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Scepter
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Florence Greenberg
1959年・ニューヨークで創設 |
| 50年代中ごろに30代の主婦 Florence Greenberg がニュージャージーで設立した。2人の子供たち、Mary Jane・Stanley Jane はまだ学生で、Florence Greenberg は家計のためにと何か仕事を探していた。Hill and Range(ニューヨーク)という出版社で働いた夫の友人にオフィスに招かれたことがきっかけとなり、彼女はレコードビジネスに入り込んだ。音楽には魅了されたが、ビジネスについてはまったく無知だった。入社当初は事務所の階下にあるレストランにたびたび出入りし、そこを訪れる社員たちと親しくし、作曲ビジネスを熱心に吸収した。一方、Passaic High School では4人組のガールグループが活動を開始した。Shirley Owens・Beverly Lee・Addie 'Micki' Harris・Doris Coley の結成した The Poquellos であった。自作曲 I met him on a sunday でタレントショーに出演してたことを知った同級生の Mary Jane Greenberg は、自分の母親がレコードビジネスに携わっていることを話し、気が進まなかったメンバーに母親を訪ねるようにすすめた。当時すでに自身の Tiara レーベルを始めていた Florence Greenberg は彼女達を気に入り、さっそく契約を結んだ。The Honeytones と改名したが、この名前はすぐに変えられた。The Shirelles の誕生であった。58年に Tiara から I met him on a sunday (ronde ronde) (Tiara-6112)がリリースされ、地元で大ヒットなった。ヒット後まもなく The Shirelles のレコーディング契約を、大手の Decca レコードに売却したが、Florence Greenberg は彼女達のマネージャーとなった。I met him on a sunday は全米トップ50に達した。しかし Decca は、グループを一発屋として見ており、次のシングルをなかなかリリースしようせず、翌年には契約を打ち切った。Decca との契約で得た4000ドルを元手に、Florence Greenberg は再び自身のレコード会社を始めることに決めた。59年にニューヨークの小さなスペース(1674 Broadway)を借りて Scepter レコードを設立する。Scepter 最初のシングルは Why why why・Ugly duckling(Don Crawford and The Escorts・Scepter -1201)、2枚目が Pretty little girl・To make a long story short(Eddie and The Starlites・Scepter-1202)で、ともにチャートインしている。一方、59年春に The Shirelles をハワード劇場(ワシントン)に出演させた。この時に出演していた The Five Royales の Dedicated to the one I love を気に入ったグループは、公演中ずっと舞台袖に立ちこの曲を覚えた。The Five Royales のこの曲は King レコードからリリースされていたが、ヒットにはなっていなかった。Florence Greenberg は彼女達の歌うこの曲を聞いて、次のシングルにしようとマンハッタンの Beltone Studios でレコーディングを行った。このスタジオは、Florence Greenberg と息子のStanley Jane との共同プロデュースで Doris Coley をレコーディングした思い出のスタジオであった。59年6月に、Scepter-1203としてリリースされ、ビルボード第83位の小さなヒットとなる。さらに2枚のシングルがリリースされたが全く売れなかった。59〜60年にかけての The Shirelles は Scepter に何も起こさなかった。グループにはもっといい作品が必要と考えたした Florence Greenberg は、プロモーションの助手として雇った Wally Roker から紹介された Luther Dixon(The Platters・Perry Como・Pat Boone・The Crests などのヒットを生み出した作曲家・プロデューサー)は、すでに The Shirelles を知っており見込みがあると思っていた。Florence Greenberg は Luther Dixon に対し、A&R・製作を独立して行えること・出版権の一部譲渡を条件に入社を申し出、Scepter 傘下の Mary Jane Music・Vee Ve Music とともに Ludix Music を設立した。Florence Greenberg は会社の運営とプロモーションに全力を注いでいく。Luther Dixon はさっそく The Shirelles のリハーサルにとりかかった。60年に行われたレコーディングセッションの前日 Florence Greenberg は、メンバーに「今晩中」に新しい曲を書くように言い渡した。Shirley Owens と Luther Dixon はそれをタイトルに作曲に取り組み、翌日のセッションでレコーディングされた。Tonight's the night は Scepter-1208としてリリースされ、The Chiffons(Big Deal-6003)・Schwartz Brothers(Laurie)らがカバーし、The Chiffons が第76位・The Shirelles が第39位とヒットが分散してしまう。Florence Greenberg は、Douglas 'Jocko' Henderson・'Murray the K' といったDJに The Shirelles のシングルを持参しオンエアを求めた。彼らとの交友はのちに Scepter のアルバムに反映されることとなる。