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苦渋の決断

 「苦渋の決断」という言葉はかつての社会党の眉毛の首相・村山富市氏があの時を回顧した言葉として有名になった。しかし、これほど無責任な「苦渋の決断」はなかったと思う。自衛隊を合憲と認め、日の丸・君が代を国旗・国歌と認める変節は、戦後ずっと革新勢力の中心であった社会党を潰してしまい、良心派を自認する人々の拠り所を無くさせてしまうことにもなったのである。平和憲法の外堀さえも埋めてしまった。

思えばもう40年ほども前であるが、私の父も妻の父も「苦渋の決断」をしなければならない時があった。それは日本中を騒然とさせたあの「勤評闘争」であった。私の父も妻の父も中学校の校長であった。同時に日教組のれっきとした組合員でもあった。当然、教育委員会や地域の保守派の人々からの圧力と日教組やその組合員である部下の教職員からの突き上げの板挟みに会った。それにそれぞれまだ教育途中である子供を抱えているという家庭の事情もあった。

私の家にも父の妹の夫である教育長その他の親類や地域の顔役の人達が尋ねて来た。もちろん勤評提出の説得である。私の父はそれほど革新的だったとは思わないが、いわゆる異骨相の典型であった。母は保守的というわけでもなかったと思うが、専業主婦だったので(聞いたことはないので想像であるが)これから金のかかる子供(=私)の教育のことを訴えたことだと思う。妻の両親は職場結婚をしたおしどり夫婦の教員であったし、岳父は校長だったがその妻は組合の活動家を目されている人であった。

多分この家庭事情がこの二人の校長の「苦渋の決断」を違ったものにしたのだと思う。私の父は結局「全員に5を付けて出した」と言った。それがせめてもの意地であったのだろう。岳父の方は「勤評不提出」を貫いた。その結果として「村八部」となり田舎の自分の家には住めなくなり、高知市の親類を頼り引越さざるをえなかった。「校長降格処分」を受け遠くの中村市にとばされて家族とは離れて暮らさざるをえなくなった。

日教組の委員長が暴行を受けるという「森事件」などもあった勤務評定であったが、法案はついに可決されてしまった。しかし少なくてもその方向を見失わず抵抗した人達(私の父も含めて)の「苦渋の決断」のおかげで、『勤評』そのものは都道府県の多くで実質上は強い影響を持たないものとなった。妻の家庭もやがて村八分が解け、岳父も校長に復帰した。

あの「勤評闘争」のころ、私は高校生であり、その間の事情もかなり理解はできていた。そのせいがあるのかどうか自分でも定かではないが、教員になっても私は父達のように管理職にはなろうと思わなかった。昔は授業をしていた校長・教頭も最近は全く授業がない。教職員組合のお蔭で『勤評』の力を感じることもなかったが、「教えていてこそ教師」だと思っていた。それに校長になったところで自分の意図する教育ができるわけでもない。ところが学校には校務分掌というものがあり、その部長に選ばれると中間管理職的な働きをしなければならない。私がいた最後の学校では「総務部長」が入学式や卒業式の司会をしていた。その入学式・卒業式では数年前に前任の校長の強制で「『君が代』斉唱」が導入されていた。もちろん一騒ぎも二騒ぎもあった。

私は「日の丸」も『君が代』もそのものはそれほど嫌いというわけでもない。『君が代』だって歌おうと思えば歌うことはできる。しかし、日本という国が、あの戦争で、命を奪い、家族を奪い、その他諸々の苦しみに陥れた多くの人々に対して、その贖罪をしていない以上、その象徴であるこの二つのものを素直な気持ちで受け入れることはできない。ましてや起立を強制されて『君が代』を歌うことはできない。

ずっと以前の永年勤続20年の表彰を受ける会場でも君が代が流され周りの人々はみんな立っていた。驚いたことに組合の活動家として知られている人達でさえ、その雰囲気に飲まれたのか立っているのを見た。しかし、私は立つことができなかった。30年の表彰のときには会場に行く気もしなかった。卑怯かもしれないが入学式・卒業式には外の仕事を選んでできる限り出席しないことにしていた。だが、卒業生の担任になったときにはそういうわけには行かなかった。そこで「君が代斉唱の時は式場から私は退席する」と担任の生徒達には簡単なな理由と共に伝えた。彼らにどうせよということは一切言わなかった。ところが私を含めて何人かの教員が退席すると、最後列にいた私の担任の生徒達も半数近くが会場を出てしまったのである。その後、その件について何も言われないと思ったら、壇上にいた校長は後の方は見えないのでずっと後まで知らなかったそうだ。

それからは担任もせず、停年退職を数年後に控えて、職員会議でもやむをないとき以外は発言も控えて部長などには選ばれないように心がけていた。ところがその最後の年に、1年の任期しかないというのに「総務部長」なるものに選ばれてしまった。逃げてはいても選ばれた以上は仕事をすることは厭わない。しかし入学式と卒業式の司会をしなければならない総務部長は最もなりたくなかったものであった。最後の1年を授業だけに専念して過ごさせてもらおうと思っていたのにそうはいかなくなってしまった。「起立。君が代斉唱」などとはどう考えて言えない。自分の過去を否定することにもなるし、式の途中で退場してしまったあの生徒達にも顔向けができなくなる。しかし選ばれた以上は病気にでもならない限り「辞退」はできないのが慣例である。後1年のことだとは言え、私の家にもやはり家庭の事情があった。それにあの両親の子供である妻に相談しても、残念ながら「辞めなさい」とは言ってくれなかった。自分一人で決断するしかなかった。選挙があったのが2月だが、平気を装いながらも苦しんではいた。しかし3月末には腹をくくっていた。

校長室に行き「起立。『君が代』斉唱」を入学式と卒業式の次第からはずすように申し入れた。教育委員会から天下って来た校長としては当然拒否。しかし「その部分は教頭にやらす」という提案があった。前任者どおりやることを強制されたら「この3月末で辞めさせていただきます」と言うつもりであった。ところがやはり親の子。権力には抵抗しきれず、私も妥協してしまった。そして最後の1年を慌しく過ごすことになってしまったが、入学式でも卒業式でもその部分は後に下がって着席していた。ただ、式の参加者は司会者が変わったことにはほとんど気付かなかったと思うので、これは私の自己満足だけで欺瞞以外の何物でもない。しかし、これが私が教員生活最後の年を控えてせざるをえなかった「苦渋の決断」であった。あの村山首相の「苦渋の決断」が停年退職前の平教員にもこんな「苦渋の決断」を迫ることになったのである。眠らせた「勤務評定」が目を覚ましている。牙を剥いて教師達を襲ってくるのも時間の問題だろう。(2001年6月21日)

※私は異骨相ではあっても命をかけて権力に抵抗するほどの勇気はない。だから「ボヤのうちに」といいながら行動してきた。しかし時の流れは「いつか来た道」をたどっているようだ。退職した時から書いておきたいと思っていた「想い」をなかなかまとめられなかったのだが、同僚の変節を嘆く若き友のメールがきっかけでなんとか文章にできた。まだ推敲を要するがとりあえず掲載することにした。時、たまたま沖縄であの戦争で犠牲になった人達の慰霊の日であった。(2001年6月23日)

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