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セルボーニアン西谷退三の虚像と実像


はじめに


 これまで伝えられて来た西谷退三像は、親友でもあり翻訳の事実上の出版者でもあった森下雨村氏が書いたものと、元青山文庫分館長の土居光明氏の『西谷退三考』に基づいたものだと思われます。ところが森下雨村氏が西谷退三の訳本の「あとがき」に書いたものやその後に朝日新聞に書いたものにはかなりの脚色があるようです。ずっと後に書かれた土居光明氏の『西谷退三考』はご自身の調査に加え、高知大学教授であった八波直則氏が『県民クラブ』に連載した「西谷退三翁書簡抄」が主な出典のようです。ともかく乏しい資料でこれだけの伝記を書き上げられたことに感銘を受けます。多くのことを学ばせていただきました。しかしながら、森下雨村氏の書かれたものによる思いこみが強く、それを敷衍しているに過ぎないものになっているところが随所に見られるのが残念なところです。
 自分自身のことはほとんど書き残していない西谷退三のことですから、私が目にすることができた資料もほとんどは前記の三人が残してくれたものに過ぎません。しかし、それらに目を通しているうちに私には違った西谷退三像が見えてきました。
以下、ゴシック体は引用文です。漢字は現在使われているものに直しましたが、仮名づかい・送り仮名などは原文のままです。

作られた西谷退三像

 まえがきにもあるとおり、本稿は故人が札幌農学校予修科在学(*一九〇五―六年)当時からこれが翻訳を思い立ち、爾来外遊や戦争のため中断の時はありましたが、約五十年、その生涯をおわる直前までかかって、竟に完成を見たもので、まさしく故人がその生涯を傾倒したライフ・ワークであります。(森下雨村 西谷退三訳『セルボーンの博物誌』「あとがき」)*八坂書房版では(一九〇五―七年)となっています。

「数十年前、偶然この『博物誌』を手にしてスッカリ魅了せられ、自ら力を量らずその翻訳を試みました。大東亜戦争から戦後にかけて、その旧稿を筐底(きょうてい)に探って 浄書したのがこれであります」とはしがきで断ってある。数十年前といえば、おそらく札幌農大を中退して家業をついだ明治末年のころであろう。間もなく家業をたたんで外遊、帰来、郷里高知県佐川町に隠せいして足一歩も県外に出でず、昭和三十二年六月、七十三歳の生涯を閉じた。(森下雨村月二日)
 昨年十月、わたしが朝日新聞へ書いた西谷退三の追憶を読んだといって、大宮市在住小久保清治氏(日大教授、理博)から、
――自分も西谷さんと同じ頃、札幌農大にいて、三好学先生の「セルボーンの博物誌」についての講演をきゝ、大変、感動した」一人で、西谷さん生涯を捧げて博物誌を訳されたときゝ、懐しい限りである、云々。
来書が、浜口直さん宛にあった。そこでわたしから改めて手紙を出すと、折返し
「あの新聞を拝見して、西谷さんも小生といっしょに、三好先生の講演をきゝ、小生と同様熱心なセルボニアンになったに違いない。懐かしいこともあるもの哉。西谷さんと小生は雲をへだてた二羽の雁である。縁なくして五十年遂に相逢わず、森下大人のはからぬ御紹介で、西谷さんをはじめて冥界に知るとは、これ如何なる奇縁であるか。
 ただ小生は七十三才で、少々後輩でありますが、小生は当時の専門学生で、恐らく西谷さんが二三年の頃、小生は一二年であったと思います。三好先生講演の日、興奮した二人の学友と丸善に走り、一冊を購い求めたことを覚えております。(中略)小生はいまでもセルボニアンで、大学の一年生にはホワイトとウォルトンを話し、ダンスやビールの外に、自然に親しみ、自然の愛と恵みに感謝すべきことを教え、訓育につとめております。(後略)」
往時の感激をそのまゝ、西谷退三思慕の情にあふれた返事をもらった。
 わたしが小久保さんに問いあわせたのは、西谷退三と「博物誌」との因縁をたゞしたかったからであった。かれが「博物誌」のはしがきに「訳者は数十年前、偶然この書を手にして、スッカリ魅了せられ、自ら力を量らず、その翻訳を試みました」と言っていることの次第が、ほゞ、これでつきとめられたわけであるが、郷土の誇りである牧野先生とともに、日本植物学界の草分けである三好博士が、かれとギルバート・ホワイトを結んだ月下氷人であったとは、ちょっと意外な話である。
 それはさて、かれは札幌農大中退の肚をきめると同時に「博物誌」翻訳の決意を固めて郷里へ引き上げたであろう。それが明治四十二年のころか。ついで一年半の軍隊生活が待っていた。軍服を脱いで帰郷。それからわたしとの交際がはじまる。(森下雨村「西谷退三の追憶」『県民クラブ』)


