"PADDY McALOON'S PREFAB SPROUT" by John Birch

durham

『つつましやかな始まり』

ジョン・バーチ著「パディ・マクアルーンのプリファブ・スプラウト」第1章より


パディ・マクアルーンは1957年6月7日の土曜日に生まれ、両親、兄弟と一緒にダーラムの高地にあるコンセットという小さな村の鉱山地区の中心部で暮らしました。コンセットのこの地区に住む人々の暮らしぶりはとても厳しく、詩情や芸術的な野心が芽生えるような余裕はほとんどありませんでした。

パディは柔軟で感受性の強かった11歳のときに近所のアスハウ・カレッジというカソリックの神学校に通い始めます。カレッジの旧聖職授与権者はこの地域のカソリックの布教に貢献した聖カスバード(635-687)で、彼は伝道師でもあり、一時は遁世者でもありましたが、修養上で多大な意義をもたらしたことによりリンデスファーン主教としての地位を与えられていました。そして死後、彼の墓で起こった数々の奇跡の物語によって、イギリス北部でのキリスト教の指導者としてのカスバードの人物像が作り上げられていったのです。

パディはこの神学校に1968年から1975年までの7年間、平信徒の生徒として通っていました。パディはここに入学した他の多くの生徒達とは違って、聖職者になるためのミサを行う訓練をする必要はなく、通常の中等教育カリキュラムを受けていました。
家から離れたいという気持ちを持っていたパディはビリー・バンターの漫画シリーズ(*)にあったお菓子箱のようなロマンティックで甘いイメージに恋焦がれていたこともあり、学校の寄宿舎に入ることを決意していましたが、学校側からは11歳の子供が寄宿舎に入るのは早すぎると言われ断念しました。

* Billy Bunter : 英国の作家フランク・リチャーズの学園もの少年小説および漫画の主人公。食べてばかりいる肥満児でことあるごとに騒ぎを起こす。1908年に少年雑誌に初登場。50年代にはテレビ・コメディとなり人気を博した。
パディは他の生徒達がみんな信心深いわけでなく、口汚いジョークをとばし、サッカーをして遊んだりすることを知って安心しました。実際パディも音楽の時間になるといつも教室を抜け出し、外でサッカーの本を読みふけるような品行の良くない生徒だったようです。
パディは学校時代の自分を思い起こしながら、現在の自分がどんなふうに他人から思われているかということについてこんなことを言っています。「みんな僕のことを感受性の強い人間だと思ってるようだけど全然そんなことはないんだ。何か特別な能力を持っているわけでもないし、むしろ無作法で荒っぽい性格なんだ。これまでも内省的なところはなかったし、むしろその逆で、少なくとも16歳まではえらそうに大口を叩く目立ちたがり屋だった。自分でもうんざりするくらいのおしゃべりなヤツだったことを覚えているよ」
パディは学校でかなり変わった時間の過ごし方をしていたことを認めています。どういう風に変わっていたかというと、ギターを弾いて曲を作っていた多くの聖職者から手ほどきを受けながらギターを演奏することを学び、それを楽しんでいたのです。
外の田畑を走り回るようなことが大嫌いで、家の中でジタバタもがいていたパディでしたが、学校に入った最初の年には自分で曲を作ってみたいという強い衝動に駆られ、授業そっちのけでラジオから流れていたグレン・キャンベルが歌う「Wichita Lineman」の"I need you more than that want you and I want you for all time"というジミ−・ウェッブが書いたフレーズを聞いていました。

音楽的にはパディはポストパンクの時代に育ちました。当時の反逆精神は自由を求める解放感へと置き換えられつつあり、マーク・ボラン、デビット・ボウイ、ゲイリー・グリッターのような艶やかなグラムロックのアーチストが奇抜なファッションで女装していました。パディはマーク・ボランに心酔していて、ボランの写真を雑誌から切り抜いてギターに貼り付けたりしていましたが、彼のルックスを真似たいとも思いませんでした。パディはルックスよりもグラムロックのサウンドそのもの、アーチスト達の自分で作曲する能力、やりたいことをする実現させる表現力に魅了され、「Ride A White Swan」「Get It On」「Young Americans」「Station to Station」といった曲に夢中になりました。

