2001年06月16日

 NAM京都シンポジウム

   今日、京都精華大学で、NAM京都シンポジウムが開催された。最初に柄谷代表の講演が始まった。内容は、NAM「原理」の規約改正についての説明がメインで、それは、NAM「原理」がおよそ第三段階に入ったものによる。

 第一部 柄谷行人「生成するNAM」

   NAM「原理」の改定には第一に、諸外国に対応できるものにすること。柄谷代表は、いまコロンビア大学で「マルクスとアナーキズム」の講義を行っているが、NAMの話をする機会もあり、外国でNAMを運用するに当たっては、現行では問題があり、改定が必要となってきた。それは、英語版「NAM原理」を出した際にも感じていた。しかし、大前提として、NAMは日本のものであり、それを外国に押し付けるものではないこと。原理的には普遍であるが、その実践に当たっては、その国の諸事情による。日本のNAM会員はコンピュータを所有していることが不可欠であるが、例えば、フランスでは、コンピュータによる電子決済をある規模以上で行うことは困難である。故に、他国は、他国自身のNAM(NAMという名称でなくてもよい)を立ち上げるべきで、そういう意味で
トランスナショナルなのであって、NAMという原理を世界に拡張しようとするものではない。ましてや、創価学会の支部のようなものではない。後期プルードンは、そういう意味で、アソシエーションという言葉を嫌った。普通の意味での「組織」というイメージを与えてしまうからだ。むしろ、Federation(連邦)という言葉が良いかも知れぬが、NAMはまだそういう段階ではないのが実状である。
   いずれにしろ、NAM自身、アメリカから始めても、どこから始めても良いのであって、日本において初めてやるというのは、まさに初めてやるのであって、いままでの様に輸入したシステムを運用するのではない。既に、日本にあるという事に意味がある(程度のもの)。
   あと改定についての第二点、三権分立を明確にすること。(内容は割愛するが、)三権分立を可能にするのがくじ引きであって、その逆ではない。民主制を強引にまで維持したギリシアは、くじ引きを必要とした。ブルジョア革命によってもたらされた三権分立は、選挙に基づくものであり、選挙は究極的に民主的でない。
   最後に、総括を含め、NAMは「資本に転化しない貨幣をつくりだすこと」が目的であり、そして「国家に依拠しない」ということである。今回の改定では、その点を明確にしている。NAMは何度も言うように、100年・200年レベルを想定して語っているのであり、今日や明日、NAMがどうなるかとか、NAMが成功した場合とかは考えてない。むしろNAMなんて上手く行くはずがない。上手く行かないから面白いのであって、やれNAMが世界制覇をすればどうなるかなんて、馬鹿らしい(NAMが世界制覇すれば、NAMはなくなる)。むしろ、NAMではダメではないかと言ってくれる方がましだ。ともかく、原理(一般)は、それが正しければ、間違えないのであり、マルクスの言った正しいことは、永久に正しいのであり、NAMの原理も100年・200年後でも正しいものを作ろうとするものである。

第二部  現プロジェクト、「LETS」と「ニュースクール」の報告。

第三部  パネル・ディスカッション 柄谷行人 浅田彰 他

浅田彰
   まず資本主義の歴史的貢献について抑えておく必要を述べる。資本主義は何よりも貨幣という全くの匿名性の媒体で、何んでも買える恩恵を授け、我々はその恩恵を被っていること。封建制時代には、一部の階層にしか手に入らなかったものが、今では、浅田彰なら、浅田彰が、いつでも、どこでも、匿名で、エロ本を買うことができる。まず、それはすばらしい事であるのを踏まえなければならない。NAMにしろ、ニュースクールにしろ、LETSにしろ、ドミナントとしての資本主義の中にあり、いわば補完的な機能として発展すべきで、逆転するとか、革命的である事とは無縁である。また、そういう歴史的文脈の上で考える必要がある。
   LETSについては、その特徴として、基本的には、その徹底した透明性にある。裏をかえせば、プライバシーがないという事だ。事実、先進国はここ10年以内に、国民総背番号制になる事は間違いない。つまり、政府はすべての個人情報を、例えば売買を、膨大なログからトレースできる。浅田彰がエロビデオを買った。それは政府にキチンとトレースされている。そこでは、透明性と引き換えに、プライバシーはなくなってしまう。そして、もう知れてもいい。エロビデオを買ったと知られてもいい、という開き直り、プライバシーの放棄を迫られるのであって、むしろ、それを積極的に受け入れる姿勢が求められるのではないか。よって、もうそこでは、現在の様に、貨幣の匿名性は失われているのであり、LETSにおいてもクリアな事はいいが、それと引き換えにプライバシーはなくなるという認識は必要である。そうとなると、エロビデオを自由に買える、今の資本主義がすばらしいのではないか、という事にもなる。

柄谷行人、激怒
   外国で言っているプライバシー、韓国でもうるさいが、奴等の言っているプライバシーは単なる税金逃れ、資産隠しのためのプライバシーに過ぎない。

浅田彰
   ニュースクールについては、現在のフリースクールより良い学校を作ることが大前提であるが、良い学校は個人的につまらない。今のつまらない学校がある方がおもしろいのであり、馬鹿しかいない、馬鹿なことしかしない、馬鹿な学校があるから、自分は家で好きな事ができ、馬鹿でつまんない事は適当につきあっていれば良いので、あとは自分の好きなようにすればいい、こんなすばらしい事はないと、小学生の頃に思っていたし、今も基本的にそう思っている。馬鹿な学校はあった方がいいんで、学校は馬鹿なんだと認識する事が大事なんではないか。だから、ニュースクールのいう良い学校(超出的な個性を産み出す学校)は、つまらない。それは、それとして、言いたいことは、そう言った良い学校にとらわれてしまう事に危険性がある。

質疑応答(第三部は、最初からそうであったが)   

Q.LETSについての不安

A.浅田彰  
   LETSは確かに、協同的な馴れ合いの世界へと流れてしまうネガティブな危険性がある。例えば、となりの子供がいじめっ子なので、そこのおやじに400Q(LETSの通過単位)を払って、うちの子供をいじめないでくれと頼むとか・・・

Q.NAM「原理」には、「自立した個人」を前提にしているが、自立した個人とは何にか?日本でいう自立と、アメリカでいう自立とは全く違っており、アメリカ的自立では、日本人は99%、自立しているとはいえないのではないか?まさしく、浅田彰が嫌う日本のもやもやした共同体性のなかで、自立した個人なんて者は存在するのですか?

A.柄谷行人
   自立にはレベルがある。「原理」でいう自立とは、日本の常識的な意味での自立だ。つまり、自分で稼いで生活できるというレベルの自立で、アメリカでいう自立なんて前提しない。アメリカの言う自立だって、子供はいま学校に行くのに、数人に一人は銃を持参しているというが、所詮、それは親が買って持たせているのであって、そう簡単に自立という事をとやかく言うことはできない。

  以上

余談:シンポジウムが始まる前、校舎内のベンチで、煙草を吸っていた柄谷行人は、吸い殻を地べたに捨てた。私もヘビー・スモーカーなので大きな声では言えないが、奇麗な校舎の奇麗な廊下に、無造作に捨てる柄谷行人に、この人に倫理をとやかく言う資格があるのかと思い、私は思わず、「ちょっと、先生。」と言い、足元の煙草の吸い殻を拾いだした処、柄谷先生、「すみません、すみません、僕が拾います。」と言い、ちょっとホッとした。
 



    トップ戻る