"Interview by Torquil Cambell

StarsのHP(You are Stars)より
Paddy

October 26, 2010


プリファブ・スプラウトの最新アルバム『レッツ・チェンジ・ザ・ワールド・ウィズ・ミュージック』の北米でのリリースに際して、Starsのトーキル・キャンベルがパディ・マクアルーンにインタビューした。


初めて自分の音楽のアイデアが出てきたときのことを覚えていますか?

自分の音楽のアイデアは徐々に忍び寄ってきて大きくなった。70年代のいつだったか、初めて作曲したのは13か14歳だったと思う。申し訳ないけど、その時のことはあまりよく覚えていない。あまり印象に残るようなことじゃなかったんじゃないかな。プリファブ・スプラウトっていうのは僕が自分で作った曲につけたレーベル名で、バンドを組んで演奏しているキッズのように、カセットプレーヤーにナンセンスな曲を録音して、アルバムタイトルをつけるんだ。弟のマーティンとマイケル・サーモンという僕らの友達と一緒にアコースティック・ギターとダンボール箱、ポットや金属皿を使って夢中で演奏してた。マイケルが1975年か1976年にドラムキットを手に入れた時に、ちゃんとしたバンドの形になった。短く言えばそういうことなんだけど、僕の音楽的嗜好とどうやって作曲を始めたのかっていう話に興味があるなら、60年代について話をしなければならないと思う。

ほとんどの作曲家と同じように、僕自身、自分が大好きで聴いていたすべての音楽の生産物なんだ。1967年、僕は10歳だったけど、音楽の黄金時代に育ったと思っている。60年代に育ってはいるんだけど当時は早く寝なきゃならなかった!つまり周りの影響を受けるにはまだ若すぎたってこと。流れてくる音楽は断続的なもので、たいていはラジオから聴こえてきた。両親は音楽好きではあったけど、レコードを買うことはほとんどなかった。だから僕もビートルズの”She Loves You”やビーチボーイズの”Good Vibration”、ボブ・ディランの名盤なんかを買いに行くことはなかった。そういった素晴らしい音楽に接してはいたけど、その素晴らしさに気付くこともなく、無関心だった。なにしろ自分が特に音楽的な人間だとは思ってなかったし、子供の頃に熱中してたのはフットボールやサッカーなんかだったからね。

何が好きだったかって?ビートルズはずっと楽しんで聴いていたよ。レコードは持ってなかったけど、テレビに出てて、ヘアスタイルと彼らの作り出す興奮について大人達がコメントしてたのをおぼえてる。全部ニュース映画になってた。そんな状況の中で育ったんだ。6歳の時に母親に僕のイニシャルはポール・マッカートニーと一緒だって言われたのもおぼえてる。ハハハ。こんな話でいいのかな?正直、自分でも時々そんな単純なことかって不思議に思うし。自分に音楽の才能があったからビートルズに興味を持ったってのもおかしいと思う。ビートルズがどれどけ多くの人に夢を与えて、慰めてくれたか。これはグリル・マーカス(作家・音楽ジャーナリスト)が取り上げるテーマだよね。

過去に聴いてきたたくさんの音楽が啓示として降りてきたって僕が言ったとしても自分としてはそれほどノスタルジックな人間だとは思わない。まだ小さかったから、カッコいいことをしようって気持ちに邪魔されることもなかった。バカラック?ローリングストーンズ?ムーンリバー?ウエストサイド物語?みんな僕にとっては古い年代の音楽さ。だから君の質問に対する長い答えとしてはこうだ。自分の好きな音楽が体に沁みこんで自分の作曲方法が形成される。だからあらゆる作曲家の音楽は他の音楽の亡霊に敬意を表してるんだよ。


一番最初の曲を書くためにインスピレーションを与えた特定の音楽はありましたか?

なかったと思う。1968年あるいは1969年頃は母親が安いスパニッシュギターを手に入れて僕はギターに夢中になってた。ギターを学び始めた初期の夢中の状態から作曲の衝動が生まれたんだと思う。2、3のコードを覚えて、自分が好きな曲はコードで成り立っているってことを知って、コードチェンジが自分にとってとてもエキサイティングなことがわかったんだ。弟のマーティンも僕と同じように夢中になったけど、彼がギターを弾き始めたのはまだ7歳の時だった。

