1991年 5月 9日

 夕暮れ

  
司馬遼太郎の著書の通じて「大阪の夕焼けは日本で一番美しい」と言う事を、つい数ヶ月前はじめて知った。大阪に住む私にとっては意外であった。ビルが立ち並び、飛行機が轟音をたてて空を横ぎり、平日は、高層ビルから見れば一目で解るが、大気が濁っている(事実、土・日は生駒の山までがくっきりと見え、大気が透き通っている)。確かに司馬遼太郎の著書の中で語られている事はかつての歴史上の話で、大阪に夕陽が丘と言う処があるのだが、その名の由来は夕陽を眺めるには絶好の場所であったから・・・・と言ったもので、今日ある大阪の、夕焼けがはたして日本で一番美しいかどうかは定かではない。
   しかし、歴史的にそう言われているだけの美しさを感じざるを得ないほど、確かに大阪の夕焼けは美しい。何故だかはいっさい解らない。地理的に何かそう言ったものがあるかも知れないし、無いかも知れない。昔と違って、現在はビルが立ち並び、夕暮れになるとオフィス街の光がちらちらと輝きを浮び上がらせる。しかし、それがかえって何がしかの効果をかもし出し、ビル群は黒い影となり、その薄暗い影の中に光が明滅し始める。もはや、そうなると夕焼けというより、夕暮れになってしまうのだが、やはり少ない異郷経験にも係わらず言わせてもらえば、大阪の夕暮れほど美しいものはない。
<BR> 特にOBPから見る夕暮れは恐らく、昔日の人々さえ経験し得なかった美を堪能できる。大阪の中心部に京橋と言う処があり、そこに大阪城に隣接する形で大規模なビジネス街が形成されており、Osaka Bussines Park と呼ばれている。大阪城という歴史的建造物の横に、最新のインテリジェンス・ビル群が立ち並んでいる訳だが、その中でもひときわ高いビルがNECキャッスルタワーで、40階まであるのだが、そこから見る夕暮れは言葉では現わしきれない
(毎度の事ながら)。
   何が美しいかといって、あらゆるものがそこに凝集されているような景観を与えるからだ。左手には大阪城が淡い照明を浴びて浮び上がり、目の前にはIMP等々のビル群が黒く写ると同時に、象徴的な光を群がせる。右手の方には、淀川の支流が、中の島公園の方へとくねりながら流れ、それを包む緑は黒く影を落としている。まさしく水の都を思わせるその流れに沿うように、外灯がはるか梅田の方まで連なる。川にかかる橋には、車の黄色いライトと赤いテールランプがくっきりと浮び上がり、その橋の下を水上バスがこうこうと光を巻き散らしながら、ゆっくりと進んで行く。視界前面には大阪市内の輝く全景が一望され、北浜・本町・難波等々の光が二次元の面をなして浮び上がる(残念なことは、梅田方面の光がツインタワーに遮られてあまり見えない)。その光の面の向こうを眺めれば、大阪湾がほんのかすかに線として見え、港大橋が警告灯のフラッシュを数秒ごとに明滅させている。さらにその向こうには、落ちたばかりの夕陽が一面をヴァイオレットに染め、それは天空に昇るにつれ、GRADUALな色の変化を織りなしてゆく。

   夕暮れの美しさと言ったものの表現で、かつてこれと言ったものに出会ったためしがない。それもそうだろう。この美しさを言葉で、あるいは画面で、あるいは音で、表わしきれるものではない。実際に見ることだけしか、この感覚は不可能である。オーロラと言ったものもそうであろう。TVで見てもちょっとは感ずるものの、実際、見るのとでは全然違うであろう。
   文学作品にしても、音楽・絵画にしても、この美しさを表わしきったものは何一つない。いや、私には最低、満足しきれない。最もましなものでも、私自身が作った音楽作品「RED TURN TO BLUE」ぐらいである。自画自賛と思うかもしれないが、ある意味では当然であろう。自分で作ったのだから。自分が感じたもの、その夕暮れから受けた感慨を表わしたものなのだから、自分がそれに最も感銘し、また最も自分で受けたものに近いはずである。だから、人がこれを聞いて、その感慨・美しさ・情景を共感できるかというと、まったく保証がない。しかし、私はどの作品よりもこの「RED TURN TO BLUE」が私に一番感銘を与え、この音を聞けば、その情景・感情がひしひしと甦ってくる。
   絵画に関しては、もっと疑問である。リアリスティクに描けば、どんなにリアルに描いても所詮、現物にはかなわない。写真にしてもそうだ。よく美しい場面に遭遇すると、写真に残そうと思うのだが、このワイドさ、空間の広がりといったものは、とうてい残しきれないと思い止めてしまう。それは所詮、絵はがきにしか過ぎないと。

   最近よく思うのは、当然といえば当然だが、実際に見たり、触ったり、感じたりしなければダメだ、解らない、といったものが少なからずこの世に存在するといった事だ。と言うのも、最近のテクノロジーの発達により、我々は世の中の出来事にしろ、風俗にしろ、リアルタイムで手にする事ができ、我々はこの場にいて遠距離にあるもの、それこそオーロラでもいいし、吉野の桜でもいいが、そういったものを、物理的な距離、我々の身体の物理的限界を越えて体験できるという事がとみに言われている。ましてや今日、VR−ヴァーチャル・リアリティ(仮想現実)などといった、現実をコンピュータによって完全にシミュレートし、我々に現実と同等の体験をさせるという最新のテクロノジーがあるが、現段階ではやはりまだ、我々は身体を通じたもの、この身体を通じてしか感じ得ないものが多々あると言う事だ。それは、空間というものと身体とのつながりであるとも言え、今日、コンピュータが我々の身体、特に頭脳の延長という言われ方をするが、リアルタイムといった時間的なものは、ほとんど可能としたものの、延長というものが空間的なものである以上、延長たり得てないのは確かであるように思える。
   VRといったものが、はたしてどれほどまで我々に空間的なリアリティをもたらす事ができるか、あるいはできたとしても、我々は、それによって本当に現実といったものの概念が崩壊するかどうかは怪しく思われる。
    私はディズニーランドのスターツアーズを遊びとしては乗るが、それを夢だとは思わない。私はあと数年たてば死に絶え、記憶も感覚も無くなるが、VRは死なない。




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