孤独な天才の帰還

by Craig McLean

記事: クレイグ・マクリーン (The Independent 2009年9月6日)
Kris Kringle


パディ・マクアルーンはこの日のことをくまなく憶えている。2006年1月23日。孤独な天才はこの日までは自分の歌を歌うことができた。人生を悪夢に変えた聴覚障害という状況の中で、パディはどのようにして新しいアルバムを作り出したのか? クレイグ・マクリーンによるインタビュー。


パディ・マクアルーンは前かがみの姿勢でやさしく歌いかける。その歌はパディがバーバラ・ストライザンドとデュエットすることを想像して書かれた曲だ。「ねえバーバラ、僕たちは音楽で世界を変えることができると思わないかい?/ 正気な人間がこんなこと聞いたら“この二人に拘束衣を着せろ!”って叫ぶだろう/ でも僕らには音楽がある / 音楽は素晴らしいエネルギーさ / たくさんのドレミ / それが僕らの唯一の武器」

プリファブ・スプラウトのシンガー・ソングライターであるパディは一呼吸おいて、バーバラ・ストライザンドが自分に歌いかけることを想像しながら続きを歌う。「パトリック、みんなは心が音楽に反応するってことを忘れているのよ / でもそれは紛れもない事実 / だから音楽で世界を変えましょう / ふざけてなんかいないわ / そう、それは理屈じゃなくて感情 / 音楽は心を揺さぶるものなの」

そして二人のコーラス。「音楽で世界を変えましょう / 純真無垢な気持ちになって / 世界を自分たちの望むものに変えていきましょう」

52歳のパディ・マクアルーンは、ダーラム中心部にあるホテルのロビーで、寝心地の良さそうな長椅子に深く腰を下ろして座っている。パディはアトピー性皮膚炎のため白い手袋で覆われた手をたたきながら、陽気なタイン川沿岸地方の方言でやさしい口調で言う。「“音楽で世界を変えましょう”って言葉が引き起こす詩的な感情はコカ・コーラのコマーシャルソングみたいなものだけど、そこには誠実さがある。馬鹿げているけど、この10億年間、音楽で世界が変わらなかった。でも誰もがそうなってくれたらって思ってるんだ」

眼鏡をかけて、長い白髪と顎鬚をたくわえたパディは、赤いスーツを着て、赤と黒のチェックの靴を履いている。赤い取っ手のステッキ、黒いつばの帽子との目も眩むようなアンサンブル。まるでスコットランド出身の俳優ビリー・コノリーが演じるサンタクロースのような佇まいである。確かにパディは1年に1度というペースではないが、サンタのように贈り物を与えるのが好きだ。耳がゾクゾクするような魅力的な曲をたくさん書いて、家にはアルバム1ダース以上の曲のストックを持っている。それらの曲はまだリリースされていない。パディは主張する・「迅速にやろうと思えばできるんだけど、アルバムとして世間に発表する作業には面白味を感じない」もじゃもじゃ頭と顎鬚の世捨て人の家にはインターネットもない。でも家では家庭的な夫であり3人の娘の父親である。

パディの失われたアルバムの1枚が明日ようやく発売される。さっき歌ってくれたのが『Let’s Change the World with Music』という曲だ。パディがこの曲と同じ名前のアルバムのために書いた3曲のうちの1曲だ。ダーラム郊外の自宅でデモをレコーディングしたのが1992年だったが、パディと所属レコード会社のSONYがどんなアルバムにするのか、どうやって他のバンドメンバーと一緒にレコーディングをするのかということで意見が分かれた。当時はベースのマーティン・マクアルーン、共同ボーカリストのウェンディ・スミス、ドラマーのニール・コンティ、そして1985年の傑作『スティーブ・マックイーン』をプロデューサーであるトーマス・ドルビーがいたが、弟のマーティンは現在Babygodというバンドのマネージメントの仕事をしていて、パディの元ガールフレンドのウェンディはゲイツシェッド・コンサートホールで音楽トレーニングの開発リーダーをしている。

SONYでパディの担当ディレクターをしているマフ・ウィンウッドはこのアルバムの多くのアイデアからひとつを取り上げて、それをもっと拡大することをパディに提案した。パディはその提案を受け入れ、まず22分に及ぶ“Earth: the Story So Far”という曲を取り上げて、所属レーベルの提案通りこの曲を拡大しようとした。アダムとイブから始まり、アポロ11号で初めて月面に降り立った二―ル・アームストロング、ケネディ大統領夫人のジャッキー・ケネディーの時代に及ぶ30曲から成る一大コンセプトアルバム。