具体的な出来事?ピート・タウンジェントが”ピンボールの魔術師”で使っているサスペンディッドコードとボブ・ディランの”Lay Lady Lay”の素晴らしいコード進行を誰かに教えてもらった。今しゃべってる途中で、ほとんど忘れてた驚くべきことを思い出したよ。とてもシンプルなフォークソングのコードを覚えたんだ。たぶんカリプソ風の”日のあたる島”(Island in the Sun:ハリー・ベラフォンテの曲)だったんじゃないかな。新しい世界のドアを開いたようなすごい興奮をしたのを覚えてる。感動したんだ。自分でもやってみたいと思うようなもっと音楽的に洗練された曲は他にもあったんだけど、この曲が僕にとっての始まりだった。それから当時流行っていたポップスやロックを追っかけるようになって、僕の興味は発展していった。ボウイ、ボラン、ニール・ヤング、チャートのTOP40のアーティスト達に、ビーチボーイズ、スティーリー・ダン、ザッパ、ビーフハート、ヘンドリックス、サンラ、過去に遡って、シュトックハウゼン、ストラビンスキー、シェーンベルグ、ブーレーズ、ルイ・アームストロング、マイルス・デイビス、レッド・ツェッペリン、ジョニ・ミッチェル、ディラン、ザ・バンド、とにかくあらゆる音楽に僕とマーティンは興味を持った。シック、マーヴィン・ゲイ、スティービー・ワンダー、ジミー・ウェッブ、ソンドハイム、ガーシュイン、アルバンベルグ、みんな素晴らしい音楽だ。でも僕は音楽を作るよりも先にやっていたことがあるんだ。

作曲に取り掛かる2、3年前で、当時はどうやって作曲すればいいのかもまったくわからなかった。まったくだよ。でもそんな時に僕はビニール盤の円形の形に切り抜いた紙にアルバムタイトルと曲名を書いてたんだ。まるでレコードを作る真似をすることによって、曲想を得ようとしてたかのようにね!その時はまだ作曲方法がわからなかった。奇妙な成り行きだよね。1970年以前には自分で作曲する状況とはほど遠かったっていうのに。でも曲を作りたいっていう強い願望があった。戦略も手段もないのに願望だけがね。動機はよくわからないんだけど、僕はすごく作曲したがってたんだ。

次に何が起こったかって?ようやく数曲、いやたくさんの他人を模倣した曲を作った。でも70年代のある時に、自分でもややプロフェッショナルだと思えるような曲が1曲書けたんだ。そのことがいい作品を作り出すことができるかもしれないって思う自信につながった。それ以来自分に言い聞かせてるんだ。以前にたくさん曲を書いたんだから、少し運が良ければ、また書けるはずだってね。これが自分の作曲哲学の金言さ。今までラッキーだったから、また同じことが起こるかもしれないってことがね。それで僕は学んだ、あるいはこう感じるようになった。音楽理論のレッスンを受けてなくても、こんなちっぽけな作曲哲学の金言でまかなえるってことをね。


お気に入りのプリファブ・スプラウトのレコードはありますか?

ないね。「うまくできたぞ」っていう1枚があればいいとは思うけど、悩みすぎるんだ。でも僕らは素晴らしい人達と仕事をしてきた。トーマス・ドルビー、デビッド・ブリュイス、ジョン・ケリー、トニー・ヴィスコンティ、みんな僕にとって忘れがたい人達だ。もちろん良き友人であるカラム・マルコムもね。


エルビス・プレスリーとあなたとの関わりについて教えて頂けませんか?

まだ小さかったから革命児のシンボルだった頃のエルビスについては知らないんだ。ジョン・レノンや他の人達が聴いて影響を受けた頃のエルビスをね。こういうことは言いたくないんだけど、僕の子供の頃のエルビスは既に時代遅れの人って感じだった。年上の男の子たちがお尻を揺らして下腹部をクネクネさせる昔のエルビスの真似をして遊んでいたことをよく覚えてる。当時は知らなかったけど、除隊して、MOR(middle-of-the-road:ポップでもロックでもない中間の音楽)や映画のサウンドトラック、”イッツ・ナウ・オア・ネバー”(1960年発表のシングル:イタリア民謡のオー・ソレ・ミーヨのカバー)をやってた頃で、当時僕が聞いてたビートルズとは比べられなかった。

興味を持って、エルビスのレコードを聴くのを楽しみ始めたのは後になってからのことで、サン・セッションズ(1955-1956)だけじゃなく、”In the Ghetto”や“I Just Can’t Help Believing”などの1970年代のシングルも大好きだった。彼の声はフランク・シナトラの後の白人系アメリカ人のサウンドとしてしばらく定着してたはずだ。エルビスがデビューした何年も後になってから、僕は”ハートブレイクホテル”がラジオの電波に流れた時、どれだけエキサイティングでエキゾティックだったかを理解するようになった。でもまあそれは単に革新的な時代に立ち会えなかったってことなんだけど。後に僕はエルビスに関する曲を書くことになったけど、それは彼が80年代に神話的なシンボルになったからで、作曲するテーマとしてその彼の名声に興味を持ったからなんだ。


あなたはずっとイギリス北部に住んでますが、そこには音楽をするのになくてはならないものがあるからですか?

