す。
「……おら、サチと一緒になれて幸せだじぇ。そんたな顔すんでねェ」
 捨松の優しい言葉も、こんなときには余計に辛い。サチは膝に顔を埋めて言った。
「嘘づくでね。意地の悪いががと村のひとだども、嫌んなっで当然だ」
「嘘でねェべ。おら山男でねェどもこのなりだ。山ン中でひとさ会っでも、おっかながられて淋しい思いいっぺしたど。んだから、童コに囃されんのも嬉しいんだじぇ」
 顔を上げると、捨松の赤ら顔がにっこりと微笑った。本当か、と問えば、こっくり頷いて破顔する。サチは申しわけないのと愛しいのとで胸がいっぱいになり、ぎゅっと捨松に抱きつくのだった。

 その夜、三人揃って囲炉裏を囲んだ夕餉のとき、サチは思い切って切り出した。
「おらだずこの村に縁コもねェことだし、どこでもよがんす、よそへ引越せねェが……?」
 昼間のうちに、捨松と話し合って決めたことだった。もともと土地を持たない流れ者、どこででもやって行く自信はある。ただトミの巫女業が続けられなくなるかもしれず、身体の不調を訴えるのが多くなったこともあるし、そろそろ隠居してはどうだ、というのが娘夫婦の考えだった。
 白湯を啜りながら黙って聞いていたトミは、サチが話し終えた後、しばらく考えてから頷いた。
「ほんだら、意見さ一致するべな。ええがす。おらだず隣村に移るべし」
 サチは目を輝かせて捨松を見た。頑固な母親のことだ、もっとごねると思っていたからあっさり承諾をもらえたのが嬉しく、またどこか意外な感じもした。捨松も同様に感じているらしく、興奮よりも困惑の色が濃かった。
「はれ、意見の一致とは、なんじょだすか」と尋ねる捨松に、トミは口元に微かに笑みを浮かべて言った。「長次郎どののこどだす。今日の相談も、そのこどでいらすっだス」
 トミが言うには、長次郎は、真之介の起こした例の一件が、真之介の縁談にどんな影響を与えるか分からないので、サチたち夫婦を遠ざけておきたいと考え、そこで今日の昼、口止めと引越しを頼みに来たらしかった。
「はァ、縁談の話コ、あるだすか」
 初耳だと驚くサチに、今ァ相手を探しでるどころだ、とすげない返事。サチは土間で見た真之介の不気味な笑みを思い出し、首を少し傾げた。何か悪いことを企てているもんだと思っていたから、違和感を感じたのだ。
 しかしよくよく考えれば、もっともだとも思えてきた。
 人妻に横恋慕した挙句のあの狼藉はどうしたって外聞が悪い。そうでなくとも手癖の悪い放蕩息子だ。早いうちに矯正しておかなければ家が傾く元凶にもなるだろう。あの親ばかも人並みの常識を持っていたのか思うと、感慨深いものがあった。
「そんだら明日にでも、喜兵衛さまに引越し先の口入れ、頼んでみんべ」
 村から追い出されるようでいい気はしないが、これで真之介の影に怯えずにすむ。サチはそう思うと嬉しくて、その夜は久しぶりにぐっすり眠ることができたのだった。

