やりたい音楽を作るのにオーディエンスはいらない

Paddy

ガーディアン紙2013年9月5日の記事より


プリファブ・スプラウトは80年代に何百万枚ものレコードを売った。しかしシンガーであるパディ・マクアルーンはいつも大衆のためというよりむしろ自分自身のために音楽を作ってきた。そんな彼がニューアルバムを手に沈黙を破って戻ってきた。


パディ・マクアルーンは誤解を解きたがっている。プリファブ・スプラウトの中心人物である彼はかつてインタビューで、アメリカの洞察力のある夢想家達、神がかった輝きと狂気の気配を漂わせたブライアン・ウィルソンやマイケルジャクソンのようなお気に入りのアーティストと同じように分類されるには、自分はあまりに理性的でありふれていると言っていた。自分はむしろエルビス・コステロやモリッシーのような謙虚で分別のあるイギリスのソングライターの系譜に属する人間だと言っていた。

しかし、2013年、彼は自分の意見を訂正した。何しろコステロもモリッシーもそんなに抑制の利いた分別のある人間ではない。それにパディもそれほど謙虚な人間ではない。「あの言葉は嘘だった」ホームタウンであるダーラムのホテルのラウンジの上品な雰囲気の中で彼は話を始めた。「あれは嘘だった。だって僕はみんな思うほど理性的な人間じゃない。ばれないようにうまく隠してるんだ。謙虚なソングライターの系譜に属してるわけじゃないし、モリッシーだって自分と同じだと思っている。彼の歌詞は世界に対する不満で何がしかの不朽の業績を残した。振り返ってみるとたぶんそれは自己認識の欠如で自分にそう言わされていた。自分がどれだけ誇大妄想狂の人間かだなんてまったくわかってなかったんだ。」

マクアルーンがモリッシーと同じくらい敬意を表されていた時代だった。世界中というわけではないが、少なくとも音楽業界の中において彼は成功するであろうと見なされていた。「当分の間、品のあるソングライディングの未来はすべてパディのペンの先にかかっているだろう」1984年3月のNME誌にバーニー・ホスキンスがそう書いている。プリファブ・スプラウトのデビューアルバム『スゥーン』がリリースされた頃の話だ。過去20年以上の間、パディは健康上の問題からある意味で引きこもっていたのかもしれない。耳鳴りと網膜剥離のせいでツアーができなかった。しかし今もパディは“叙情的な華麗さ”と“卓越した音楽”について話をしている。ある意味でこれらの言葉は『スティーブ・マックイーン』、『ラングレーパークからの挨拶状』、『ヨルダン:ザ・カムバック』という最も美しく知的なレコードを何枚も作ったパディとそのプロデューサーのトーマス・ドルビーにふさわしい言葉だ。

二人は洗練されたポップスのレースにおいてスクリッティ・ポリッティ、ブルーナイルのレコードと対等に張り合っていた。しかしパディはより身の程知らずな野心を持っていた。「複雑で思わぬ展開の音楽であれば『スゥーン』のようなレコードでもマイケル・ジャクソンの『スリラー』くらいの大ヒットをするんじゃないかって思ってた。」顎鬚をいじって笑いながらパディは言う。「80年代ってそういう時代だっただろ?」

パディはイングランド北東部にずっととどまり続けて自分のやりたいようにしたいと主張をしているにもかかわらず、今もできるだけ多くのオーディエンスに届けようという漠然とした意思を持ちながら音楽を作っている。「こんなこと言うと鼻持ちならない奴って思われるかもしれないけど」ハスキーで陽気なダーラム地方特有の言葉でパディは話す。「僕らはたくさんのレコードを売った。マドンナやダイヤーストレイツほどじゃないにせよ100万枚以上売った。でも自分を喜ばせるよりも先にリスナーのことを考えるつもりはなかった。つむじ曲がりの人間だって自負があったから、自分がやりたい音楽を作るのにオーディエンスはいらないとさえ思ってた。"The Laters"( 元スクイーズのキーボーディスト、ジュールズ・ホランドが司会を務める英国BBCの人気音楽番組)にも興味はなかった。ジュールズ・ホランドはいい人だけど自分が出る番組じゃない。マネージャーは“君はもっと多くの人達に音楽を届けて、もっとたくさんのレコードを売れるはずだ”って言うけど正直言ってまったく興味はないんだ」