 予修科二年での退学は、最初からの約束であった。現北海道大学に照会したところ、明治三十九年十二月三十一日現在、予修科二年に在籍しているが、以後は不明で、予修科修了者名簿に彼の名はない。せめて予修科修了までは在学してよかったのだが、それも中途で止めたのは何故だろう。
ともあれ、在学中に日本植物学会の草分けである三好学博士から、「セルボーンの博物誌」の講義を聴いて魅せられてしまったのである。(土居光明『西谷退三考』日米学院出版部)
 以上のごとく、西谷退三、すなわち竹村源兵衛が『セルボーンの博物誌』を知ったのは札幌農学校時代で、それも植物学の泰斗であった三好学博士からということになっています。しかし、この当時、三好学博士は東京帝国大学教授であり札幌農学校で教えていたとは考えられません。三好学の詳細な伝記『評伝 三好学―日本近代植物学の開拓者』(酒井敏雄・八坂書房)にあたってみても札幌にいた形跡はありません。小久保清治氏が伝えたように招請されて「講演」したことはありえることですが、問題はこの時に竹村源兵衛もこの講演を聴いたかどうかということです。
 竹村源兵衛は一八八五(明治十八)年七月生まれ、小久保清治氏は一八八九(明治二十二)年十一月生まれです。四才の差があります。もっとも竹村源兵衛は中学卒業後二年の空白があるので、学年としては二年の差だということになります。同じ時に同じ学校に在籍していた可能性がないとは言えませんが、もう一つの問題は小久保氏が「専門学生」であったということです。一九〇七(明治四十)年六月に札幌農学校は東北帝国大学農科大学となります。「専門」とはその時に設けられた付属の「専門部」ではないかと考えられます。小久保氏はまだ大学本科入学前であり竹村源兵衛と同じ状況であったことになりますが、農学校が農科大学になった時には源兵衛はこの学校に既にいなかったはずです。土居光明氏は「せめて予修科修了までは在学してよかったのだが、それも中途で止めたのは何故だろう」と疑問を呈しています。親との葛藤もあったでしょうが、成績優秀な学生ではなかった竹村は学校でやる学問が好きだったようには思われません。薬学よりは自然が好きな少年だったのが札幌農学校を選んだ理由でもあるでしょうが、学問や権威に惹かれていたわけではないので農学校が大学になることを知って、そこにいる気がなくなってしまったのではないでしょうか。
そもそも西谷退三の「はしがき」には森下氏が伝えたようなことは書かれていません。それは「凡例」の中です。ともあれ、小久保氏のように三好博士の講演に感銘を受けて「丸善に走り、一冊を購い求めた」ようなら、「偶然」とは書かないはずです。いくら謙虚な人物であったとしても、これは書かれたそのままに読みとるべきではないかと思います。少なくても原書を手にしたのはずっと後だったと考えても間違いはないでしょう。

『セルボーンの博物誌』との出会いとセルボーン訪問

 では「偶然『博物誌』を手にし」たのはいつだったのでしょうか。残念ながらそれを明らかにしたものは見つかっていません。しかし、ロンドンにいる時にセルボーンを訪ねていることは確かなので、それ以前に原書のいずれかの版を手にしていたことでしょう。
 西谷文庫にはアメリカのエマソンやソロー、ホイットマンなど自然崇拝思想の作家の本が多数含まれています。彼が旅の目的地の第一に選んだのがアメリカであることは滞米経験のある叔父の影響も大きかったことでしょうが、若き日の読書によって敬愛するアメリカの作家に対する憧れが大きくなっていたのではないでしょうか。アメリカのケンブリッジ滞在中に叔父に出した手紙には、ソローが小屋を建てて住んだウォルデン訪問のことが詳しく説明されていて多数の写真も送ったことが書かれています。

 今日はおぢ様にはあまり興味もござりますまいが、私がコンコドという村で撮りました写真を二十枚ばかり同封しておめにかけます。簡単に一枚一枚説明を書きました。帳面のお暇、御退屈の時の暇つぶしにしてご覧下さいませ。おこがましうござりますが、写真説明の便宜のため、コンコド村の事ザット左に申上げておきます。………この村から世界的の文学者が少なくとも三人出ました。エマソン、ホーソン、トロオの三人でおしもおされもせぬ第一流のパリパリの人です。 右のトロオという人は、よくアメリカの仙人といはれます。世の中の風俗習慣は一切無視して自分の思ふ通りに世の中を渡ったといふ一風変わった人です。
 この人は米国が奴隷制度を廃しないのは人道に反する。その人道に反することをする米国政府には納税の義務はないと云って税金を納めないため牢屋に入れられました。友人エマソンが心配して牢屋に尋ね、お前がこんな所に来ているのは誠に残念に堪へん』と申しますと、彼は『お前がこんな所へ来ないのがおれは又残念に堪へん』と話したといふことです。(叔父への手紙 大正十二年十二月五日)


 「トロオ」とはソローのことです。エマソンはソローの友人とはいえ、実際は師のような人でしたからこんな返答をするはずはありません。しかし土佐の「いごっそう」なら大喜びする話です。まだ長々と説明が続きますが、それほどに三人の中でも「一生無妻の人」でもあったソローには特に惹かれるところがあったようです。源兵衛の憧れはホワイトよりもソローだったのではないでしょうか。ソローの『森の生活』は既に翻訳も出ておりホワイトのこと以上に熟知していたはずです。一方、ホワイトの『セルボーンの博物誌』が日本で初めて紹介されたのは源兵衛の帰国後のことです。それは一九二八(昭和三)年、竹友藻風が岩波書店の『思想』に寄稿したものです。翻訳などはもちろんまだありませんでした。(以下省略)

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