1991年 5月11日

 快楽の極致

 
快楽の極致とは当然、SEXにおける意味で、おおよそ、どういう事かということは察するとおりであるが、この快楽の極致というものはそこに到達すると、どうやらそこから逃げ出してしまうという傾向があるようだ。つまり極致へ達する瞬間、ちょっとやそっとで無いような極致へ到達する瞬間、その恐ろしさの余りにか逃げ出してしまうという事だ。と言うのも、私個人の数少ない経験から言わせてもらえば、この快楽の極致へ到達しようとする瞬間、具体的に言えば、女性は自ら男性のものを抜いてしまう、まるで逃げるかのように、我慢しきれないかのように、腰を引いて抜いてしまうのだ。
   もちろん、こんな事は稀であろう。まったく経験した事がないという方もいるだろう。ただ、こういった事実から考えられうる事は、余りにもの快楽の極致というものは恐怖であり、危険でさえもあるという事を、人間は無意識にあるいは生理的に知っているのであり、その彼女も無意識に、反射的に抜いてしまったのであろう。

   フロイトは性というものを、死のイメージと結びつけた。性とは一種の死への衝動であり、死の疑似体験であると。もちろん、具体的な死そのものといったものではなく、死のイメージなのであるが、そう考えると、彼女の示した快楽の極致への拒否と、このフロイトの性=死はつながっていて、極致に完全に到達する事は、死といゆものに完全に踏み込むわけで、それを拒否する行為は、人間してあるいは動物として当然であろう。ある種の極限、ある種の限界・境界を越える事は死に直結するのだから、意識の上であるいは生理的に拒み、逃げ出すのであろう。
   しかし、男性にはSEXにおいてこういう事はない。周知のとおり、男性は急勾配で駆け昇り、射精で急下降する。射精というものが一つの頂点、限界を確定しているのであり、それは憶測では、長い進化の上で、生理的にそう組織されているのかも知れない。だから男性は極致を乗り越えることはあり得ないし、また逆に、極致に到達することもありはしない。つまり限界が身体に刻みつけられているのだ。
  それに比べ、女性には無限の快楽が器官的には約束されている。男性のように境界が無いのだ。いや、境界はあるのだが、それを踏み留まる生理的な機構が無いのである。俗に言われる事を信ずれば、女性は漸進的に快楽へと近づいてゆく。そして、それは組織上は無限を約束されているのだが、しかし女性にしても死は恐怖でありまた、境界を越えることは危険である。故に、彼女の行為は、ある種の組織された生理的なものか、意識的なものか、あるいは無意識的なものかは解らないが、そういう死の領域の限界で踏み留まり、抜いたのだ。
   実際問題として、こういう経験を味わった、自ら抜いてしまうというほどの快楽を経験したという女性が、はたしてどれだけ居るかは私としては全く未知数な訳だが、SEXに限らず、精神的なもの、観念的なものに関しても、あるいはもっと物質的なもの生理的なものでもよいが、究極といったものに対して、うかがい見たいものの、実際は拒絶してしまうという事がある訳で、それはある種、危険なものをそこに感じとって、古い言葉でいえば本能的に逃げ出してしうという事だろう。文脈はまったく違うのであるが、三島由紀夫の「仮面の告白」の一節が浮び上がってくる。

「あまりにも待たれたもの、あまりに事前の空想で修正されすぎたものからは、とどのつまり逃げ出すほかは手だてはないのだった。」





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