2002年08月05日

 住基ネット−国民総背番号制について

 今日から住基ネットワークが稼動された。導入に際して、世論そしてマスコミはこぞって、国民総背番号制に脅威と怒りを顕わにした。「番号で人間を管理するのは怖すぎる。」
「人間に番号を割り振るなんて、我々はロボットではない!」
ニュースステーションで久米宏は、
「来週から国民、一人一人に11桁の番号が割り当てられます。冗談ではありません。」
とワザとらしい、しかめ面をテレビ画面に映し出した。
  「11桁の数字が国民に割り振られる」・・・・それがどうしたと言うのだ。何にが悪いのか。もし、11桁の数字が嫌なのであれば、英数字なら良いのか。"X15TF5AYT8F1"なんてどうだろう。それが嫌なら、カナ使用では。"ロ8Uヒ9キLハSウ5テ"。絵文字を使っても構わない。"kaneko1919(`_@)"。それでも嫌なら、漢字ではどうか?・・・・・そうすると、結局、自分の姓名になる。自分の姓名をあなたは否定するのか。姓名は自分のアイデンティティに他ならないが、そもそも記号の表象に過ぎないのだ。自分が如何に表象されるかが問題であって、数字か漢字かの問題ではないのである。つまり、数字で管理されるのが嫌だと言うなら、姓名が管理される事を嫌だと言うべきである。はたして、漢字は数字よりも、記号として何か優位性があるのか。漢字であろうと、数字であろうと、記号で管理されるの事は一緒であって、「数字で管理される」という事が、あたかも意味ありげに忌避されるのは、心理的な妄想に過ぎない。
  もちろん、世人は単に「数字で管理される」ことを脅威を抱いているだけでなく、管理されること自体、あるいはプライバシーに対して危惧しているのである。それ故に、何か有機的な意味を持たせたように「数字が」云々、と言うべきではない。真に管理される事を問わねばならない。
  しかし、国家が管理すること、国家から管理されること(庇護されていること)は、安易に是非を問えないことも常識的に解りきっている。プライバシーにしても、現在社会において、何がプライバシーなのか、そもそも国家よりも、企業の方が圧倒的に我々の貴重な情報を握っている。常識的なことだ。常識的に我々が畏怖しているのは、管理される方法なのだ。ただ、先の通り、数字というものには特に意味はない。逆に、数字だからこそ、我々にはその管理システムに対抗する方法を持ち得ている。
  11桁の番号が我々に割り振られるが、数字で言えば、100億である。もし、全国一斉にシーケンスで番号を振るのであれば、9桁までしか要らないが、都道府県別にと言うのであれば、10桁・9桁目で区分され採番されるだろう(今のところどう採番されているのか私は知らないだけだが)。ともかく、上1桁が余っているのか、いないのか解らないけれど、もし我々がシステムに対抗するなら、我々にはその手段がある。非常に簡単だ。今度のシステムでは、割り当てられた番号を変更することが出来る。国民こぞって、毎日、番号の変更を申請すればいいのだ。「個人情報保護」したいという事由のもとに、毎日、番号を変更すればいいのだ。実際のところ、不安を覚える人間は、セキュリティのためにIDを毎日、変更したっておかしくはない。そうすると、11桁あろうと、さすがにシステムは持ちこたえられないはずだ。仮に先に述べたとおり、10桁目から採番しているのでれば、一人10回以上変更すれば、番号はなくなってしまう。正確には都道府県によるが、10回以上の変更は必要であるが、最低100回変更すれば確実である。ただ使用済番号を再利用するのであれば、無限に利用可能であるが、現実は変更実務が、あるいはシステムが追いつかないであろう。もし、国民がこの運動を起こせば、一年以内に住基ネットワークをお払い箱にすることができるだろう。21世紀版、ダッライト運動とでも言おうか。ニュースステーションの久米宏には、いちよ言わせる訳にはいかないだろうから(彼なら言いかねないが)、せめて知識人を通して、言ってみれば良いのである。私自身はその運動に、参加する気はさらさらないが(何故なら、既にイギリスとオランダ、そして米国に既に大量の情報を提供してしまっているから−ネットショッピングで)。



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