どうして僕がここに住んでいるのかはわからない。たぶんいくつか理由があるんだろう。ひとつは家族とか先祖という事情かもしれない。でも基本的に僕は自分の頭の中に住んでいるようなものだから、作曲をしている限りは住んでいるところはあまり重要じゃない。イギリス北部はきちんと秘密が守られる場所だと言われるけど、僕は何か秘密を漏らすようなことを言うわけじゃないからね。


この『レッツ・チェンジ・ザ・ワールド・ウィズ・ミュージック』というとてつもなく美しいレコードのリリースを今まで待たなければいけませんでした。このレコードは音楽と宗教、その2つの関係についてのあなたの思いが反映されていますか?年を取るにつれて、宗教を信じることの意味について変化はありましたか?

宗教を信じる意味なんてわからないよ。この種のインタビューにはあまりに大きすぎるテーマだよね。君をうんざりさせるかもしれない。たぶん僕自身が考えすぎてヘトヘトになるかな。考えるのをあきらめない人間だからね。でもソングライティングにとっては大きなテーマだ。情熱、不安、畏怖、死すべき運命、あらゆる人間性を巻き込むテーマだ。それに知ってる知らないは別として、宗教は僕らみんなが使う言語やボキャブラリーにつきまとわってる。詩的な奥深さがある。さっき僕はお気に入りのプリファブ・スプラウトのレコードはないって言ったけど、このアルバムはたぶん最も恥ずかしくないレコードだよ。


こう言ってはなんですが、あなたのレコードはいつも舞台で上演される作品のように思えます。才能ある作家であるジョナサン・コウとちょっとしたミュージカルを作曲されたと聞きましたが、この作品はさらに作られるのでしょうか?ミュージカルには興味はおありですか?その理由は?

A: 残念ながらジョナサン・コウのことは知らない。でもミュージカルには興味があるよ。 1作品書いてみたいって思った時があったんだ。でも僕にはいろんな視点をドラマにする技術と根気強さがないように思う。音楽とイメージを結びつけてみたいって気持ちは抑えがたいんだけどね。

どうしてミュージカルに興味があるかというと、ひとつにはロックンロールやシンガーソングライターの「俺のやってることを見てくれ」っていう自己中心的なところに懸念を感じてるからなんだ。ドラマティックな作曲技術を持ったら、そんな落とし穴に落ちることを避けれるかもしれないけどね。正直な話、メロディに関心があるなら、ブロードウェーの作曲家に目を向けるべきだと思う。たくさんのラブリーなメロディを作曲したリチャード・ロジャースなんかをね。


他人の書いた曲で好きな曲を3曲挙げるとすれば?

ジミー・ウェッブの“ウィチタ・ラインマン”、ブライアン・ウィルソンとトニー・アッシャーの“神のみぞ知る”、それにホージー・カーマイケルの“スターダスト”  。


作曲するにあたって、政治と論争、この2つのことには手を出されていませんよね?このことについて少しお話頂けませんか?

アンソニー・スカデュトの書いたボブ・ディランの伝記が僕に政治と論争の取り扱い方を教えてくれた。この本でボブがフィンガーポインティングソング(批判歌)と呼ぶことに不安を持ってたことを初めて知った。彼は自分が論争を巻き起こすソングライターになってることはわかっていたけど、一元的に捉えられることが好きじゃなかった。考えてみてごらん。制度や自分以外の他人に対して絶えず問題提起を追求していくことを。そんな気持ちで曲を書いても大言壮語なものになってしまうよ。論争になるような曲にはそんな問題があるんだ。自分の書いたちっぽけな曲があらゆる新聞の見出しになるような不幸な出来事を紛らわすことができるかい?昨日のニュースに縛られた曲を聴きたがる人はいるかな?

ありふれたことかもしれないけど、僕は曲が魔法にかけられた状態、つまり人々を魅了する作曲家と歌手がキャスティングできた時にうまくいくことを信じてるんだ。「すごい!この世のものとは思えない」っていう意味じゃなくて、曲の中にリスナーのイマジネーションが作用する余地を残しておくことを言ってるんだ。どうしても「この世界はどうなってるんだ」とかあるテーマにおける自分の意見を言いたいなら、持って生まれた非常に優れた才能と苦しみを和らげる能力、その両方が必要なんだ。マービン・ゲイの"What’s Goin’ ON"のようにね。あるいはビリー・ホリデイの“奇妙な果実”のように正当な怒りで武装もしなくちゃならない。ジョン・レノンでさえ論争を巻き起こすような曲で問題を抱えたけど、彼には力強いレコードを巧みに作る才能があったからずっとやっていけたんだ。


今の音楽を作り出しているあなたの頭の中の夢は若い時から変化はありましたか? 子供を持って作曲に変化はありましたか?