 しかしその二日後。サチは苛立つ朝を迎えていた。
 すんなり隣村に移ってきたものの、以前と同じく早池峰山が一望でき、湿った風が髪をなびく変化のなさ。濃厚な雨の匂いに、稲穂が不安げに頭を垂れる。その荒れた天気のなか、捨松が、荷物を届けに山に入ることになったのだ。
「なすて今日でなくてはなんねェ。雨降って山さ荒れっど。行かねェでおぐんなせ」
 神事に関わることだからと、わざわざ潔斎して白衣を着てのお使いである。そんたなこど駄賃づけのやっこに頼めばええ、とサチが言うのを、トミは聞き入れてくれなかった。
「おらァ、マタギの生活さ長えからな、山のこどならよく分かる。心配ねェ」
 捨松もお人好しに、ががさんの役に立つなら構わねべ、と安請け合いした。それで現在捨松は白衣を着、トミの知り合いから借りた白馬の背に、荷物をくくりつけている。
「夜までには帰ってくるから、辛抱してくんろ。真之介ならこっちゃまで来ん、心配ね」
 行き先は、サチが住んでいた松崎の村よりさらに山奥にある集落だ。遠いようで近く、近いようで遠い。だが越してきて日が浅いせいか、期待したほどの変化を実感できず、不安は拭いきれていない。トミは変わらず捨松に冷たいし、お天道様もぐずってばかりだ。
「……ん。気をつけて行っておぐんなせ」
 白馬がいななき、捨松が手綱を引いていく。その背中が見えなくなるまで見送って、サチは家に戻った。大きな溜め息を一つ吐き、仕立て途中の着物に手をつける。だが馴染みのない家の中はどこかよそよそしく、しんとしていて落ち着かない。
「行っだか?」
 背中で声がして振り向けば、薄暗い上がりかまち、トミが杖を手にして佇んでいた。見送りに来るなど珍しいこと、それほど大事なお遣いを頼んだのか。訝しむ自分さえも厭わしく、サチは居心地の悪さを感じて、ふと思いついたことを口にした。
「……そういやァ、おらも仕立物届けに、村に行かねばなんねェなあ」
 中腰になったのは鋏を取るため。それをどう勘違いしたのか、サチの腕をつかむ皺だらけの手があった。
「サチ、行っちゃわがんね」
 強い口調、強い力だった。サチは驚いてトミを見上げた。
 引き止めるのは何のため、そもそも、隣村に越してきたのは何故だったのだろう。背筋に走った閃きは、そら恐ろしいものだった。
「……長次郎どのァ、あんとき相談と言ってたと。ががァ、なんの相談さ受けたっと?」
 返答のない代わりに、トミの手に力がこもった。サチはぞっとして思わず老婆の手を振り払い、戸口へと後退りした。
 脳裏に浮かんだのは、昔話の一場面だった。水難を防ぐための、忌まわしい行為。
「捨松ァ、山男だ。お前ァ鬼に魅入られたんだ、サチ。あれには山さ帰ってもらう」
 獣が唸るような低い声だった。サチはようやく、真之介の見せたあの笑みの意味を知った。血の気が引いていく。
 「……ひとでなし」思わず洩れた呪詛の声に、トミはびくりと肩を震わせた。「このひとでなし! ひとの心さ消失(きえう)せてしまったか!」
「サチ、待つんだ。おらの話さ聞げ!」
 背中でなにか物の倒れ落ちる音がしたが、サチは振り返らなかった。
 家を飛び出すと脇目も振らず、川沿いの村道をひたすらに走った。

 城下町から村へと渡り歩く商人には何人かとすれ違ったが、宮崎の村に入ると出来の悪い読本のように、百姓の姿だけが奇妙に絶えた。
 収穫を待つ稲穂を放って、みんなどこで何をしているのか。最悪の場面が脳裏に浮かんで、それを打ち消すためにサチは走った。
 ――そして遂に。
 馬の興奮していななく声と、村道にできた人だかりを見つけた。
 膝が笑うのをむりやり先に進めれば、人だかりの真ん中に見慣れた姿があった。
「お前さま!」
 集った人々が一斉に振り返った。その険呑な目つき。
 捨松のひどく青ざめているのに身震いしそうになりながら、サチは人だかりに近づき、やっとの思いで問いかけた。
「この集まりはなじょなわけだ?」
「お、お前さまのががさんが言ったど」
 川の轟音に負けぬような大声で、誰かが叫んだ。
「三日後の今日、村を白衣白馬のひとが通るから、そのひとを捕まえて堰に沈めて、堰の主になってもらうしか、仕方がねェと」
 サチは二の句が継げなかった。気が付けば背後に人が回り込んでいて、追い立てられるようにして捨松にしがみついた。遠くで雷が鳴り、雨がぽつぽつと降り始めた。
「サチ、お前、なんじょする」と震える声が訊いた。
 サチは泣きたくて微笑んだ。「おら、お前さまといっしょならええ」
 捨松はうなずき、背後からサチを抱き上げ馬の背に押し上げた。逃げるとでも思ったのか、百姓が鍬や斧を手に身構える。一段高くなった視界の雨の向こう側で、何かを喚く真之介と、それを押さえる長次郎親子の姿が見えたが、サチにはもうどうでも良かった。
「神さまのお告げなら仕方あるめえ。だども人身御供は昔から、男蝶女蝶のそろうのが慣わしだ。おらの嫁っコも連れて行ぐど」
 朗々とよく響く声で捨松が告げた。そしてすばやく馬に飛び乗ると、一声馬を走らせた。
 声をあげる暇もなかった。馬の背が遠ざかっていき、ドブンと川の中に沈む音が全てだった。立ち尽くす人の頬に、肩に、足元に、礫のような雨粒が降りかかる。
 そこへ、よろよろと歩いてくる人影があった。川に沈んだ夫婦の母親、トミだった。
「ああ、なんでことだ。サチ、サチ、許してくんろ、許してくんろ」
 我をなくして川原に行こうとするのを止める者は皆無だった。ごうごうと咆哮を上げる川だ、危険は承知だったに違いないとは事後の言い分、トミは足を滑らせあっけなく川に転落した。

 しばらくの後、川辺に小さな祠が建った。
 名を母也堂という。祀られているのはトミの霊である。
 そこに毎年、誰かは知らぬが花を添える人がいる。捨松とサチではないかと噂する人もいるが、あの夫婦は堰神さまになって堰を守ってくださるのだと言って、庄屋などは耳を貸さない。

 了
←小説INDEXへ  
By Tacni Ririko copyright (C) All rights reserved since June 2006.