パディはホテルの宿泊客たちの注意を引くほどの大きな声で笑う。「貧乏につながるとても過激な道のりだよね。でもこれが僕の考え方なんだ。自分を満足させるものができなくなったら引退するつもりさ」

プリファブ・スプラウトのニューアルバム『Crimson/Red』からの素晴らしいリードシングル"The Best Jewel Thief in the World"の歌詞の一節に“伝説が生まれるのを見よ”とある。タイトルどおり窃盗犯についての歌だが、ある意味で伝説的な世捨て人と言われている自分を大いに楽しんでいるパディを見るような心を引き付ける一節である。

最近のパディはどこから見ても風変わりな世捨て人である。白いリネンのスーツとシャツに身を包み、銀色の頭髪とマッチした優雅に垂れ下がった顎鬚を持つパディは精巧で洗練された80年代のポップスを作り出した人物というよりロッキー・エリクソン(60年代半ばに活動していたサイケバンド13th フロア・エレベーターズのギター、ボーカリスト)に似ている。しかしパディの心の中ではプリファブ・スプラウトはいつだって70年代のバンドそのものだった。『スゥーン』は一部の批評家達から美しい旋律を持ったポストカードレーベル(オレンジジュース、アズテックカメラがレコードを出したインディレーベル)への先祖返りだと見なされていた。チェスのグランドマスターや困難な時を記した曲が入ったこのアルバムはジョージ・ガーシュインの華麗さとスティーヴン・ソンドハイムの複雑な音楽性を持っていたが、パディと弟でベーシストのマーティンはキャプテン・ビーフハート・マジックバンドのようにぎこちなく不恰好に演奏した。

「スプラウト・マスク・レプリカって二人で言ってたよ」(キャプテン・ビーフハートの代表作『トラウト・マスク・レプリカ』とかけている)若さゆえの驚嘆すべき無謀さだったとパディはまた笑う。「『スゥーン』は変わったレコードだった。どうしてそんなことをしたかって?その理由を厳密に言うと1枚だけしかレコードを作れないとしたら、普通とは違うレコードにしたかったからなんだ。当時は普通でないことをすることにおいては自信たっぷりだったからね。まあ、やりすぎたかもしれないけど。」

プリファブ・スプラウトはスミスと同じように見られていたが、パディは70年代初期に回帰したバンドにしようという考えを持っていた。70年代初期、パディはシド・バレット、デビッド・ボウイ、Tレックスに夢中になって、仲間達と一緒に両親の経営するガソリンスタンドで大きな音を出して彼らの演奏していた。パディは言う。「80年代に活躍していたバンドについて悪く言うつもりはない。でも自分の中での理想的なプリファブ・スプラウト像というのはまさに1975年に活躍してたバンドの生まれ変わりなんだ」

プリファブ・スプラウトの熱狂的信者の間ではパディが住んでいるコンセットの家にある未完成のアルバムの貴重なコレクション『Earth: the Story So Far』、『Zorro the Fox』、『Zero Attention Span』は有名である。しかしコレクターにとっての聖杯は初期のレコーディング音源だ。パディは最近タッパーいっぱいに詰め込まれた1/4インチ・テープを見つけた。そしてその時に1976年にブライアン・イーノに宛てた手紙も見つけた。