一番大きな変化は自分のやることに対してもう新鮮さを感じないってことだと思う。たくさんの曲を書いて、自分で学んできたことに慣れすぎるようになった。例として挙げると、スターズ(stars)という言葉を初めて使った時は(数多くの作曲家が同じ言葉を使っていたとしても)自分には新鮮に感じるけど、何度か使っているうちに、その目新しさがなくなってしまう。他の作曲家たちもそのことに気付き始めるんだけどね。年を取るにつれて、自分の限界を強く感じるようになって、自分自身に驚くことが難しくなるんだ。


ギターを使って作曲しますか?ピアノですか?あるいは両方を使いますか?どんな違いがありますか?

両方使うよ。あるいは両方ともないがいろにしてるって言ったほうがいいかな。リアルな変化を求めるなら、直接コンピューター上の楽譜に曲を書いていく。『I Trawl the Megahertz』ではかなりこの手法を使った。一風変わったメロディラインを求めるなら、最近はキーボードを使っている。ギターの6弦に対して、10本の指はより豊かで幅のあるハーモニーを作るのに適しているからね。でも若くて辛抱強さがあった時にどんな風に曲を作っていたか思い出せなければ、ギターを使うだろう。


プリファブ・スプラウトのファンがみんな知りたがってるこの質問に触れないわけにはいきません。地下貯蔵室に眠っている多くのレコードはいつリリースされるのでしょうか?今も新しいレコードを作っていますか?

作ってる。新しいプロジェクトをやってる最中さ。長年インタビューで話してきたリリースされないレコードにはどことなく憂鬱な気分にさせられるから、詳しい話をする気になれない。どんどん山積みになっていくんじゃなく、山が小さくなっていくのを見たいんだけど、残念ながら聴覚障害のせいで以前よりもペースが落ちた。右耳が悪いんだ。でもコツコツと新しい音楽に取り組んでる。やり終えた時には地下貯蔵庫に何かないか見に行くよ。質問してくれてどうもありがとう。


あなたの曲は年を取るにつれてどんどん直接的なものになってきました。曲作りを突き詰めていくうちに、何を入れないかを選択することに苦心するようになってきたのでしょうか?

その通り。僕の曲は前よりも直接的になってる。簡潔に書きたいって願望が長い間あったように思う。曲を書き始めた頃は単純なCメジャーコードを使うのをためらってた。以前に使ったことがあったからなんだけど、本当にクレージーだよね。でもその考え方のおかげでギターで変なコードを思いついて、それが作曲にも影響を及ぼした。いろんなやり方に熱中するうちに、もっと直接的なスタイルで作曲する能力が自分にあるのかとても知りたくなった。同じところにとどまってられないんだ。最近の僕は自分が昔作ったひねくれた曲にノスタルジックになってるって信じられるかい?

君が言うように曲を面白くするために何を省くかってことに注目するのは正しいと思う。ついでに言えば、それはさっき言った論争になるようなことに慎重になる理由でもある。論争っていうのは白黒がはっきりした事実を求めるもので曖昧さがないからね。


最初に組んだバンドの名前はパリス・スミスです。あなたの大ファンである証拠ですが、今のバンドのStarsもそれがあなたの一番好きな言葉だと聞いたからです。これは本当ですか?どうしてそれが一番好きな言葉なんですか?

パリス・スミスっていうバンド名は可愛らしいな。Stars?思い当たるところはあるよ。ずいぶん前に好きな言葉はStarsって言ってたことを覚えてる。星は間違いなく『アンドロメダ・ハイツ』のほとんどの曲の重要なイメージになってた。どうしてかって?どういうわけか、僕は曖昧なコンセプチャルな枠組みの中に曲を分類するのが好きなんだ。星は昔からあって時代を超えた最良のイメージを持つ言葉だしね。僕らのちっぽけな人生は平然とした星たちの眼差しの下で過ぎ去っていく。シェークスピアの物語のようにね。僕は曲を書くとき、ときどきどんな曲にしようかっていう考えもなしに書き始めるときがある。潜在意識の力に任せたいんだ。無意識に曲を作り始めて、ある時、一番よく使っている言葉がStarsだって気付いた。ラブリーな響きの言葉だと思わないかい?真ん中のの母音をのばして言うと小さな爆発音みたいになる。たぶんそんな話をしたんだ。あとGodって言葉も僕の曲にはたくさん出てくるから繰り返さないよう心掛けてる。「もうたくさんだ」プリンスならそう言うかもしれないね。


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