1991年 4月14日

 右翼の女の子

  
京都の河原町通りを三条へ向かって歩いていると、右翼の街宣車が何時もより大きな音をたてて、四条の方へ下っていった。最初、まったく無視していたのだが、ふと見ると街宣車の開かれた窓に、戦闘服を着た女の子がいたのだ。恐らくヤンキーあがりであろうが、かと言って髪の毛が少し茶色がかっているだで、全然、右翼にはそぐわないカワイイ、どちらかと言えば美形の女の子で、河原町通りを行きかう人々から少なからず注目を浴びていた。
   さすがに、右翼の街宣車に女の子が乗っていたのは見たことがない。当然、「何故?」と言う疑問が起こってきた。まあ、一般的に考えるならば、あらゆる人が言っている様に、充たされない欲求、いき詰まった社会に対する若者のやり場のない行動、等々と言うことができるだろうし、また、個人的に見るなら、女の子の家庭や環境等々をあれこれ言う事ができるであろう。だが、それだけでは収まりきれない何ものかを、今日、街宣車に乗るその女の子を見て感じざるを得なかった。
   いま、やりきれないのは、何か充たされないのは、何もその子だけではない。それを見ていた街ゆく着飾った女の子たちもまた、全く同じレベルにあるのだ。最新のモードを追う事によって、服やジュエリーで身を飾る事によって、何とか充たしている、いや、その場を凌いでいる、あるいは、その事さえ自分ではっきり自覚していない状況、白日夢。彼女の場合は右翼の街宣車に乗っている事によって、街ゆくGALは着飾る事によって。本質的なところには、何ら変わるものはない。
   それ以外、あの光輝くきらめきは、いったい何を意味するだろうか。そして、それは彼女の戦闘服と日の丸と同次元、同一問題なのだ。すべては頂点に達している。いや、まだ達していない。がそれは、すでにズレだしている。耐えきれず、にじみだしている。それが彼女なのだ。
   しかし、結局、まだ女の子は変わっていない。世間がどう言よううが、女の子は変わりきれていない。いま、試行錯誤にあるのかも知れない。だから、まず彼女たちがやらなければならない事は、新しい服を着るよりも、自ら男性の性器をくわえる事だ。すべては、そこから始まる。自ら男の性器をくわえる事によって、女の子は新しい服も、戦闘服も、本当に着る事ができるだろう。本当に着たく思えばの話だが。
   しかし、京都はいつも新しいものが沸いてくる。
 



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