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ぼくの親父は1986年5月25日2時52分に他界した。偶然にしても珍しい数字の連続だったので、時間まではっきり覚えている。
親父は説教や叱責をほとんどしなかった。ただいつも口癖のように「人の痛みがわかる人間になれ」と言い、そしてそれを実行した。そんな尊敬すべき親父を持ったことを幸運に思い、親父の生き様を書き残したいという気持ちをずっと持っていた。
今、万感の思いをこめ、思い通りに生きて一生を全うしたひとりの男の物語を、ここに記す。
母との結婚までのこと
長野県の農村に、6人兄弟の末っ子として生まれた。昔のことはよくわからない。結構自分で武勇伝を作っていたから。けれど、親父の幼友達とかの話を聞いていても、腕白でガキ大将だったことは間違いないようで、そのくせ子供時代に鶏を飼って小遣い稼ぎをしたりする如才なさもあったようだ。
村長だった父親は(この人がまたエピソードの塊のような人だった・・・)親父を政治家にしようと思い、東京に進学させた。熱血漢の親父は思想に走り、文学青年気取りで「じっと手を見て」とかいう労働者をテーマにした小説を書いた。そして官憲に追われ(ていると思い込み)、中国へ逃げた。
陸軍に召集され騎兵隊に配属されて、頭がよかったので秘書のようなことをさせられていたが、ある日印鑑をなくし、廊下の端から端まで殴られ続けて、しばらく物が食べられなかった。
横に居た兵士が突然頭を射貫かれて死んだりするのを見た。敵の死体を足で蹴ったら足が腫れ上がり、進軍に遅れて死にかけた、天罰だと思った。兵隊はみな、「おかあちゃん」と言って死んでいく、と言っていた。
退役した後、上海で戦闘機の整備工場で工場長をしていた。「隼」を整備していたという。みんなの前で中国語で挨拶すると、小学生以下の中国語だと言われた。
終戦になり、上海に似た町を捜し、大阪に落ち着いた。転がり込んだ家の2階の隣の部屋に、市内から焼け出されて母親と暮らしていたうら若き娘(未来のぼくのお袋)が居た。
50年前に電気自動車を作りタクシーとして京都で走らせていた
今でこそクリーンエネルギー車ということで電気自動車(燃料電池車、ハイブリッド車も含んで)が注目されているが、終戦当時はガソリンがない、ということで木炭車と共に重宝されていたらしい。3,500台前後のEVが走っていた、と当時の記録にある。
まだ軽自動車の規格すらなく、当時の運輸省の役人とやり取りした書類も残っている。その関係で本田総一郎と話をしたこともあるらしい。

京都には、人力車を自転車で引く「輪タク」が走っていた。それにモーターの補助動力をつけたのが、軽電気自動車「スワン号」だ。日本金属工業株式会社で製作していたが、脱税で倒産した。

京都では最近また輪タク(新聞には銀輪タクシーと報道されていた)が復活した。これを人力ではなく電動で走らせると、50年前の親父の夢がまた蘇ることになる。大いに応援したい。
まだクーラーも普及していない時代にエアコンの開発をしていた
親父はいわゆる町の発明家みたいなこともしていた。裏の土間で、まだクーラーも普及していない時代に、これからはエアコンの時代だ、と言って、試作機を作っていた。パイプにフィンを一枚一枚ハンダ付けしていたように記憶している。当時は冷媒にアンモニアを使っていて、作業中にアンモニアが噴出した。まともに吸えばあぶなかったが、親父はとっさに水道の水を頭からかぶった。アンモニアは水にとけやすいことを、知っていたからだ。
エアコンの特許については、1日違いでどこかの大学教授に先を越された、と言っていた。この辺の真偽は確認していない。
日本最初のガス漏れ警報機試作機は我が家の柱につけられていた
今では一般に知られているガス漏れ警報機であるが、それがまだ世の中にデビューする以前、この素子を発明されたある方から依頼され、ケースや電子回路、ブザー部を作って、試作機として完成させた。家に持ち帰り、部屋の柱に取り付けた。タバコの煙を吹きかけてブザーが鳴るのを、得意げに何度もやってみせた。親父の説明では、可燃性ガスが付着すると抵抗値が下がる半導体だということで、この発明はすごい、言っていた。
