2000年11月17日

 ITとNAMの狭間で

 
私はいま、大阪の某私立大学へのIT導入の提案で四苦八苦している。そしてまた私は、柄谷行人率いる、反資本主義、反国家の運動、「NAM」に入会している(皮肉にも柄谷氏はその某大学の教授だった)。私は世界の両極端に属していると言えるし、また両極の接点にいるとも言える。つもりこういう事だ、IT(何んでも良いが)すなわち、(世界)資本主義に加担し拍車をかける身でありながら、NAMにおいて資本主義の転覆を予期あるいは目論んでいる。そうでありながら、NAMの提唱するLETS(地方貨幣制度)は、インタネットを介した電子マネーを想定している上では、IT、つまり世界資本主義機械と接点を有している訳だ。それは真に強烈なリアリティを有した接点であるのか、それとも曖昧模糊とした混沌たるヴィジョンなのか、私にはさっぱり判らない。

  世界資本主義の進行(現行でいうグローバリゼーションつまりアメリカの世界制覇→多国籍企業の侵攻)には、あらゆる悲観的なヴィジョンを考えられずにはいられない。ソフトな見解でも、エコロジー、南北問題(情報格差に伴う貧困)、更にバイオの脅威は、いやが上にも見えてくる。ハードなヴィジョンは、経済ブロック→米中核戦争とその後である。あるいは複雑なのは、イスラムでも何んでも良いが、まさにハンチントンのいう「文明の衝突」である。
  NAMについて言えば、あの柄谷行人が浅田彰を何とか巻き込んで、行動しようと企図した運動である。正式名称、New Association Movement、基本的にはマルクスの提唱した生産者連合組合を実施する運動である。マルクスが唱えた共産主義あるいは社会主義は、マルクス自身が言ったように「私はマルキストでない」と言わしめるかたちで、つまり非本来的なかたちで、20世紀に実現(利用)され(悪しき例はスターリン、発展途上国の独立のイデオロギー装置として)、また崩壊した。資本主義は共産主義に勝利したという単純な構図は、実際にアメリカン・ニュー・エコノミーに様変わりし、更にはグローバリゼーション、つまり縦横無尽なMulti-National Corporationが、尽きることのない欲望を追求する。そして国家はその欲望の充足装置として行こうに機能している。柄谷行人が反資本主義、反国家を唱える際、それは倫理的なものであるという。反資本主義は、非経済的であることを意味しない。求められるものは、おのずと倫理的なものになってしまうということ。更に言うなら、経済的なものはは、倫理的なものになるということだ、と私は解釈している(M・ウェーバーの言うプロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神を生んだとは、逆のベクトルで新しい経済的な行動が、倫理的なものを帯びてくると思える)。
  具体的にNAMの実践活動については述べないが、一つだけ、先に述べたLETS(地方貨幣制度)については、利子(利潤)を生じない貨幣制度で、それを支える基盤の一つとして、ボランティア活動が挙げられている(この具体例は単純そうだが、きちんとした経済理論の地盤がある)。何にか或るボランティアを行うと、10ポイントの貨幣が口座に振り込まれる。LETSに加盟している(商)店で、10ポイントの(商)品が購入できる。柄谷行人は、このボランティア活動が倫理的であることを示唆しているが、私としては疑問である。端的な一般向けへの解りやすいチャートとしか思えない。
  最初から消極的な態度をとりたくはないが、ボランティア活動として、「NAM全国集会」のポスター貼りの要請があった。NAMの一つのスローガンとして、サイバースペースの利用をあげているのに、何んとも地味な、そして反エコロジカルなことか。そこに旧左翼の胡散臭ささが垣間見え、旧右翼として抗したくなる。
  しかし、ある種ウォーター・ステイン的(?)な視座に立った方向性には賛同できるとともに、全く関係ないが、NAM事務局が我社のすぐ近く(天満橋)に位置することから、何んの因果か解らないが、足を踏み入れることとなった(旧左翼系というのが気に入らない、どころか、新々左翼なのだが)。
  まだ何にも活動していないが、NAM事務局の側にある我社で、目下の利益のため懸命に、あるいは必要に迫られ、ITを促進すべく仕事している私は、浅田彰のいう逃走線に立っているのかもしれない。アキラくんは、やはり偉いのかもしれない。




    トップ戻る