1999年08月12日

 デリダの写真

  日本に新たな知の旋風を巻き起こしているらしい東浩紀。
20世紀後半もっとも難解な哲学者と言われるジャック・デリダを、
スマートかつ鋭敏に論述したとされる東浩紀の著書は、浅田彰以来のアカデミック・ヒットとなっている。そして彼の著書のカバーには、麗しき貴公子の相貌がきちんと掲載されている。若年で俊才、おまけに甘い相貌は、哲学のジャニーズを思わせて止まない。浅田彰のデビュー(1983年、当時26歳)時は、同じカバーでも、住所付きでお便りの募集していた謙虚さがあった。しかし、いずれにしろ多くの著作は、著者の顔写真・相貌が掲載されている。何故とは問う必要はないであろうが、「著者の顔」と「著作内容」に因果関係は無い事は明白であろう。
   ジャック・デリダはある時期まで全く相貌が解らなかった(写真がなかった)。またデリダの個人的な情報、あるいは形跡といた方がいいかも知れないが、言わば彼は正体不明だった。かえってそれがデリダの難解な著作と共に、神秘性を帯びさせたとも言われる。その神秘性はともかく、デリダこそ真の哲学者である。真の哲学者とは何かとは言えないが、デリダがあつかっている問題と、彼が誰だか解らないという彼の振る舞いは、実践的であり、逆に著者の顔」と「著作内容」の因果関係の存在を明白にする。もちろん、それが彼の戦術であらねばならないのであろうし、彼が彼方に存在しなければならないであろう。
   ともかく、自殺したドウルースよりは、デリダが「ほんものっぽい」訳であり、ジャニーズ東は、哲学者でもなければ、批評家でもない。そして、別に貴公子を批判している訳ではなく、デリダが「真の哲学者っぽい」と言いたいだけだ。ただ、何も語れなくなった哲学の現状、そしてその専門性は、必要かもしれないが、もう哲学が「分野」でしかありえないのは明白である。どこまでも突き進む、先へ、その先へ・・・・それよりは、あるいは、これからは、動画付きの思考・志向を、必要としなければならないであろう。それは何と呼べばいいかは解らないが、ともかく突き進む方向ではない、かといって統合と一口で言われるような方向でもない。当然、「新しい」とかいう言葉は付随しない。ジャック・デリダがテレビでもコンピュータでもいいが、メディアを通じてと言う訳ではなく、語ってくるものを、あるいは見せるものを、頭脳と生活とあらゆる関係に介在させなければならない。


    トップ戻る