2001年06月10日

 池田市・小学生惨殺について

   黙視していようと思ったが、犯行の動機の言葉に引っ掛かり、記することにした。
「エリートやインテリの子供を殺せば、確実に死刑になると思った。」
エリートやインテリ。つまり言葉を換えれば、換えてみれば、有産階級のブルジョアの子孫を絶ったら・・・・。もし100年前だったら、プロレタリアXXX、革命的無差別テロとでも評されかねない(私は共産主義やXXX主義とは関係ない)。しかし、それは100年前であることを前提としない。いまの日本の社会を見てとるのは行き過ぎであろうか。かと言って、犯人の学歴コンプレックスでは収まらないのは自明であろう。
   今回の事件も含め、最近の凶悪犯罪の増加は、グローバリゼーションの光と影か、よい子(人間)を製造できなくなったのか。それとも、その両方か。後者について言えば、我々は今まで良い子で在り過ぎたのであって、いま我々はもとに戻ろうとしているのではないか。乱暴に言えば、我々はもともと乱暴であり、今まで抑えつけられていただけに過ぎない(浅い意味でマキャベリズムでなく、深い処ではマキャベリズムにつながるかも)。まあ、抑えられていない社会なんて存在しないが。それにしても、上手く抑えられていたのではなかろうか。そして、前者のグローバリゼーションが、その抑圧を開放(?)した。
   非常に単純過ぎる図式で実は恥ずかしいのだが、いづれにしろ、グローバリゼーションが進行(侵攻?)ならば、悪い子になるのは退行である。今の日本は、進行しているのか、退行しているのか、見極めるのは難しいが、必要なことである。

※追記・・・保身のために言っておきたいが、上述の文は決して犯人の動機や言動を擁護するものではない。むしろ、あまりにものあっけらかんさに対して、為す術(今後良くなる術)のなさを思い、冒頭に言うように、黙視しようと思った。事実、今回の事件については、怒りのはけ口が全くみいだせない。あるいは怒れない。それは、精神病を控除している訳ではない。凶悪事件のあるたびに、人情として、刑は刑として、後で犯人を殺したれよ、と遺族に思うのだが、今回はそう思えない。つまり、あっけらかんという言葉はふさわしくないが、あまりのもの沙汰に、怒りや殺意ではとても補償できない事態なのだ。誤解のないように言うと、遺族は犯人を殺しただけではすまない、あるいは殺してしまいたいと思わせる気力を失わせるほど、未曾有の事態ではないだろうか。まあ、所詮それは私の頭のなかだけのことですが。



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