しかしプリファブ・スプラウトの6枚目のアルバムになるはずだった『Let’s Change the World with Music』はお蔵入りになった。そして17年後、この上なく素晴らしいホームメイドのデモトラックから先程のバーバラ・ストライザンドの曲、2曲目だったタイトル曲、イギリスのスーパーマーケットチェーンのセインズベリーズでレジ打ちをしているダイアナ妃を想像した曲、これら3曲を除いた形で、2001年の『The Gunman and Other Stories』に続くアルバムとしてついに発売されることになった。

「僕はこのアルバムのリリースには関与してないんだ」パディは穏やかに話す。賛美歌のような力、音楽のロマンスと神秘性をたたえた美しい楽曲が収められた本作のリリースの一番の立役者は長年辛抱強くパディを支えてきたマネージャーのキース・アームストロングだ。「キースは僕にお金を稼がせる手助けをしようとしてくれた。僕はレコーディングを終えた時、短期間は集中的に曲を聴くけど、それから2度と聴くことはない。あまり興味もないしね。でも今回のこのアルバムを聴いた時は“これはいい”って思えたよ」パディのこの言葉を傲慢だと思う人もいるかもしれない。しかし過去20年に渡ってパディに数回インタビューしたことのある私から見て、彼は自分の作った音楽に対して非常に控えめな人物である。

「しかし」と前置きして、パディは個人的問題を抱えてきたことについて言及する。「今月のMOJO誌に次号の僕のインタビューの予告記事があったんだけど、おかしなことに実際にインタビューされてからこの2ヶ月の間に自分の気持ちも変わってしまったんだ。5月にも、6月にも曲を書いていて今でもまだ書いている。この2ヶ月間に『Blue Unicorn』というアルバムの曲を書いてた。こんなことするはずじゃなかったのにね。リリースしなきゃいけない過去の音源に着手しようと思ってたのに」

1980年代のパディ・マクアルーンは異彩を放っていた。目立つためにコカ・コーラのコマーシャルソングのような曲を作る必要もなかった。1984年に詩的でメロディアスな美しい楽曲が収められた『Swoon』でデビューし、翌年の1985年、スミスのモリッシーが活躍していた時代に発表された『スティーブ・マックイーン』で現代のコール・ポーター、スティーブン・ソンドハイムとして脚光を浴びた。1988年に発売された『ラングレーパークからの挨拶状』からは“キング・オブ・ロックンロール”というTop10シングルを生み出し、パディはNMEの読者から熱狂的に愛されるカルト・アーティストから一躍ポップスターになった。しかしこの商業的成功により注目を浴びるのが嫌だったそうだ。1990年の『ヨルダン:ザ・カムバック』は天使、カーボーイ、エルビス・プレスリー、イビザ島から着想を得た19曲入りのアルバムだった。

賽は投げられた。その後10年間、パディはメイン・ストリームから姿を消し、隠遁生活に入った。アルバム発売の間隔が次第に長くなった。この隠遁生活についてパディは穏やかな口調で話をしてくれた。「みんながプリファブ・スプラウトをどう思っているってことを次第に考えなくなった。長い間、世捨て人だったことは自分でもわかっている」

“キング・オブ・ロックンロール”での大きな成功が隠遁生活に入るきっかけになったのだろうか?パディはこの曲を20分で書き上げ、自分で“珍奇な曲”(novelty record)だと言っている。直観的な能力と分析力をあわせ持つ作曲家、ボブ・ディラン、モーツァルト、ルイ・アームストロング、マイケル・ジャクソンのような人達にとって、この種の曲は概して未来を予見するような隠喩的なポップソングである。「脚光を浴びる時があっても、その時代は過ぎ去ってしまう」パディは否定的に答えて、実際にあった昔の話をしてくれた。

1979年、ウィットン・ギルバートというダーラムの小さな町でパディと弟のマーティンが父親のガソリンスタンドの仕事を手伝っていた時、常連客の一人に臨床心理学者がいて、高価なテープレコーダーを自宅に所有していた。まだ若かったパディがギターを弾いているのを見て、家で何曲かレコーディングすることを勧めてくれたので、それじゃやってみようかという話になった。「しかし僕らは恩知らずな子供だったから、彼に対して感謝の気持ちも表さなかった。それに当時は順調にいくと思えなかったしね」結局、レコーディングは途中でやめることになった。