Scepter の次のシングルは地元のダンスバンドリーダー Joey Dee(Face of an angel・Shimmy baby・Scepter-1210)だった。彼は Scepter でアルバムをレコーディングし数枚のシングルがあったが、62年に Peppermint Twist がツイストリバイバルブームで注目され、Scepter を去り Roulette へ移籍する。60年秋に Scepter のオフィスをブロードウエイに移転する頃には、The Shirelles はニューヨークでもよく知られるようになっていた。彼女達に曲を提供するために Scepter にはソングライターが集まり始めた。Carole King と彼女の夫 Gerry Goffin を雇い入れたばかりの Don Kirshner(著明な出版人)は、The Shirelles にとひとつの歌を持ってきた。Tomorrow というタイトルの曲で、これが Scepter-1211としてリリースされた。DJコピー盤としてプレスされたのちに Will you love me tomorrow と改題されたこの曲は、Scepter・The Shirelles にとって最初のナンバーワンヒットとなり、イギリスでも第4位となるほど世界的なヒット作となる。のちの63年には The Beatles がこのシングルのB面に収録された Boys をカバーする。The Shirelles がヒットを出す中、61年早くに子会社レーベル Wand を設立する。Florence Greenberg はつねにレーベルを「王」のイメージ(Tiara は女性用の宝石冠、Scepter は王が持つ笏、Wand は官職を示す職杖を意味する)で命名していた。ヘビーなR&Bを扱っていたが、同じスタッフ・オフィス・A&Rを共有した2つのレーベルはサウンド的にも区別できなくなっていく。Chuck Jackson は南カリフォルニアで The Raspberry Singers というゴスペルグループのシンガーで、57年には The Dell-Vikings でR&Rに転向していた。Jackie Wilson に出会いソロシンガーとして自分のショーに参加するすることをすすめられ、59年にグループを去ったいた。Jackie Wilson のアポロ劇場でのショウを見た Luther Dixon は、Columbia・Brunswick(Jackie Wilson が在籍した)・RCA らと Chuck Jackson の争奪戦を繰り広げた。彼らの会社は小さかったが、それでも The Shirelles をヒットさせ、Chuck Jackson のためにも同じ事ができると信じて説得にかかった。まだ交渉中であったが、Luther Dixon は Chuck Jackson をアパートに連れて行き、二人で I don't want to cry を書きあげた。まもなく彼は Scepter に加入し、Wand の最初の契約アーティストとなった。I don't want to cry(Wand-106)はR&Bチャート第5位となった。この頃、The Shirelles の Dedicated to the one I love が再発され、プロモートの甲斐あってポップチャート第3位、次のシングル Mama said も第3位となった。Scepter・Wand は順調に売り上げを伸していったが、Florence Greenberg は他の少女グループとの契約は考えなかった。61年に、元 The Flamingos のボーカリスト Tommy Hunt と契約し、Human(Luther Dixon 作・Scepter-1219)をリリースしR&Bチャート第5位にランクインさせた。Tommy Hunt は62年に The door is open(Scepter-1226・第92位)、63年に I am a witness(Scepter-1261第71位)がチャートインしている。The Shirelles の62年に Baby it's you が第8位にチャートインし、続いてリリースしたアルバム Soldier Boy が第1位となった。続いて62年春にはシングルの Soldier boy(Scepter-1228)が第1位となったのち、Scepter から The Soldier Boys(I'm your soldier boy・Scepter-1230)・Valli(Hurry home to me (soldier boy)・Scepter-1233)という関連モノのシングルをリリースしたが、大衆はニセものには興味を示さなかった。続いて Welcome home baby(Scepter-1234)がトップ25にランクインする。このシングルを含んだアルバムではテキサスのサックス奏者 Curtis Ousley が参加している。彼は King Curtis として知られ、Scepter で数年間にわたり数多くのセッションに参加している。59年に The Isley Brothers は Shout が大ヒットしたが、RCA レコードは彼らをうまくプロモートできずにいた。62年までに、彼らはすでに7つの色々なレーベルからのリリースを試みていたが、ヒットに恵まれずにいた。ツイストブームの中、Wand と契約し、ついに Twist and shout でビッグヒットを勝ち取った。続く Twistin' with Linda もちょっとしたヒットとなったが、間もなく United Artists、そして Motown へ移籍した。レーベル移籍に嫌気がさし、69年にニュージャージーで T-Neck という自身のレーベルを始め、70年代にスパースターとなった。62年遅くには Scepter・Wand は、The Shirelles・Chuck Jackson らと成長を続けたが、他のレーベルは活発な動きを見せていなかった。そういった時に Dionne Warwick を発見する。Burt Bacharach(バンドリーダー・作曲家)は徐々に成功を収めはじめ、Scepter と共に働いていた。彼が Florence Greenberg に聞かせた自作曲のデモレコードは Dionne Warwick が歌っていた。これがきっかけとなり Scepter と彼女は契約する。