1991年 8月11日

 四条のカップル

 
四条駅の地下ホームで、大阪に帰るべく特急列車を待っていると、一組のアベックが私の横に並んで同じく列車の到来を待った。なかなかバランスのとれた良いカップルで、互いに身体を寄せあい、互いに身体に触れあっては楽しそうな会話をしていた。私はそれを真横で見ていて、「いいカップルだな」「このまま続けばきっとよい夫婦になるんだろうな」と思いつつ、常々思うのだが、自分には絶対的にそうゆう事がありえないというのを意識し始めた。
   彼らは全く凡庸である。何の変哲もない、それこそ知識人に言わせれば、幻想の中で現れては消えてゆくような、全くもって取るに足らないカップルである。その横に立って、非凡ではないが、さりとて大人でもない自分を合い照らしてみると、何がしかの運命というか宿命というものを感じざるを得なくなるのだ。
    そういうsituation だけなら幾らでも作りだす事は可能であろう。問題はそういう幻想(良い意味でも悪い意味でもなく)に自分は浸りきれないという処にあるのだ。別に知識人きどって、あるいは芸術家きどって、そう自ら意識するというのではなく、簡単に言うと、歯が浮くというか、しっくりこないのである。いや、もっと正確に言うと、そういう幻想を幻想として意識してしまっているのならまだしも、何と言うか、自分の存在が、そういう幻想の中に自ら入っていっても、浮いてしまっているように感じるのだ。幻想を幻想と感じると共に、幻想しなければならないsituation で、私は覚醒し、浮いてしまっているのだ。と言って、冷めているとか、決して客観的であると言うのではない。事実、同じようなsituation 、それこそ同じように駅のホームで好きだった女の子を抱き寄せてはKISSしたりした事があった。確かに楽しかった。感情の高まりや、なごみはあった。しかし、どうしても異質なものを感じざるをえ得なかった。演じているという事は少なからずあっただろうけど、それはどんな恋愛にもつきのもだろう。それどころか、逆に演じるという事がなかったぐらいだ。それでも、どうしても異質であった。しっくり、こないのである。彼女とのdiscommunicationといったものではない。そのような絶対的な壁は、予め解っている。彼女との関係というよりも、自分の存在自体に異質なものを感じるのだ。人の少ないホームで、彼女を背後から抱きしめ、振り向いた彼女の唇にkissをした。その時、私は死人だったような感じがする。存在しているのは自分だけで、彼女は夢の中。みんなが皆、夢見る死人のようなものだから、覚醒している私は、逆に死人に思えてくる。いや、彼女は夢を見ている分だけ生き生きしてさえいる。
   この存在の裂け目、深遠。正確に言うと、これは今から時間を遡って思い、感じることに過ぎない。その時、そう思い、考えたのではない。そう感じた事を、そう感じたと、いま、感じているに過ぎない。ただ、その時は異質であっただけだ。
   対女性関係に関して言えば、この存在の裂け目、深遠とでもいう様なものを、埋めてくれる女の子がいるのだろうかと思うと、いまは、とてもいる様には思えない。あるとすれば、私が幻想に浸りきれない以上、道は3つしかない。私が幻想に浸りきれるようになってしまうか、互いに覚醒しているか、それとも、幻想を幻想として感じさせない女性が現れるかのいずれしかない。ただし、第二の関門があるが。




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