パディは子供の頃から虚弱体質で、気管支に病気を患っていて、弱視のため国家医療制度で定められた眼鏡をかけなければなりませんでした。学校で分別のある生徒になるにつれ、自分は聖職者になるだろうというロマンティックな将来を夢見ていましたが、いろいろ考えていくうちに聖職者というものは最も孤独で困難な仕事だという風に考え、自分には向いていないと思うようになりました。
パディはいつも両親以外の他人には誤解されていると感じていました。パディが学校に通っていることは彼の住む村では注目を集めていました。というのは、まわりはみな炭鉱夫の一家ということもあり、生計を立てるのがやっとだったからです。パディの父親は肉体労働、知的労働の両方に従事していたことがあり、両方の面から世の中を見る眼を持っていました。先のことを明瞭に見据える視点がいつもあって、息子達にはこうあってほしいという気持ちを持っていましたが、決してその気持ちを息子達に押し付けるようなことはありませんでした。
父親はこの地でしばらくの間、教師をしていたことがあり、パディの叔父が子供の頃に父の教えを受けていたことは家族の間でもよく知られていました。パディ自身は学校では先生に質問するのをはばかっていつも教室の真ん中ぐらいの机に座っているおっとりした生徒だったと言っています。国語が好きで数学が嫌い。数学の授業自体は楽しんでいましたが、得意科目になることはありませんでした。父親が学校で数学を教えていたのでパディはバツの悪さを感じていましたが、その数学嫌いもあって学校を卒業するのをうれしがっていました。
両親はパディに対して、上級クラスに進んだ後は、より大きなことを求めて興味のあることに打ち込める機会を持つように提案しました。
パディに最初にギターを弾いてみたいと思わせたコードはThe Whoの「ピンボールの魔術師」の出だしのsus4でした。はじめは昔のフォーキーな曲や感傷的な曲を演奏していましたが、しだいに当時のポップアイドルの曲を熱心にコピーするようになり、最初は母親のギターで練習していましたが、パディがかなり深く音楽に興味を持つようになったので、母親は新しいギターを買い与えました。
パディは自分が影響を受けたものについてこのように語っています。「子供の頃はビートルズとマーク・ボランが自分のバンドを作りたいという大きな野望を抱かせてくれた。僕はビートルズから影響を受けてるけど、両親はビートルズを聴くには年をとりすぎていたし、僕が自分でレコードを買うにも若すぎたので、家にはビートルズのレコードは1枚もなかったんだ」
パディは自分のヒーロー達の曲をコピーしながら、たった1つのコードでギターを演奏することも学びました。しかしそれからすぐ自分でオリジナルソングを書きたいという欲求を持つようになります。もちろんそれはヒーロー達がやっていたからです。パディはマーク・ボランのように歌おうとしながら、自分自身のスタイルを模索していた段階で、一風変わったさまざまな影響を彼から受けています。
両親はコール・ポーターやジョージ・ガーシュインなど昔のソングライターのミュージカルソングを譜面なしで楽しそうに演奏していました。パディもギターを演奏するようになり、ビートルズの「Elenor Rigby」、デビット・ボウイの「All Young Dudes」などの曲のカバーを、老人ホームやカソリックのコーヒータイムの集会所で、水曜日の夜に演奏しに出かけ、観客から拍手喝采を受けていました。12歳になると自分で作った奇妙な曲もレパートリーの中に盛り込んで、観客の反応を見たりして、ソングライティングのスキルを向上させていったのです。
パディはそれからまもなく"自分で作った曲は他人の真似でなく自分らしいものであるべきだ"という考えを持つようになり、自分に妥協することを軽蔑するようになります。寝室に引きこもって、ベッドの上で曲を書くプライベートな時間を持ち、バート・バカラック、ジミ−・ウェッブ、ポール・マッカートニーなどのソングライティンター達を自分自身に重ね合わせ、そうして書いた曲を秘密にしておくこと、それが曲の強さを守るのだと考えるようになり、人知れず自己満足の世界へ逃避するようになったのです。

