1991年 4月29日

 マウス

  最近、コンピュータ・グラフィック(以下C・G)に凝りだして、パソコンの簡易なグラフィック・ツールで絵を描いたりしている。C・Gといっても、とても世に言うC・Gにはほど遠く、お絵かき程度のお遊びに過ぎないのであるが、と言っても非常にDETAILな部分にまで手を延ばすことができ、ドット操作等々の細かい作業が可能なのである。

   実際の作業はマウスで行なうのであるが、それでもって絵を描くとなればたいへんである。ツールの中に、直線を描いたり、円・楕円を描いてくれるものがあるのだが、どうしてもそれでは得られないような曲線、キメ細かさが要求される時は、マウスでもって自ら描くより仕方がない。しかし、実際マウスの操作で描いてみると、とても、得たい線を描けないどころか、直線一つも満足に引くことができない。ましてや文字などを、鉛筆と同じ様に書いてみようとしても、幼児が初めて書く、あるいは左手で文字を書いたような結果に終わってしまう。
    どう考えても、これだったら鉛筆で書いた方が楽だし、キレイである。その外、不都合な点を考えれば、画用紙に自らの手をもって描く方が、よっぽど効率的で良いものが描けると思ったりする。
    だが、何度も何度もそうやって試行錯誤していくうちに、少しづつ上手く描けるようになり、ついにはマウスが私の身体の一部、腕の延長として感じられる、いや、正確には、そう感じさせない、マウスというdeviceを意識させない領域に達するようになる。自分はもう、画面に明滅する矢印に注視するだけで、手にしているマウスの操作はいっさい意識する事がない。

   鉛筆でもって初めて字を書いた時、その持ち方であるとか、動かし方といったものを非常に気にかけ、全く思うように字を書けなかった。いま、左手で書けばすぐ解ることである。しかし、それに慣れてくると、まったく鉛筆というものを意識することなく、全く腕の、手の一部分として、次々に文字を産みだしてゆく。
    マウスといったものも同じであろう。操作性の精度の上で問題はあるやも知れぬが、慣れれば鉛筆と同じように、画面の上に文字を自由自在に書くこともできれば、微妙な曲線を描くことだって可能になるだろう。
    もちろん、それには物理的に、生理的な事が呼応している訳で、実際には、新しい神経系の確立、それを意識させないまでのフィードバック学習によるフレーム構築が行なわれている。それにあと、臨界期の問題がある。子供において学習する、つまり神経系の新たな確立は容易で、ある期間を過ぎると、そう簡単ではなくなる。つまり、小さい時に鉛筆の使い方を習ったように、マウスの操作性を身につければ、鉛筆と変わらぬぐらいの操作性を体得するかも知れないが、臨界期を越え、大人のなってから体得しようとしても、鉛筆を使うように、手の一部、身体の一部として意識せずに済む領域までに達することは、困難あるやも知れない。
    コンピュータといったものが、頭脳の延長・代用であるならば、マウスは手という機能の延長、腕の延長であろう。もちろん、それはデカルトがいう意味での延長である。生まれた時からコンピュータが存在する今から生まれてくる子供は、コンピュータというものを、最初から頭脳の延長として与えられ、彼らはコンピュータというdeviceを、deviceとして意識することなく、自らの頭脳の一部として、あるいはそう言った事すら意識することなく、コンピュータに接するであろうかも知れない。




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