ペンギンドクターの
診察室
ある年の暮れに大晦日近くになって、父は兄と私を連れて神戸の新開地に出かけました。40年前新開地は聚楽館という大きな映画館がある繁華街でした。映画を見せてくれるのではなく、買い物をするために出かけたのです。山側に露店のテント張りがずらっと並んでいました。そこを父と一緒に歩きましたが、何を買ってくれるのか知りませんでした。うろうろ歩き回った末に、ジャンバーを買ってくれました。当時私は自分の服を買ってもらうことは余りありませんでした。靴とか下駄は新しいのが当たりましたが、学生服もズボンも兄のお下がりでした。新しいジャンバーは茶色い色で、大きめでしたが匂いが違っていました。買いたての匂いです。この匂いと一緒に、露店の道の様子や人混みの雰囲気などが今でも目の前に浮かんできます。うれしかったのだと思います。
その父は2年前に出直しました。父は筆まめで終戦後毎年日記を残しています。昭和29年の年末はこんな風に書いていました。「12月30日歳末いよいよ面白し。今日まで心当てにせしこと皆はずれる。頼りは持つべからず。ふしん社支払いの約手も落ちず、先方より1月10日まで待つと電話をもらう。ーーーーN氏お供え、M氏突然帰会お供え。早速これらを持って上級に年末お供えを運び、神饌物の一部を買い、子供のズボンを買う。あと一日、例年のことなれば不安なし。31日昼食の時上級教会より、当方はご守護頂戴し元旦祭の準備も万端整うと電話あり。銭湯に入湯中、母来たりて現金書留の来るを告ぐ。年末年始のお供えなり。迎春準備すべて整い、残金25円也。」
私にジャンバーを買ってくれたのも、こんな状況の中だったのでしょう。父自身が天理教布教師の三男坊で、子供の頃から困窮の生活を続けておりました。たとえばこんな一節がありました。「米減らしの為、夏休みには必ず母の実家へ、春冬休みには叔母の家へ行かされた。母の実家へ行くには鉄道のある島田村まで20キロ歩き、汽車に乗って戸田駅で降り、それより更に6キロ歩いた。交通機関としては馬車があったが、乗せてもらえなかった。母の実家は分教会ですぐ隣が川なので、魚を捕りそれを焼いてためて置いて家に持って帰った。」そして出直す1年前にはふるえるペンで、子供の頃のことを書き残しています。「ゴム靴を履いたのが小学校四年生くらい。父がおぢばの露店で買ってきてくれた。洋服を着たのが高等科一年生くらい。父も布教師で貧乏なりし。毛糸のジャケツを着たのが小学校の終わり頃。姉が兄へ編んだもののお古であった。」
この父の苦労が私には有り難いことでした。父の苦労が私には何よりの誇りです。しかし若い父は貧苦の生活に反発を感じ、突き当たっては砕け、飛び出しては徴兵で呼ばれ、病気で連れ戻される青春でした。結婚して中国に渡り結局戦争に負けて、親子4人真っ裸になって引き揚げてきました。たいていの引揚者が小説のような体験をされていますが、私達の東北中国からの逃避行はまさにドラマでした。終戦後満州で中共軍の飯炊きになり、冬の朝3時頃から厳寒の中でコウリャンを洗ったと語っていました。普通なら一家4人は飢え死にするか、子供だけ中国人にもらわれて残るか、いずれにしても悲惨な結末があったはずでした。父は母と私達兄弟を死にものぐるいで日本に連れて帰ってくれました。
父はこの不思議な私達の生還が、両親つまり私の祖父母の徳のおかげだと事ある毎に語っていました。青春時代の苦労は懐かしい思い出であっても、父には決して祖父母を批判する材料ではありませんでした。布教に一生を捧げた祖父母の真実が、自分が布教師になって心にしみ深く理解できたのだと思います。この父の思いは私にも素直に伝わってきます。もちろん子供ですから父にいつまでも頼りになる姿でいて欲しいと思いました。しかし出直す数年間は一日中テレビの前で座っていました。足が弱って立ち上がるのもやっとでした。私は神殿まで歩いたらもっと元気になるのにと、冷たいことも言いました。もっとしっかりして欲しいと激励する気持ちが強かったのです。少しは父に対する批判の心もありました。父はそうかそうかと聞き流していました。私には父は強い人だという子どもの頃からの思いこみがありました。弱くなって欲しくなかった。それでも老いは間違いなくやってきて、父は徐々に弱っていきました。
父は肩幅の広いシャープな頭の、いい男でした。どんなことでも逃げることはありませんでした。そんな父がすっかり弱って、寝たきりになり高い熱が続くようになった頃、女房が天理から何度も見舞いに行くようになりました。私も久しぶりに見舞いに行き、横に座りましたが何もしてやれません。それでも布団の下に手を入れて、足をさすってあげました。細い細い骨ばかりの足でした。この1週間ばかり後に急に息を引き取りました。残念ながら最後の言葉は聞けませんでした。父を深く敬愛し、出直してからも優しさと懐かしさだけがよみがえる。こんな幸せは決して多くあるものでは無いと思います。私がここにあるのは、本当に父と母のおかげです。信仰を持った両親のおかげであると感謝しております。「続いてこそ道という」と教えていただいております。私は信仰は一つの壮大な実験ではないかと思っています。数百年かかって初めて結果が見えてくる様な実験です。この実験に参加するには、途中を担う者に一種の覚悟が要ります。この覚悟を支えてくれるのが、親の優しさ、子を思う愛、信仰の喜びだと思います。父が母がきっと喜んでくれるぞと思えば、なんとなく勇気がわいてくるでしょう。私も一生を懸けてこの実験に参加しようと思っています。