結局製品化はされず、素子は別の企業に持ち込まれてヒット商品になった。
にもかかわらず、発明者の方が親父に謝礼を届けられたことに、敬意を表したい。
様々なヒューズを開発・製造し生計を立てていた
結局のところ、ヒューズの開発と製造が親父のライフワークになった。
大電力を使う工場で用いられる筒型ヒューズやモーターヒューズ、低温ヒューズ等だ。

小さい頃から工場に出入りして、親父からいろいろ技術の話を聞いた。特にショートのような急激な大電流を如何にすばやく遮断するかにノウハウがあり、消弧(スパークを消す)の方法として親父は砂を使った。大電流に対しては端子に細い部分を作ってあり、そこが瞬時に蒸発し電流を遮断するが、その金属蒸気がスパーク電流を通してしまうので、砂に吸収させることでそれを防ぐというものだ。砂は密閉されているから、うまくコントロールしないと容器が爆発してしまう。そのノウハウは親父の頭の中にあり、もうこの世にはない。
ただ、ヒューズは再利用が出来ない。時代の流れと共にブレーカーの技術が進歩し、ヒューズ製造は斜陽産業となった。
最後はぼくが工場を引き継ぎ、親父亡き後、親父の会社に引導を渡した。親父はあの世でバカ息子がと、納得してはいないと思うが、ぼくは最善の選択だったと思っている。
親父の最後の仕事は、蛍光灯の安定器用ヒューズで、パーツが2部品という低コスト品だった。結局製造はさせてもらえなかったが(それが廃業を決心させた)、あの時開発したヒュースはその後大手電気メーカーで採用され、月産50万個程度生産されていたはずだ。
ガンとの闘い
親父とガンとの闘いは、一言で言うと「不退転」。
普通、人はある程度弱ってくると、死期を悟るものだろう。しかし、親父の頭に「死」という結末はなかった。
55歳で喉頭ガンになった。最初声枯れで医者にかかった時は、風邪だと言われ、次に行った時は手遅れだと言われた。手術で喉頭を摘出し、突然の聾唖者になった。文字盤を用意し、手術後指で初めて言ったことばが、「お地蔵さんの前掛け」。気管に直接穴をあけたので、そこに網をかぶせ更に首からカーゼをかけて覆うようにしていた。そのことを冗談めかして言った。必死に親父の指を追う家族が、思わず笑い、場がなごんだ。闘う男は、そんな時にさえ周りを気遣っていた。
退院したその日に、自分で車を運転して工場に行った。勿論しゃべれない。しかし、そんなことを気にしている風もなかった。
最初はマイク(息で音が出るリードのようなもの)でしゃべっていたが、すぐに食道発声(空気を飲み込みげっぷでしゃべる方法)を覚えた。ビールを飲んだら調子がいい、とか言って、笑わせた。
それから、再発、手術を繰り返す日々が続いた。抗ガン剤の点滴装置を腰にぶらさげて、プレス機を操作している姿があった。髪が抜け、食事が喉に通らなくても工場には出た。
食道がはれ、ものが飲み込めなくなると、自分でホースを押し込んで食道を広げた。
会えば、夢を語り続けた。
もともと太る体質ではなかったが、ガリガリにやせ、足元が危ないくらいになっても工場に出るというので、ぼくがやるからと、それまで勤めていた会社を辞めて、親父の工場に入った。
最後の入院では、後2ヶ月だと宣告された。工場をたたむよう勧めたが、お前はもう元の会社に戻れ、と言われた。親父は自分の運命を受け入れていない、言わなければよかったと、その事は今も後悔している。
親父は医者に、早く手術してくれないと間に合わなくなる、と迫った。会社の小切手だけは、いつも親父にサインさせた。まだ、社長だから。お袋はずっと病院につめていて、ぼくはお袋の方が心配だった。
そして1986年5月25日2時52分、13年に渡るガンとの闘いを終え、大層安らかに親父は息を引き取った。病院から言われていた緊急事態も起こらず、ベッドの横の椅子で仮眠していたお袋も気がつかなかったという。前日みんなで、親父、今日は妙に機嫌がいいね、と言っていた。もう戦い済んで楽になっていたのかも知れない。