今年の初めにこの臨床心理学者がパディの家にひょっこり顔を出した。30年ぶりの再会だ。彼は台所を通って、パディが毎日曲を書いている小さな部屋まで歩いてきた。「僕はこの部屋の隅にいるんだ。後ろには工具が置いてある棚があって、僕はアトピー性皮膚炎のせいでクリームを手に塗っていたので白い手袋をしていた。手には懐中電灯とドライバーを持っていて、明らかに何かを修理しようとしているところだった」パディは思い出し笑いをしながら続ける。「彼が部屋に入ってきた時、僕は思わず“違うんだ”って言った。でも彼は首を横に振って“もうすっかり隠遁してしまったんじゃないかって心配したよ”って言われた。“えっ!? 何でそう思ったの?”って尋ねたら“だってガソリンスタンドで働いていたあの当時も君はそんなにやる気はなかったじゃないか”って言われた」

「確かにその通りだった。僕は自分のやっていることに前向きじゃなかった」パディは続ける。「弟のマーティンも、キース・アームストロングも野心的な人間だった。僕は彼らについていっただけ。自分の思い通りにやったら、部屋の隅に行き着いてしまうんだ」

パディが人目につく立場から離れて隠遁生活に入ったのには更に過酷な別の事情もある。パディは2つの深刻な健康問題に直面した。1990年代の終わりに視力が次第に弱くなった。目の内側のゼリー体が縮んで、網膜の穴が大きくなり、そこに流れ込むようになった。「50年前だったらもう失明してただろうね」網膜をくっつけるためにシリコンで作られた3つの器具がパディの目に付けられている。白目の外側で盛り上がっている長方形のこぶを見せてくれた。左目はもう見えなくなっているそうだ。「よく見て。赤いところはもう皮膚の表面近くまできてるんだ」

この目の問題のために、スタジオでの作業が遅れるようになり、テープレコーダーとミキシングデスクを見るためには眼鏡が必要になった。「しかし難聴はもっと深刻で壊滅的な問題だった」パディは耳鳴りがするようになっていた。

「気が狂いそうになったよ。2006年の1月23日から右の耳で大きな唸り声が聞こえ始めたんだ」パディは長期間に渡って精神的苦痛を味わった事実を訥々と話す。「すっかり意気消沈した。音楽がバラバラ聞こえるんだ。ビートルズの“Getting Better”を聴いていても、ジョージ・ハリスンの演奏と中国の音楽が同時に鳴ってる。ぞっとしたよ」

パディは眼鏡越しの眼差しをこちらに向けて話す。「近くで誰かが紙をガサガサさせる音が聞こえてくるだけでイライラして眠れなくなるんだ。頭の中で鳴っているノイズを打ち消すためにヒーターや送風機のそばに頭を近づけてみる。まるで悪夢さ」

パディは重い口調で言う。「それがずっと続くんだ。6ヶ月間も家族と離れて、別の部屋にあるマットレスに横たわって寝ていた」妻はまるで片親みたいだと言い、パディは娘たちのたてる音にも耐えられなかった。「症状が定期的に繰り返して、プレッシャーのように感じることもあった。始めは小さな音だけどそれが6ヶ月も経つと頭のてっぺんからザワザワするぐらい音が大きくなってくる」

パディは再び病院に行き、医者と話をした。“今回は本当にひどい症状なんです。どこにも隠れる場所がなくて、行き場もありません”パディが苦しそうにそう言うと、医者は少し素っ気無い口調で“耳鳴りで自殺する人もいるんだよ”と言ったそうだ。「それを聞いてこれはもうあきらめるしかないってわかった。逃げ場がない病気だってことをね」

それから6ヶ月後、症状はわずかながら回復して、『スティーブ・マックイーン』のレガシー・エディションのボーナスCD用のアコースティックバージョンをレコーディングできる程度までになった。「もうこれは永続的な病気だということがわかった。たとえ周囲に雑音がなかったとしても、もう僕の右耳は左耳と同じようには聞こえない。でも脳がなんとかうまくやってくれているんだ」パディは大きな音の音楽を近くで聞いたり、たくさんの歌声を聞き分けることもできなくなった。「音楽的な面ではなんとかやっていけるけど、もうそれほど欲張った気持ちもない」それはどういう意味だろうか? 聴覚障害によって壊滅的、悲劇的な挫折感を味わったこの頑固なソングライターはもう自分の歌を歌うことができなくなった。「聴覚が悪くなったせいで歌をちゃんと歌えなくなった。そりゃやろうと思えばできるけど、歌うことがそんなに楽しいものじゃなくなってしまった」