1973年、16歳になったパディは卒業までまだ数年あったこの時期に、将来自分の曲を演奏することになるバンドの名前"プリファブ・スプラウト"を思いつきました。しかしこの名前が実際に使われるまでにあと4年の月日を要します。なぜ"プリファブ・スプラウト"なのか?パディは当時はやっていたグランド・ファンクレイルロード(Grand Funk Railroad)、モビー・グレイプ(Moby Grape)、グラップルド・インスティテューション(Grappled Institution)というバンド名を気に入っていました。それらの名前は聴く人に対して曲に対する先入観を持たせずオープンな気持ちで曲を受け入れさせるものだったからです。
卒業の1年前、パディは4人の友達とアヴァロン(Avalon)というバンドを結成しました。それは突然の思いつきで、メンバーは全員ダーラムの中心にあるウィットン・ギルバードという地域に住んでいました。パディは20年間使い続けることになる母親からもらったギターで作られた自分の曲が、誰にも聴かれることなくそのまま埋もれてしまうことに我慢できなくなり始めていたのです。アヴァロンははじめビートルズの「While My Guitar Gently Weeps」、レッド・ツェッペリンの「Rock And Roll」、イーグルスの「New Kid In Town」などよく知られた曲のカバーをレパートリーにしていました。
しかしそのうちカバー曲の合い間に、北タインサイド(イングランド北部・タイン川下流のニューキャッスルから河口に至る地域)の美しい風景を歌った「マーズデン・ロック」(Marsden Rock)、試験勉強中にポップソングを聴いて自分自身の小さな世界に入り込むようなポップソングによる慰めを歌った「ウォーク・オン」(Walk On)などパディが自作した曲も演奏するようになります。

アヴァロンは北タインサイドやダーラム郡周辺のパブやクラブで自分達が演奏できる場所を見つけました。イングランド北東部にあるホイットリーベイの有名な海沿いのリゾート地であるクラーコーツのホテルで行われる地元のフォークシンガー、ピート・スコットのサンデーナイトというイベントに出るようになり、ここではたったの40ペンスでアヴァロンの演奏を楽しむことができ、メンバーは演奏してない時は店の客に飲み物を買わせたり、バンドの演奏を見させたりするようなことをやっていました。
MOR(Middle Of the Road:万人受けする音楽)を演奏していたアヴァロンはそこでわずかながらも熱狂的なファンを持つようになり、パブ周辺ではホットリーベイ・ガーリーズなるファンクラブも結成されました。
弟のマーティンはいつも兄パディの才能が賞賛の的になることに活気づけられ、ベースギターを持って一緒にステージに立ち、いつかは自分のバンドで演奏することに思い焦がれながら、兄からあらゆることについて役に立つアドバイスを受けていました。
ヒートンにあるコーナーハウスという地元のライブハウスでもアヴァロンは演奏しましたがそれが最後のギグになり、バンドはメンバーの進学、就職のために解散しました。心配する両親の助言もあって、パディは国語(英語)と歴史学をより深く勉強するためにニューキャッスルの総合技術専門学校に進学しました。
「僕は本当に信心深い人間だけど、伝統的な慣習にはとらわれたくないからミサには行かない。きちんとした信仰生活にはシニカルな立場を取ってるけど、神を信じてはいるんだ」
パディが17歳になったこの頃、父親の健康状態がかなり悪くなり、それまでやっていた臨時教員の仕事をやめて、ウィットン・ギルバードの新しい家の近くで小さなガソリンスタンドを始めます。パディとマーティンは学校の友人でドラムをやっていたマイケル・サーモンと一緒に通りの向こう側にあったスタンドの裏側でレッド・ツェッペリンや他の多くのロックナンバーのカバーを毎日入念に練習していました。
両親はパディが音楽と作曲に多くの時間を費やしていることを知って、音楽で身を立てることの難しさをわかっていたので、心配してはいましたが、我が子が本当にしたがっていることを思いとどまらせるようなことは決してしませんでした。
父のスタンドでガソリンをポンプで汲み上げ、本を読み、作曲をする、そういったことに自分のすべての時間を使うことは、パディにとって天国のようなものでした。自分がレコード会社と契約してるかどうかなんてことも気になりません。当時の彼を満足させたこと、それはただ純粋に曲を書くことができる、それだけだったのです。
この頃には、パディは自分の書いた曲がどんなにいい曲であっても、まわりに本気になれる競争相手がほとんどいないことをわかっていました。パディははじめ作曲家になりたがっていました。しかし自分の作品を知ってもらうにはまずバンドで曲を演奏したものを聞いてももらわなければならないということもわかっていたのです。
パディの人生において1977年は総合技術専門学校に入ったというだけでなく、音楽的にもひとつの大きな変化があった時期でした。パンク・ムーヴメント隆盛だったこの頃パブロ・ピカソや小説家ジェイムズ・ジョイスに興味を持つようになり、その芸術スタイルをどんどん自分の中に取り込むようになったのです。

