2000年02月12日

 フロイトと現在の夢

フロイトは「夢判断」を1900年に出版し、今年でちょうど100年を迎える。一般にフロイトはこの「夢判断」を通して「無意識」の発見者とされているが、「無意識」自体の概念はフロイト以前から存在している事は、彼自身も述べている。基本的にフロイトは精神医学者であり、神経症の治療を目的に、あるいは臨床経験から、「無意識」という概念を持ち出した。ただ特異な点は、夢の解釈が異常なまでに性的なものに結び付けられている事であり、当時もそして現在でもセンセーショナルであると言える。フロイトは夢の要素を、性器の象徴であったり、性的欲望の投影であったり、様々な因果関係を無意識の中に読み説いてゆく。それの真偽はともかく、現在我々が見ている夢は、フロイト的な夢であろうか?他人の夢は余り解らないが、私自身の夢を思い起こせば、余りにも卑近な夢ばかりである。あるいは現実的な夢とでも言おうか、たいてい昨日の出来事や会話やら、非常に具体的な事象の延長でしかないような夢ばかりである。確かに夢の内容は支離滅裂で、遠い記憶の要素やら、全く遠隔の光景などが、夢で融合している。しかし、かなり卑近的な事も事実である。昨日、一緒に仕事をしたAさんが単に登場してくる。先週行われたパーティーでふるまわれた料理が、昨晩電話がかかってきた友人によって給仕される。
   フロイトが分析したのは19世紀の夢であって、現在人の夢には、フロイト的な解釈は成り立たないではないだろうか。21世紀を目前とした我々の夢はかなり現実的であって、分析の余地を含まないのではなかろうか。フロイトの時代の夢は、今から思えば牧歌的であって、十分に夢の解釈を成立させるに価する内容を含んでいた。テレビも車も飛行機も電気もない時代(電気・・・家庭で利用する)。そこでは、「無意識」を存在させる事が可能であり、またフロイトは必要とした。そして現在、スピードと多量の情報が渦巻く日常生活にあっては、究極のテーゼとして「無意識」が存立できないではないか。構造主義がこの「無意識」というものを強化するのに有効であったかもしれないが、もはや構造主義が2世代前の思考に退いた現況においては、「無意識」あるいはフロイト的な夢は無効である。と同時に、逆に、現在の夢が構造主義的思考、溯ってフロイトの夢を無効にするのであって、その相対性が再び構造の回帰へと向かう危険はあるが、或る20世紀的の思考の限界を、現在の夢を通して考察できるのではないだろうかと思う。 今後、以上の観点から、題名は未定だが、「フロイトと現在の夢」なるものを考察してゆきたいと考えている。




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