「ブライアン・イーノがレーベルを立ち上げようとしているって記事を読んだんだ」パディは思い出す。「そしてオブスキュア・レコードから断りの返事をもらった。イーノ本人からだった。“親愛なるパディ、君のテープを聴いたけど僕が捜し求めている音楽ではなかった。でもありがとう。今はとても忙しくて返事が遅くなって申し訳なかった”後でわかったけどその時イーノはデビッド・ボウイと『Low』を作ってた。だから忙しかったのは当然だよね。」2001年にパディは『ガンマン・アンド・アザー・ストーリーズ』でトニー・ヴィスコンティをプロデューサーに迎えた。「だからプリファブ・スプラウトが70年代のバンドだって言うのは冗談ではないんだよ」

『スティーブ・マックイーン』ではパディが1977年から78年の間に書かれた曲も収録されていたが、モダンで奥行きのある音の雰囲気とパディのポスト・フェミニスト的なソングライティング−"アペタイト"のような曲では古臭くていやらしい性差別に訴えかけることなく愛と性欲について書いている−もあって、新しい世代の音楽と見なされた。そして"When Love Breaks Down"、"Cars and Girls"、"The King of Rock'n Roll"のヒットでプリファブ・スプラウトは商業的成功も収めることになった。

「ローマの空港に入国しようとした時、男達にボディチェックをされると思ったらサインを求められたことを覚えてる。“女の子はみんなパディ・マクアルーンの髪型が好き”って小見出しのついた"トップ・オブ・ポップス(イギリスの音楽番組)の再放送の新聞記事を見たけど番組は見逃した。自分が幽霊のようにそこいらじゅうに動き回っていたように思う。いつも何かを考えていて、自分の置かれた状況に興奮することはなかった。成功に酔うことにとても不安だったんだ」

実際、パディはアバ、エルビスそして死についての2枚組みアルバムの『ヨルダン:ザ・カムバック』を出した後すぐに7年間姿を消した。そして90年代は更に1枚だけアルバムをリリースした。1997年の『アンドロメダハイツ』だ。

『ガンマン・アンド・アザー・ストーリーズ』の後でソロ作品『I Trawl the Megahertz』をレコーディング。それは22分ある映画音楽のようなストリングスと女性のナレーション風の朗読−49歳の離婚した男によるラジオの聴取者参加番組で話された悲痛な話−から成るタイトルトラックを含む作品だった。パディの魂から作られた作品はほとんど無視された。

「あのレコードは僕にとっては重要な作品だった」パディはため息をつく。「ガーディアン紙がレビューさえしてくれなかったことにとてもがっかりしたよ。今でも憶えてるけど、あの時は毎週待ち続けてたんだ。“さあ来い。今のアーチストが昔あったようなレコードを作っていないと考えているなら、個人的視点を持った普通でない何かを探しているなら、自分こそ君達の探し求めている人間だ!”って。でも来なかったよね」

パディは1992年に作ったデモテープを2009年に『レッツ・チェンジ・ザ・ワールド・ウィズ・ミュージック』として再レコーディングしてリリースした(この作品は本紙もレビューを掲載した)。そして今、同じようにして『クリムゾン/レッド』をリリース。この作品には1997年から2012年の間に作られ、貯蔵室に眠っていた音源を新たにレコーディングした曲が収録されている。プリファブ・スプラウトとクレジットされているが、パディはギター、ベース、ドラム、キーボードといったすべての楽器を演奏しており、エンジニアとしてカラム・マルコムだけが編集と仕上げに関わった。極めて自己批判的なパディでさえこのアルバムには満足している。

「できるだけ人間らしくうまくいくように何でもしたいっていうのは聖杯探求のようなものさ」パディはそう言ってダーラムの太陽の日差しが射す日なたに向かう。ここに住む人達は白いスーツを着た顎鬚を生やした変わった男には近寄らないのか、あるいはこの男のことをロサンジェルスのファンタスティック・ハイパーリアリティー・ワールドから来た男だと思っているのだろうか。

「『スティーブ・マックイーン』が出たのは28歳の時だった。今はその倍の年齢になった」パディは一呼吸おいて最後に笑った。「僕は28年ごとにいい作品を作るんだよ」

伝説が生まれるのを見てみよう。


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