パディは多大なる熱情を持って、雑誌、小説、その他手にしたあらゆるものを読みふけり、物語よりもむしろそれを表現する文章のスタイルに激しくひきつけられていきました。パディは詩に対しては信用していなかったので好きではなく、本を執筆したいとは思ってはいましたが、自分にはそのための集中力がないこともわかっていたのであきらめていました。本は一箇所の欠点がその作品すべてを台無しにしてしまうことがある一方、3分間の曲では、たとえ歌詞が興味深いものでなかったり、その歌詞自体が意味をなす必要がなかったとしても、メロディかリズムがよければ言葉も意味深いものになるとパディは考えていました。
文学からの影響と学校での国語(英語)の勉強は作詞において言葉により深い意味合いを持たせることに役立ちました。1977年、パディは「Golden Calf」を書きました。この曲は11年後にプリファブ・スプラウトのシングルになりますが、その時には歌詞の多くの部分が削除されていました。パディが歳をとって成熟し、歌詞においてより深い意味合いを追求していく中で言葉が研ぎ澄まされどんどんそがれていったのです。「こうすればこの曲がもっとよくなる、それがわかっていなかったら今の僕はなかっただろうね」
パディはまたこの時期に「Bonny」も書き、表現しようと思ったことにきちんと焦点を当てて作品を作ることが難しかったことを認めています。当時は曲を書いてそれをレコーディングするという行為をしていないこともあり、自分の曲が何に影響されていたかをはっきりとわかっていませんでした。この曲は昔のライブでは"Bonny's not coming home"と歌われていましたが、『スティーブ・マックイーン』に収録された時"Bonny don't live at home"に変わっています。
この頃パディはラジオでかかっているような曲にうんざりしていて、その反動で「Donna Summer」- この曲はギャ−ギャーと叫びながら演奏していました-、「Faron Young」(Four In the Morning)、「Don't sing」などの曲を書きました。
それから1,2年後、パディは自分がギターとハーモニカ、弟のマーティンがベース、マイケル・サーモンがドラムという新しいバンドを結成します。このバンドはちょっと変わった曲のカバーも演奏していましたが、レパートリーのほとんどがパディの作った曲でした。
パディとマーティンはマーク・ボランのいたTレックスやザ・フーやフリーなど当時はやったロックバンドと共に成長しましたが、パディはまたジミー・ウェッブ、バート・バカラック&ハル・デイビッドの曲に見られる抒情的な歓喜を表現したイージーリスニングに対しても鋭い鑑識眼を持っていました。
無秩序で騒々しい3ピースのバンドはハイスクール時代に組んでいたアヴァロンとはまったく違ったバンドでした。プリファブ・スプラウトというバンド名はパディが考え出してから4年間あたためられていたもので、ちょっと変わった神秘的な名前をつけることに凝っていたパディは、他にあったChyalis Cognosci(ホモセクシャルのさなぎ??)、Dry Axe(乾いたギター)、Village Bus(村落バス)といった候補の中からプリファブ・スプラウトを選んだのです。
1977年、パディはこの新しいバンドが"富と名声"を得るべくスタートを切ったこの日にメンバー全員がサインした公的な契約書を作っていました。またすでに「Goodbye Lucille」と名づけられた曲の11のバージョンからなるファーストアルバムも計画していました。この曲のバージョン1は8年後「Johnny Johnny」というタイトルでシングルになります。またそのアルバムには2曲のスポーツに関する歌も入れるつもりでした。オープニングには「I Never Play Basketball」、そしてエンディングを飾るのが「And Chess Is Beyond Me」。しかしエンディングの方はのちにパディにナンセンスな曲だとみなされ、ベースとなる部分がバラバラに解体されて「Cue Fanfare」になります。この曲はボビー・フィッシャーのようなチェスの名人がチェスをすることから得る快感がどんなものかを、"hair of gold"、"Sweet Mary"、"running to me"といったフレーズから思い起こさせるように描いており、これらのフレーズはトム・ジョーンズの1966年のヒット曲「想い出のグリーングラス」から引用されていました。

