1991年 8月17日

 全 裸

  
昔、私は女の子の中にある凡庸的なものが嫌いであった。もちろん女の子に限らず、人間一般の凡庸的なものもであるが。例えば、それこそ当り前といえば当り前なのだが、二人きりになった時、あるいはホテルに入ったとたん女の子はひょう変する。まだ未熟だった私は、はじめ、この落差に少なからずびっくりした。と同時に、すぐさま女の子固有のものを見てとり、そこに当たり前故にこそ、凡庸的なものを感じて嫌になった。私は、そういった凡庸さを、全くの俗的な凡庸さよりも更に毛嫌らった。それは、ある年齢にまでひきずったが、いったいあれは何だったんだろうか、今でもよく解らない。青年特有の貴族主義に起因するのか、当時そう思っていた生理的に受け付けなかったのか。
   しかし、ある一線を越えてからか、あるいは少しでも年をとったからであるかは定かではないが、そういった女の子の落差、あるいは、女の子固有の凡庸さといったものが、非情に良くなったという表現はおかしいが、いとおしくなってきた。
   先に挙げた女の子のひょう変する姿。二人っきりななった時にガラリと変わる甘ったるい声や、甘える態度。ある種を壁を越えた時の女の子の大胆さや貪欲さ。あるいは、非情に日常的な事では、女の子のカバンの中身。別に詮索趣味はそのものとしてはないが、女の子が持ち歩くカバンには何でも入っているような気がする。いや、女の人だ(何故なら、私の母もそうだから)。事あるごとに、カバンから何かをひっぱりだしては収められ、またひっぱり出されては収められる。化粧品はもちろんのこと、爪きりやら、手帳、財布に裁縫道具、挙げ句の果てには下着まで・・・・・何でも出てきそうな、それこそ家財道具がいっさい仕舞い込まれ、何か事が起こっても、そのカバン一つで逃げ出すには十分のような感じを抱かせる。一時、それは、ある種の女性の蓄積本能だろうかと考えさせられたが、そういった女の人のかわいらしさを、動物の蓄積本能に還元してみたところで、何もおもしろいことはないので止めた。

   そういった、取るに足らない凡庸さや、先の凡庸的なひょう変ぶりに、近頃、女の子固有のかわいらしさを感じてしまう。しかし、そういったひょう変さという意味では、おそらく女の子も男に対して同じような事を感じているだろう。男だって自分の彼女に対しては、二人っきりになった時は、明らかに態度が違うはずである。だから、私などは逆に、そのひょう変さを、何か意志のないもの、曖昧なもの、無責任、自分をもたないものと見、幻想に帰したりして、毛嫌ったのであろう。
    しかし、今はそういった落差に対して、ある種の喜びと言うか、ほほえましさと言うか、快感を覚え、その全然違ったものをさらけ出す、あるいはひょう変し合える間柄というのが恋人であり、そういった落差・差異、あるいは非自己を容認しあう、いや楽しみあうのが恋人であるように思えるようになった。もちろん「二人だけの秘密」といったような表面的な次元ではなく、自分の存在様式というレベルで、二人が共有している関係。日常の存在様式とは違う存在を二人だけで共有する関係。もちろん、上の「二人だけの秘密」といったものが、何がしかの意味を付与する事もあろう。

   我々は、日常、人々に対しては合理的な振舞いをする。自己の同一性を保持しつつ、他人と関係を持つ。同一性が崩れれば、信用してもらえないし、関係を維持できない。それは、苗字が変らないのと同じように、生きて行くルールであり、そういう社会に我々の存在は定位している。
   一般的に言えば、人間は全く合理的な存在ではない。合理的に振る舞うのは、生きて行く手段であり、非合理的なものも、二元論を恐れずいえば、有するのは当たり前である。
     ありきたりに言えば、そういった非合理的なものをさらけ出す事が許される関係というものが恋人であり、関係自体が不合理に包まれているのである。男は、自分の彼女が他の男の対するのと同じ様にしか、自分に振る舞わないのであれば、おそらくつまらないであろう。女は、全く甘える事をしない男に対して、最初はともかく、そのうち何か疎遠なものを感じるであろう。恋人の関係が全く合理的で、矛盾を含まない同一的なものであるならば、それは、おそらくプラトンのイデアを生むであろうが、つまらないであろう。
    古今東西、言われるのは、何故、恋人どうしはこんなに難しいのかと言うこと。おそらく、他の人に対するのと同じように合理的に関係すれば、事はそう難しくないだろう。しかし、恋人という関係は、不合理そのものであるから、元来、難しいのだ。難しいという事自体、合理的なものの見方に過ぎないのだ。「一番近くにいても、一番遠くにいる」のは、恋人という関係そのものが、関係のしかたそのものが、根本的に他とは違うのだ。男と女という、それぞれの対象が問題なのではない。
    当たり前の事を、何か非情に抽象的に語ったような感じがするが、事は簡単明瞭である。「恋人」という言葉の存在そのものが、関係の相違の存在を明らかにしている。



    トップ戻る