パディには11歳のジョージア、9歳のセシリア、6歳のグレースという3人の娘がいる。名前はすべて歌に由来しているそうだ。「娘たちはこんな父親を励ましはしないけど、静かに傍観して、状況をあるがままに受け入れてくれている」しかし彼女たちは父親の風変わりな服装を手厳しく批判しているそうだ。「どうして赤いスーツじゃ駄目なんだい?これにはとってもシンプルな理由があるんだ。作曲する時、自分をメランコリックな気分にさせなきゃいけない場合があって、そういう時、馬鹿げてるかもしれないけど、衣服でその心構えをするんだ。赤い靴も何足か持ってる。身につけるものには雰囲気を変える役割があって、音楽に向かう気分を作ってくれる。赤は断然ドラマティックな色だしね。自分じゃ楽しんでいるつもりだけど、妻には笑われているよ。でも問題もあるんだ….」パディはニヤリと笑う。「気分を高揚させる服を着て外出しないほうがいいよ。タータンチェックのズボンを穿いてゴミを出しに行ったり、散歩に出たりするとみんなの注目を集めるからね」

曲を書いて、書いて、書きまくり、ひたすら作曲に没頭する。パディはそれ以外のことはもう何もできないし、自分の曲を歌うことには興味を失っている。聴覚障害のため歌うのが辛いという理由もあるだろう。演奏して歌うことに乗り気ではなく、9年前にツアーをしたが、今ではそれも苦痛を伴うものになった。30年前に臨床心理学者の友人が認識したように、パディは自分の曲をレコーディングすることにも興味を持っていない。17年前に一所懸命作った『Let’s Change the World with Music』に対するパディの情熱は醒めてしまっている。

しかし、完全に想像の世界で作られた数多くのアルバム、アイデアはどうなるのだろうか?『Earth: the Story So Far』、『Blue Unicorn』、マイケル・ジャクソンにまつわるコンセプトアルバムでずいぶん前にお蔵入りになっている『Behind the Veil』、『The Atomic Hymnbook』、『20th-Century Magic』、『Jeff & Isolde』、ボーカルを必要としないバーチャルなボーカリストをフィーチャーした市販の音楽ソフトウェアを使って作られる連作曲『Digital Diva』、『Doomed Poets Vol. 1』、ロッド・スチュアートが歌うことを念頭に置いて作られたアルバム、長年温めている25年前のデビューアルバム『Swoon』の再レコーディングなど、どれだけ雑多で数多くのリリースされていないアルバムがあることか。

「“1年1枚”、自分にそう言い聞かせてるんだ。もし1年に1枚のアルバムを作れば、60歳までに8枚のアルバムができるはず。でもやりたいことは8枚のアルバムじゃ収まらないんだよ」澄んだ目と素晴らしい音感を持ちながら、将来、失明あるいは難聴になるかもしれないパディ・マクアルーン、思慮深い孤高の音楽隠遁者は、自分自身を、自分の置かれた状況を、世界を静かに笑う。

「何をすればいいのかわからないよ」パディはため息をつきながら微笑む。「あまりにもたくさんの曲を作りすぎたのが問題の原因なんだけど、皮肉なことに、曲が書けなくなる最悪の日に備えてこつこつ蓄えてきたのに、今じゃそのたくさんの曲に押し潰されそうになってる。笑っちゃうよね。憂鬱な気分さ。なんでこんなことになるのかって?その理由はわかってる。みんな一日中ずっと働きづめの生産的な人間になれたらなんて考えてみたことがあるだろうけど、実際に一日中働いてたら、僕みたいに電線でがんじがらめのアンプが背後にある部屋の隅に閉じ込められてしまう。僕は壁際まで追い詰められていて、そこからゆっくり抜け出そうとしてるんだけどね…」

今後、パディが歌ったり、レコーディングしたり、アルバムをリリースするようなことはあるのだろうか?「おそらく金銭的な心配からそうすることもあるだろう。アルバムをリリースしてお金を稼いでくれって言われるよ。長い間ずっと同じことをやってるとうんざりしてくる。ある意味では僕は非常に生産的な人生を送っていて、純粋にやりたいことだけをやってきた。聴衆のことなんてほとんど気にしなかった。だって僕がその聴衆なんだから。自分でいいと思えなきゃ、聴衆もいいって思われない。だから自分で楽しめる曲を作る。そこはずっとこだわってきたつもりだよ」

「一方でビジネスの観点から見れば、僕は最悪きわまりないことをやってる」パディはまた穏やかに微笑みながら白い手袋をした手の平を上に向けて肩をすくめる。「どうすりゃいいんだい?逃げ出せるものなら逃げ出したいよ。でも僕は曲を作る。だってそれが僕の仕事なんだから」


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