パディは多くのレコード会社に対して、自分達に興味を持ってもらおうと手紙を書いてデモテープを送ったりしていましたが、そういった行為はまったくの徒労に終わりました。パディはいまだに「Faron Young」を却下したCBSからの手紙を含む、すべての断りの返事を持っています。
パディによると当時のプリファブ・スプラウトは「Faron Young」をヘヴィ・メタルナンバーのように、「Johnny Johnny」はずっと叫び声をあげてパンクのように演奏していました。また当時熱心なファンだったウェンディ・スミスによるとメンバーはステージ上では膝まであるウェリントン・ブーツを履いていたそうです。でもパディはライブで演奏したいと思ったことは決してありません。人前で演奏するために神経を高ぶらせ、金切り声をあげ、乱暴な振る舞いをせざるをえないことを認めてはいましたが、それもすべて自分の曲を聴いてもらって、バンドがレコーディングをする機会を得て、自作曲の版権の契約を取りつけるために不可欠なものだからということで、そういった形で演奏することを受け入れていただけのことだったのです。
プリファブ・スプラウトはガレージバンドとして、ライブで十分に演奏できる自信がつくまでリハーサルを繰り返していたそうです。まもなくイングランド北東部のパブやクラブ、大学で演奏するようになり、その後4年間「Donna Summer」「Walk On」「Tin Can Pot」「Spinning Belinda」「Faron Young」などパディの曲を演奏していました。
70年代の終わり頃、パンクムーヴメントがピークに達していたとき、パディは国語と歴史の単位をどうにか取ることができました。父親のガソリンスタンドでの練習はスタンドに来た客をイライラさせることもありましたが、パディはここで働き、本を読み、ギターをかき鳴らし、作曲することに時間を費やす生活に満足していました。しかし残念ながらスタンドをたたむことになり、二人の兄弟はしばらくの間失業手当の給付を受けていました。この失業していた間にパディがやってみようと申し込みかけた唯一の仕事はダーラムでの図書館員だったそうです。
とあるフェスティバルの会場でプリファブ・スプラウトが演奏した時、パディはケーン・ギャング(The Kane Gang)のギターリストである地元のミュージシャン、デビッド・ブリュイスに出会いました。ケーン・ギャングのメンバーはこの日のプリファブの演奏を素晴らしいと思っていて、この偶然の出会いがパディとブリュイスの長い友人関係の始まりとなったのです。
プリファブ・スプラウトとケーン・ギャングはギグで並んで演奏することもあり、あるパブの店の前に貼り出された演奏者のリストには交代で名前が出ることさえありました。デイブ・ブリュイスはこの2つのバンドのための大きなプランを持っていて、ともに1曲づつレコーディングして両A面として発売することを提案し、ケーン・ギャングは「Brother Brother」を書き下ろしました。その後レコーディング費用の相談までしましたが、実現はしませんでした。しかしながら、彼らはキャンドルレコードという自身のレコードレーベルを作り、それぞれのバンド名義でシングルを出すことになるのです。
1982年2月25日、よく知られているようにマーティンが2ヶ月間のビルの夜警の仕事で稼いだ800ポンドを使って、プリファブ・スプラウトは地元のレコーディング・スタジオに入り、「Lions In My Own Garden (Exit Someone)」と「Radio Love」を録音しました。「Lions In My Own Garden (Exit Someone)」は頭文字をとるとLIMOGES(リモージュ)となりますが、これはパディのガールフレンドが留学していたフランスの地名です。

シングルの録音の後、地方でのライブを続けるうちに、バンドのファンでミドルスボーン生まれのウェンディ・スミスが学校を辞めてバッキング・ボーカルとして参加するようになります。パディは自分の荒っぽい騒々しい声とウェンディのソフトな歌声のコントラストを気に入っていました。パディの成熟してきたソングライティングにぴったりあっていたのです。そしてライブを行う費用を節約して、特徴のある赤いラベルのキャンドル・レコードで、「Lions In My Own Garden (Exit Someone)」と「Radio Love」を収録したシングルを1000枚作ります。それは1982年の7月のことでした。
同じ年の9月17日、ダーラム大学内の8トラックのレコーディング・スタジオで、プリファブ・スプラウトは「The Devil Always Has The Best Tunes」「Walk On」という2曲の新曲を録音します。ウェンディ・スミスはクラリネットとバッキング・ボーカルでこのときから正式に加入し、バンドは完全な形となりました。またゲストとしてウェンディの友人のフェオナ・アトウッドもバッキング・ボーカルで参加しています。このレコーディングからギターの他にキーボードも使うようになり、パディの音楽的な幅も広がりました。

キャンドルレコードのスローガンは"The Wax That Won't Get On Your Wick"(いらいらさせないレコード;Waxは蝋燭とレコード、Wickは蝋燭の芯とのダブルミーニング)で、プリファブ・スプラウトのポスターには"Simply Ears Ahead"(純粋に耳をこちらに傾けて)と書かれていましたが、この言葉が店内でプリファブ・スプラウトの新曲を聞いていたニューキャッスルのHMVレコードのマネージャー、キース・アームストロングの目に止まりました。アームストロングはただのレコード店の店長ではありません。チャートの主流からはみ出るようなミュージシャンを自分でもっと売り出そうとしていたのです。


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