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「日の丸」と「君が代」

(国旗・国歌を強制するということは…)


 
 
「国に国旗があり国歌があって当然」という世間の常識的意見に反論するのはなかなか難しい。「国旗・国歌に多くの人々の血にまみれた歴史があったとしても、そんな国旗・国歌をもった国は世界中にいくらでもある。むしろ国旗・国歌がない国がおかしい。何で日本だけがそんなことにいつまでも拘わって国旗・国歌をないがしろにしなければならないのだ」というのが彼等の論理である。「また戦争につながる」と主張しても「今は時代が違う」と言われる。確かにそうかも知れないが、これは40年ほども前の「教職員に対する勤務評定実施」のときと同じである。

 教育界を未曾有の大混乱に巻き込んだあの「教職員に対する勤務評定」も世間一般の人々に対して反対意義を説得することはなかなか難しかった。普通の会社なら「勤務評定があって当たり前」であり、それによって賃金も格付けされているのだから「世間の常識」からすれば何もおかしなことはないわけだ。「学校の常識は世間の非常識」とよく言われる。教育の現場ではあたり前のことだと思っていても世間で納得してもらうことが難しいことが数々ある。今回の「日の丸・君が代の国旗・国歌法制化」もそうであった。「教え子を再び戦場に送るな」という言葉が日教組に結集していた教職員の合言葉であった。勤評のときにはこの言葉が大いに叫ばれ、教師達は燃えていた。しかし、世間の人々に「勤評が戦争につながる」ことを理解してもらうのはやはり困難であった。愛媛県で始まった勤務評定は結局は全都道府県で実施されることになった。だが実施はされても大阪など教職員組合が力を保っていたところでは実際は一般教員を縛るものにはならなかった。管理職を目指すものには踏絵にはなったであろうが、賃金などに差をつけられるものにはならなかったからである。だが権力者は表に出す機会を今か今かと狙っていることに変わりはない。

 「国旗・国歌の法制化」に対してももちろん反対の教師は沢山いたはずだ。しかし、それは勤評闘争のときのような一つにまとまった力にはならなかった。教職員組合ももう日教組だけではない。かく言う私も日教組とは違う教職員組合に属すことになってしまった。大学生達の組織「全学連」も存在するのかしないのか私には定かではない。
 日の丸と君が代が国旗と国歌になっても、目下のところは入学式・卒業式で式場での掲揚・斉唱が強制されているだけである。しかし「法制化しても強制はしない」はずであったものが、実際にはますます露骨に強制されるようになってきた。従来は入学式・卒業式にそれらが実施されたかどうかは校長が教育委員会に報告するだけであった。それが今は教育委員会の監視役が式に出席している。まるで戦前・戦中の臨検である。

  反対側はよく「法制化もされていないものを」という理論を持ち出した。これは決して彼等を納得させることにはならなかったし、むしろ一刻も早く法制化すべきだと考えさせたのである。「ならば」と先の首相の下に体制側は多数を頼んで一気に法制化してしまった。法律がなくても教育の現場では着々と「日の丸と君が代」の国旗・国歌は強制されていたのである。反対派としては少なくてもこれらを法制化されることは防がねばならなかったはずだ。彼らが国旗・国歌を法制化の俎板に載せることは防がねばならなかった。それを引き出さしてしまったことは真にまずかった。
 今回は教育界を大混乱に陥れることにはならなかった。それは教師達がもはやその勢力を結集する力を持っていないからである。「勤務評定」のときには教職員組合も日教組がほとんど唯一大きな力を持っていたが、今はそんな力はない。全学連もデモすらしなくなっている。教師が政治を語らなくなった結果である。
 
 家康が和議の条件として大阪城の外堀を埋めさせたごとく、平和憲法を守るための外堀ももう埋めれているのだから、抵抗するのもなかなか困難な状況になってきた。外堀を埋めさせた張本人はかの村山首相である。あの時、彼は政権を離れるべきであった。「何が苦渋の選択か」といいたい。それまで革新政党の基本理念であり、社会党の多くの支持者の支持理由でもあったものをあっさり捨ててしまった。社会党が壊滅してしまったということは共産党も孤立してしまうということである。共産党も社会党の支持者を切り崩して勢力を拡大していたのだから、支援のしようもなかったかも知れないが、社会党左派を孤立さすべきではなかった。あそこは身を切ってでも社会党の右傾化を防がねばならなかったのだ。

 戦後すぐ、アメリカが日本を共産主義に対する防波堤と考え始めると共に、保守反動は芽を吹いていた。

  私は戦争が始まる少し前に生まれたが、小学校に入ったときには「ご真影拝礼」などということはもうなかった。教科書を墨塗りする必要もなかった。だいたい教科書が手に入らないこともあったし、あっても新聞紙のような紙を自分で切り開いて本の形にしなければならないものもあった
しかし先生達は活気に満ちていたように思う。職員室などめったに行くことはなかったが、強烈な想い出がある。そのとき先生達は『緑の山河』を歌っていた。多分、職員会議か教職員組合の会合を開こうとしていた時だったのだろう。その頃は教育委員も公選であったし、国政選挙ともなれば先生達はメガホン片手に村中を回っていた。子供心にもこのままで行くとそのうち社会党の時代が来るだろうなどと思ったことを思い出す。

 もちろんこれに対して政権を握る保守党が黙っているはずはなかった。教育委員はやがて任命制になり、教職員の政治活動も禁止された。教師達のメガホン姿はもう見られなくなった。教室でも政治的発言ができなくなってしまった。その後も保守政権は着々と教師達の口を封じる手段を講じてきた。彼等こそが教育がいかに重要であるかを一番よく知っていたからに他ならない。その究極のものが「勤務評定」であった。

(1999年8月13日)

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