このように、親父は「不退転」の男だった。
老後は温泉の湯花を粉末にして販売することを夢見ていた
最近は珍しくなくなった、温泉の素の入った入浴剤。
親父がずいぶん昔、よく言っていた。温泉の湯花を粉末にして売れば、きっと売れる。材料はただみたいなものだから、儲かる。年を取ったら、それを全国売り歩く。
親父は商売、金儲け、事業が下手だった。お金に執着心がない人間に、金儲けが出来る訳がない。結局アイデアだけは湯水のように出て来たが、それで大金儲けをしたことは一度もなかった。
「人の痛みがわかる」ということ
親父の工場に入ってまず気付いたのは、品質管理の甘さだ。間もなく不良品が返品されて来た。ぼくが検査冶具はと聞くと、普段使っていないと言う。そして、親父は言った、従業員には言うな、これは自分の責任だと。けれど、ぼくはその日からぼく自身で出荷検査を始めた。
本来管理というものは、甘くてよければそれが理想だと思う。そのスタイルを30年以上も貫いて、訴訟になった訳でもない。だからといって、検査をしなくてもいい、不良を現場にフィードバックしないというのは違うと今でも思っているが、親父は本気で「ユートピア」を作ろうとしたのかも知れない。スケールのわからないくらい大きな人だった。
工場の従業員は半数がいわゆる「被差別部落」のおばさんたちだった。親父には、人を差別したり分け隔てする感覚が全くなく、それはぼくにも受け継がれている。
優しさは強さでもある。強い人間は戦う必要がない。親父の会社は大企業の協力工場という立場だったが、むしろ大企業側の人達をかわいがり、そんな親父を慕う人も居た。工場を閉める時は、ぼくはその人達に大いに助けられた。
ぼくが2浪して結局第一志望の大学に入れなかった時、本当は合格したら、と約束していたステレオを、その日の内に買ってきた。
親父の没後、親交のあった関連会社の人から聞いた話だが、接待でキャバレーに行くときも、指名をもらえずいつもあぶれているホステスを敢えて指名していたとか。
ぼくが結婚した時も、ひとりで東京から大阪へ出てきたぼくの妻のことを思い、「俺の目の黒いうちはこの子を泣かせたら承知しない」なんて、格好いいセリフをはいた。
優しさも押し売りはせず、ぼくたちの気持ちを大切にしてくれた。だからこそぼくは自主的に会社を辞めて親父の工場に入った。何も強要しない人だった。人の痛みをわかる人だからこそ出来ることだと思う。
贈る言葉
親父も人間だから、わがままを言うこともあったし、機嫌の悪い時もあった。意見の合わない時は、思いきり言い合いもした。けれど、いつもぼくたちを大きな愛で包み見守ってくれたことは、とても感謝している。
もう他界して17年にもなろうとしているのに、未だに強烈な印象が残っているのは、あまりにも世間の俗物的な人達とは違っていたからだ。
親父の生き方を正しいと思い、自分もそれを見習って生きてきたつもりだが、ぼくの場合は親父ほど淡々と我が道を進めた訳ではない。サラリーマンに戻って、大企業という俗世界に浸ってしまったせいで、その矛盾の中で足掻いている。そこに迷いがあり、悩みもある。
子育てでも、必ずしも平坦には行かず、いろいろ間違いを犯してきたかも知れない。
けれど、世間に迎合し、信じていないことをして俗世的な成功をするより、まっすぐに生きた方が後悔はないだろう。
親父も決して社会的に成功したとは言えないが、思うがままに生き、そして全うした。それはそれだけで偉大なことだ。
親父ほど格好よくはないが、ぼくもそれなりの生き方をしているから、子供達もいずれはわかってくれるだろう。そうやって、親父がぼくに残したものは脈々と子孫に受け継がれて行くだろう。
それが今はあの世で好きな酒でも飲んでいるだろう親父への贈る言葉である。
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