2002年 9月 4日

 ブライアン・ジョーンズ
 Brian Jones



    余りにも夭折という言葉が美しく当てはまる故に、「極私的」という意味では取り上げられるべきでないであろう。しかしながら、あえて彼を取り上げるのは、ブライアン・ジョーンズは何も残さず、「夭折」という言葉を手中にしたからだ。彼は、才能があると言われながら、何ひとつ才能を発揮することなく、伝説の人となった。美学的なロック・スターの夭折は、彼以外に草々たる面々の名前を列挙することができよう。ジミー・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、マーク・ボラン・・・・等が、いわゆる「夭折伝説」の代名詞である。しかし彼らは、才能と言われるものを発揮し、何ものかを残して、この世を去った。だが、かのブライアンは何も実績を残さなかった。ただエレガンスで、退廃的で、皮肉っぽく、時には自意識過剰な身のこなしをイメージとして残したに過ぎない。唯一、彼が特権的地位を与えられるとすれば、ドラッグ・カルチャーにおいて、彼が「夭折第一号」であるということだけである。ましてや、夭折ということだけなら、ロック・スターの元祖、バディー・ホリーこそ、第一号の称号をあたえられるべきであろう。
  しかしながら、やはりブライアン・ジョーンズに触れないでおく事はできない。彼は本当に、何も残さなかったのだ。ただ、先に触れたように、才能があると言われながら、M・ジャガーとK・リチャーズの嫉妬により、才能を発揮させられなかった。そこが、何も残せず世を去った、あるいは去らねばならなかった彼の死を魅力的に見せるのは否めない。
  もともとブライアン・ジョーンズはローリング・ストーンズのリーダーだった。デビュー当初、ブライアンの奏でるギターは、同じギターのK・リチャーズの相手ではなかった。特に、映像にも残っている彼のスライド・ギターは印象的である。メンバー曰く、ブライアンはどんな楽器でも、手にとるとわずかな時間でテクニックを習得し、人前で演奏できる非凡な才能をもっていたという。更に、ブライアンを他のメンバーから際立たせたのは、そのファッションであり、いわゆるマッシュルーム・カットは、彼のブロンドの髪に一番マッチしていた。またインタビュー等で語る、彼の口調は、その眼差しとともに魅惑的に感じさせた。彼の一挙手一投足がすべて羨望の的であり、それ故にメンバー間の仲たがいを生じさせた。というのがストーンズ初級入門の筋書きなので、ことの真相を掘り下げる事はここでは行わないが、ともかくミックとキースが嫉妬したか、しないかは別ににして、ブライアンがバンドから影をひそめていったのは事実で、初期の華々しいブライアンの姿も、ミックとキースが自作した曲が売れ出した頃には、彼のバンドにおける居場所はなかった。 更に自分の彼女を同僚であるキースに寝取られ、ドラッグに溺れたブライアンは、最終的にメンバーから解雇をつきつけられる。ゴダールが撮った映画「One Plus One」で映し出される、当時のブライアン・ジョーンズのドラッグで逝ってしまった表情は、やがておとずれる彼の死を魅惑的にさえ思わさせる。
  ローリング・ストーンズから脱退した約1ケ月後、1969年7月3日、ブライアン・ジョーンズは、自宅のプールで水死体で発見される。死因は現在でも不明である。薬物の大量摂取か、事故死か、あるいは謀略説まである。享年27歳。

  最後に、と言ってもこれといって何かを論じた訳ではないが(語らない方が良い)
、日本人にとってブライアンは、中原中也とオーバーラップするところがあるだろう。長髪な「おかっぱ頭」、親友(小林秀雄)に女を寝取られたこと、落ちてゆく人生、そして夭折。ただ、中原中也は、死後(正確には死の直前)に、ちゃんとと実績を残した。くどいようであるが、ブライアン・ジョーンズは何も残さず「夭折」した。

※追記:日本で著名な(?)CWニコルは、学校でブライアン・ジョーンズの先輩であるらしく、自著「CWニコルと21名の男たちで」の中で、自分がブライアンの親分であったとほざいているが、その中で、ブライアンのことを「やっこさん」呼ばわりしている、馬鹿な英国人は許す訳にはいかない。CWニコルなぞ、もっともブライアンにほど遠いスノッブであり、「やっこさん」にブライアンを語る資格はない。



 極私的 夭折列伝 
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