1991年 4月28日

 男の条件・女の条件

   ここ数年、女性が強くなったとメディアを通じて、あるいは口ずてに嫌というほど聞かされてきた。女性が強くなったというフレーズは、ある意味で何時の時代にも言われてきた事だし、私は生まれてこの方、二十数年であるが、その間にさえ、何度となく聞かされてきた。更に遡れば、シェイクスピアの劇の中でさえ、そんな言葉があったように思える。しかし、何がしかの変化・変動といったものが、多かれ少なかれ起こっているのは確かなようで、かつて見ないほどの流行語を多数、排出してきた事実を見ても解る。
 その背景にあるのは、よく言われているように絶対的な男女構成比率で、男女関係から見た場合、相対的に男性の立場が劣勢であるということだ。ただ、私見を言わせてもらえば、私の見る限り、大都会(東京・大阪、特に東京)においては、女性が余っているとは言わないまでも、決して、男性だけが余っており、女性はもうCLOSE OUT といった状況には見えない。しかし、数字は事実であり、間違いない訳で、基本的に大都市以外の街が、事実、男余りの現象に直面し、大都会では、どうしても女性が集まってくる以上、そう男性過多という感じは抱かせないのではないだろうかと思う。
    こういった事を根拠にしてか、あるいは全く違うレベルでかは、判断しがたいが、確かに女性は変わってきている。強いという形容が的確とは思えないが、そういった女性が強くなったというイメージ的な意識の下で、変貌しつつある。言論界を問わず、あらゆる方面でフェミニズム的な言説が乱舞し、事実、日常的な女性の行動、発言、あるいは意識といったものも、積極的・表出的になってきている。私はフェミニストではないが、女性がある種の抑圧を受けていたのは事実だし、それから解放?されるのは、非常に喜ばしい事である(この喜ばしいという言葉自体に、すでに何がしかの奢りがある)。しかし中には、当然、勘違い的なもの、的はずれ、空論、表層的、非本質的なものが多々入り混じっているのも事実で、どちらかと言うと、そういったものの方が、人目を曳きやすく、また女性にも歓迎されている状況である。
    数え上げればきりが無いのであるが、最近、特に目立つというか、スノッブ系の女性雑誌にしろ、男性雑誌にしろ、やたらと目に付く論調(とても論調の価しないが)というものがある。SAYでも、ポパイでも何でもいいのであるが、決まって現れるものに、「男の条件」「女の条件」といった基本的なものがある。「男が求める女性像」・・・・・それを女性は参考にし、片や男性は「女が求める男性像」を参考にする、といった類い。インタビュー等々を主体にした構成だが、いまやそれは乱して、男性雑誌に「男が求める女性像」まで現れている始末。まあ、それはそれで良いのであるが、問題なのは、イケイケGALにしても、自立をめざす女の子にしても、自らは旧的な価値観から抜け出しているつもりでいるにも係わらず、男性の理想像に「強い人」であるとか「やさしい人」、あるいは
「頼れる人」といった旧的な男性のイメージを、求めている事だ。
    女性が本当に自立し、解放され、自由になりたいのであれば、旧的な男性イメージを求めていてはお話しにならない。それは結局、まだ女性が旧的な意識しか持ち得ていないのだ。最先端を突っ走るイケイケGALにしても、バリバリのキャリヤーにしても、そんな事を男性に求めているのであれば、所詮、それは旧日本人である。どんなに解放的、自由に見えても、それは全くのざれ事、お遊びにすぎない。そんな中で女性が強くなったとか、自由であるという幻想に浸っているようでは、悲劇的な未来しか有り得ない。
    もともと、どちらかに割り切っている女性は懸命である。男は度胸、女は愛敬といった旧日本人的な価値観を持つ女性は、それはそれですばらしいだろう。一方、女性は自立すべく、積極的に、新しい価値観をもって、男性に対しても新しい目でもって見れる女性は、まだ見ぬすばらしい世界を創造するであろう。だが、問題なのは、片や女性の自立・自由を求めていながら、片や男性に対しては根本的に旧的な価値観に住んでいる女性。一見、自由気ままで、イケイケを気取って居ながら、あるいはイケイケまではいかないまでも、「今どきの」といった女性が、何だかんだ言っても、すんなり結婚し、家庭に埋没するその姿は悲劇的である。ましてや、その未来像。は更に悲劇的でさえある。
    最悪な悲劇的ヴィジョンとして言わせてもらえば、具体的には、原因不明の自殺等々が近い将来、多発するかも知れない。ある種、社会的現象にまで発展し、「***症候群」などと呼ばれるやも知れない。原因は今の子で言う「つまんない」、からである。若い頃は良かった。自由で楽しかった。最高の相手と結婚したにも係わらず、今の自分はつまんなくて仕方がない。極端に言えば、「生きていてもつまんない」。本当に自立していった周りの女性は、何と生き生きしていることか。自分と同じように家庭に入っているにも係わらず、男性に尽くしている女性が、かつて自分が楽しかったように幸せそうである。今の自分には、確かに不自由なものはない。自由でさえある。だけど「つまんない」のである。
    今、私が目にする女性の多くとは言わないが、けっこう見聞きする範囲内で、そういった危険性、軽く受け取っても勘違いといったものが、メディアの幻想をも含めた、表層的な現象の奥に潜んでいるように思える。しかしその危険性、あるいはパラドキシカルな状況といったものは、女性が変革するという事にとって、一つの必要な過渡なのかも知れない。
     ある種のフェミニズムに対して、常々思うのだが、アダルトビデオの顔面射精やハイレグの企業広告に、とやかく言うよりも、もっと根本的なものを、男性の見る女性感ではなく、女性の意識そのものを変革させる事が、真に変革を促す事だと思える。それにはまず、女性自らが、男性の性器を食わえることだ。
    弱くなったと言われている男性についても同じことだ。これから変革してゆく女性に対して旧的イメージを固持しているようではダメだ。女性にやさしさとか、きめ細かさ、あるいは包容力・忍耐を求めては、とてもBrande Newとは言えない。あくまで、それが良いのであれば、そうすれば良い。そういう女性を見つけることだ。どこかに、まだ居るだろう。しかし、真に自立しようとしている女性に対し、それをもとめてはいけない。我々はロシアの農夫ではないのだ。しかし、「結婚しないかも症候群」には気をつけた方が良い。自分に力と視力が無いのであれば。
  そして男性自身も、意識を変革しなければいけない。女性が強くなり男性が弱くなったのだとすれば(やっと対等になりつつあるのだ)、それは新しい現実なのだ。だからもう、男性は強くなりもしなければ、強くなる必要もない。新しい男女関係、力関係がそこに存在するのだ。それを旧的な視野を持って伺い見ているようでは、男性にとっても悲劇的なヴィジョンしか待ち受けていない。
 


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