1991年 4月28日

 超人=バカボンのパパ

  実在・架空を問わず、ニーチェが唱える超人・ツァラトゥストラを最も具現化したものは、ヒトラーでもなく、アインシュタインでもなく、おそらくバカボンのパパであろう。赤塚不二夫氏がツァラトゥストラをモデル化したか、否かは全く定かではないが、自らより高きものを創造するという意味では、ハジメちゃんという超天才を産み出し、全てのものを肯定する、必然と化するという意味では、「これでイイのだ」という一言で、自らの行動すべてにケリをつける。また、世の中の真理というものは逆説的・因果関係の逆転という意味では、「賛成の反対」とスタティクな価値観に対し脱構築
(ディコンストラクション)を行なう。
    ツァラトゥストラが一時流行ったスキゾフレニックであるならば、バカボンのパパはまさしく来たるべきスキゾキッズそのものであり、《器官なき身体》を飛び回る、あるいは滑ってゆく、そんな人なのだ。
事実、バカボンのパパは言葉の上を自由に滑ってゆく。彼の言葉の巧みさと言ったら、我々「人間」には理解できない。彼は言葉を「知っている」のだ。更にまたその身軽さ、超人に求められている身軽さは、職業として植木屋さんになるくらい軽快で、どんな苦境に立たされても「はっはっはっ」で泰然と構えている。
    バカボンのパパは、早稲田の隣に位置するバカダ大学出身で、月では実際にウサギが餅をついていると教えられた。いっさいの天上的なもの、ウサギの餅つきを神話と化する様な理想主義的観念論を、ルサンチマン的精神として全く拒絶し、そこに辛辣な現実性、「そう見えるからそうだ。」という生理的な感覚をそのまま受け入れる、肉体優位的な思想を確固のものとしている。
   いずれにしろ、バカボンのパパは来たるべきツァラトゥストラそのものであり、その無邪気さと超越したまなざしは、我々人間を超克している。

 



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