さっそく翌日、レコード店に足を運び、Duran2の商品を探したが発見できず(まだ販売されていなかった)、結局、数週間後に1stシングルと1stアルバムがリリースされた時には、私はすっかりDuran2の、いやジョンの虜になっていた。それまで私は、自分がギターを演奏し、バンドもやっている事もあって、ヘヴィ・メタルやハードロック以外は軟弱な音楽としか思わなかったし、他の音楽を罵倒していた。しかし彼らのおかげで、他の音楽を受け入れる素地ができ、その後ありとあらゆる音楽を聞くようになったのも、Duran2と出会わなければ起こり得なかったかも知れない。私はその後、音楽だけでなく、当然、彼らのルックスも追従し、ジョンのようなフリルのシャツを着たり、ワインレッドに髪を染めたり、おもわず化粧もやりかけた。
それにしても私のなかでDuran2の絶頂は、2ndアルバム”RIO”が発売されるまでだった。たしか初夏だったと思うが、この”RIO”の発売が、私の人生なかで一番、心待ちにした思い出ある。ゆえに私にとってDuran2は彼らの思惑とは裏腹に、初期のDuran2が私にとってのDuran2である。事実、”RIO”以降は放物線を描くように熱は冷めていった。世間に騒がれるようになった”The Reflex”の頃にはもはやジョンも初期の頃の艶めかしさは薄れ、結局、私がDuran2を追っていたのも、最大”A View To A Kill”の頃までだ。つまりオリジナルメンバーが揃っていた頃までだ(これは多くのDuran2ファンもそうだろうと思う)。
オリジナルメンバー時代に、彼らは確か二回来日しているが、両方ともいけなかった。一度目は私にとってかなり良い時期のDuran2だったが、当時私は毎日野球部の練習で、ライブに行くことは完全に不可能であった。二度目の来日には先のとおり、もう熱がかなり冷めており、わざわざ行く気になれなかった様に思う。それゆえに、今回のオリジナルメンバーでの来日は寝耳に水、青天の霹靂とさえ感じた。元来、メンバーの脱退はロジャーが音楽業界を去りたく、アンディーはサイモンと仲が悪いというシリアスな事由のため、再結成など夢にも思わなかった。ゆえに、それが実現されるとなると、もはやDuran2の人気など昔日の栄光と思えども、夢のように感じられ、さっそくチケットを購入した次第である。あのジョン・テイラーを生で見ることができるのだ。
2003年7月7日、月曜日。会場の大阪城ホールに午後六時過ぎ、到着。あたり薄暮に包まれ、今から初めてDuran2を目の当たりにするかと思うと、日頃見慣れた大阪城公園やホテル・ニューオータニの風景も、何かしら幻想味を帯びて瞳に映りだす。道行く人は、さすがに年齢層が高そうで、子連れの壮年女性がやたらと目につく。外人もまばらにいて、やたらと業界人風の茶髪の人間が多く思える。アリーナに入り、自分の席を探しあてた私は、思っていたよりステージが真近で、早くも満足と興奮を覚えた。3列の左寄り、まさしくジョンがベースを弾くポジションだ。7時開演の予定で、なかなか登場しない彼らを待つ観客は、次第にどよめきを大きくした。場内のライトが落とされ、いざ登場するかと思いきや、なかなかステージに変化が見られず、相変わらず機材のチェックを行っている。ほぼ30分経過し、ステージが更に暗く、ライトを落とすと、5人の人影がステージ中央に並んだ。真っ暗なステージで一列に整列した彼らは、何にかの儀礼のごとく、一人ずつ列をはなれ、自分の楽器の持ち場へと付いてゆく。各々が楽器を手にすると、再び静寂が暗闇を支配し、そこへ重たいシンセの音が流れはじめる。数秒後、閃光とともに”Friends Of Mine”が始まった。いっせいに観客は踊りだすと同時に、男女入り混じった歓声が耳をつんざく。男が発する「ジョン!」という声は異様だ。それでもジョンがステージを移動し、目の前にやってくると私も興奮を禁じえなかった。あれほど憧れたジョンがいま目の前にいるかと思うと信じられない気分になり、私も思わず両手を挙げてで「ジョン!」と怒鳴った。
“Hungry Like The Wolf”、そして”Planet Earth”のイントロが流れ出すと、私はさっそくジョンのベースギターを凝視した。”Planet Earth”は指弾きではなく、ピック弾きであった。やや落ちついてステージを見れるようなった私は改めてジョンを伺い見ると、さすがにジョンにはかつての美しさはなく、見ようによっては単なるオッサンに見えてきた。ステージの青いライトがジョンの相貌を変に映しだしたせいかもしれないが。ともかくジョンの整った顔立ちは恐れ入ったが、往年のエレガントさは欠けていたように思う。むしろ感じたのは、ニコニコしながら流暢にベースを弾く姿だった。かなり早いフレーズも何の苦も無く、微笑みながらプレイしている。ふと思ったのは長身のジョンから考えると、指が長く、ベースを弾くにはうってつけなのかもしれないという事だ。
ステージを見回すと、ロジャー・タイラーは相変わらずしかめ面でドラムと懸命に向き合っているし、サイモン・ル・ボンも相変わらずのクネクネした蛸のような踊りで歌っている。アンディー・タイラーはサングラスを外すことなく、満足そうにギターをプレイし、ニック・ローズはキレのあるサンプリング音を曲の合間に響かせる。このサンプリング音が結構いい音をしていたのが印象的だ。
おなじみに曲を数曲演奏し終えると、再結成後に作成した新曲を披露した。しかし正直、受けはいまひとつであったが、悪い曲ではないように思えるが、ヒットするかといえば否定的だ。さすがに新曲の時には観客はダレ気味で、新曲と既存の曲を割と交互にやるものだから、いまいち調子は上がらなかったように思う。それでも、初期の”Night Boat”や“Careless Memories”を演奏する処などは、初期のファンにとってはありがたい限りであったし、また一番興奮さえした。これぞDuran Duranとさえ思った。ただ残念なことはPAの調整が不備なのと、私の席がPAの前だったこともあって、ジョンのベースがガンガンに響いて、心臓が止まりそうだった。おまけにサイモンのボーカルもレベルオーバー気味で、せっかくの美しい”Ordinary World”も高音がハウリングしてもったいなかった。思わぬハプニングは、曲の合間にジョンがチューニングをしていたところ、まだ途中なのに、いきなり”Wild Boys”の出だし、バスドラムが鳴り始め、ジョンはそのまま演奏をしだした。半音くるったままなのであろう、キーはEなのに半音上げたポジション(F)でプレイを乗り切った。これに気付いた人は少ないはずだ。
ステージは最後の曲”Careless Memories”にさしかかった。予想通りに選曲だった。おそらくアンコールは”Girl On Film”と思っていたところ、実際アンコールの最後は”Girl On Film”で、最後のステージにサイモンの”Shooting Star”の言葉が轟いた。残念なことは2回目のアンコールはなく、あっけなくステージは終了した。それでも私は十分に満足であった。アリーナをあとにして、彼らの立っていたステージを帰りみる。完全に青春が終わったような気がした。すっかり暗くなった大阪城に出ると、ついさっきまでステージにいたジョン・タイラーが幻のように思えた。