70年代初めに Don't make me over(Hal David 作詞・Burt Bacharach 作曲)は、トップ30にランクインし、以降 Dionne Warwick が歌った David・Bacharach 作品のうち31曲をトップ40以上のランクインという驚くべき成果を残した。なかでも最大のヒットは I say a little prayer(Scepter-12203)で、68年に第4位、B面の (Theme from) the Valley of the dolls(Andre Previn・Dory Previn 作)が第2位となっている。Luther Dixon は Scepter・Wand のヒット作の多くの共作者となりレコード業界の注目を集めた。そんななか Capitol レコードが彼に対し、彼自身のレーベル Ludix レコード設立を持ちかけた。毎回ヒット作を出すという容赦ないプレッシャーを感じていた彼は、63年にこの申し出を受け入れた。彼がプロデュースした最後の The Shirelles 作品 Foolish little girl(Scepter-1248)はチャート第4位となり(数年後にチャートインするまでの)グループ最後のトップ20入りとなった。Luther Dixon が去ったあとに Ed Townsend(For your love を Capitol からヒットさせたシンガー)をA&Rのトップとして雇った。同63年に、シアトルの弱小レーベル Jerden(Jerry Dennon 設立・シアトル)から The Kingsmen の Louie louie(Jerden-712)を購入し、Wand-143 としてリリースする。メンバーは Jack Ely(リード)・Lynn Easton(ドラム)・Bob Nordby(ベース)・Mike Mitchell(ギター)・Don Gallucci(キーボード)で、オレゴン州ポートランドの若者たちだった。音響を無視したような小さいスタジオでレコーディングされ、のちにガレージサウンドと呼ばれるようになる。このシングルは、もう1つのローカルバンド Paul Revere and The Raiders(Sande-101)もカバーし、すぐに Columbia がマスターを購入し再発(Columbia-42814)した。The Kingsmen のバージョンは全米チャートを上昇した。しかし、この歌の歌詞がダーティだという噂が大学生を中心に広がり始め、インディアナ州では、わいせつであるとして放送禁止となってしまう。しかしまもなくこのシングルは第1位となりしばらくその座を守った。Richard Berry の書いた歌詞に悪意はなかったが、この事実は重要ではなかった。Scepter・Wand にとって最もよく売れたレコードとなった。Chuck Jackson とおなじゴスペルをルーツとしていたのが南カリフォルニアのシンガー Maxine Brown であった。彼女は Nomar(Tony Bruno 設立・ニューヨーク)で All in my mind(Nomar-103・ポップチャート第19位)・Funny(Nomar-106・ポップチャート第25位)という2枚のヒットがあった。Scepter はこの Nomar を買収し、Maxine Brown と契約した。そして彼女は64年に Oh no not my baby(Wand-162・第24位)をリリースし、Wand で最もチャートヒットのロングランを放ったシンガーとなる。また彼女は Chuck Jackson といくつかのデュエットでもチャートインしている。60年代初めの Scepter は、The Shirelles・Dionne Warwick 以外にも多種多様なアーティストが在籍した。フィリピン出身の The Rocky Fellers(Feller 家の父親と4人の息子たちで結成)の Killer Joe(63年春・Scepter-1246・第16位)・Like the big guys do(Scepter-1254・第55位)や、James MacArthur(Danny Williams on Hawaii Five-O に出演したTVスター)の The in-between years(Scepter-1241)・The ten commandments of love(Scepter-1250・第94位)などである。64年、Dionne Warwick が大ヒットするなか、Judy Clay(Dionne Warwick のバッキングに参加していたシンガーの一人)と契約し、数枚のシングルを Wand からリリースした。彼女は60年代にヒットを出せず、のちに Atlantic・Stax でチャートインを果たした。The Shangri-Las が Red Bird から Leader of the pack をヒットさせると、Scepter はグループの旧作 Wishing well・Hate to say I told you so(Scepter-1291)を再発した。65年に、Scepter・Wand の新たなスタジオをオフィスとともに建設(254 W. 54th St.)し、自身のレコーディングスタジオと倉庫を持つこととなった。このスタジオは業界でもトップクラスのものであった。65年初頭、カナダ産のシングルがロサンゼルスでブームを巻き起こしていた。Chad Allen and the Expressions がリメイクした Shakin' all over(Johnny Kidd and The Pirates・60年に英国で大ヒットした)を Guess Who ? という名前でリリースしたシングルで、ブリティッシュロック台頭にあわせて有名な英国グループを思わせるように意図されたものだった。Scepter はこのシングルのアメリカでの販売権を獲得し、The Guess Who's というグループ名でリリース(Scepter-1295・第22位)した。メンバーは、Chad Allen(ボーカル・ギター)・Randy Bachman(ギター)・Jim Kale(ベース)・Garry Peterson(ドラム)・Bob Ashley(キーボード)。その後 Randy Bachman は Phil Spector のもとで数曲をレコーディングするためにニューヨークへ向かっている。スタジオで Stanley Greenberg や Stanley Jane に会っている。Stanley Jane は数年の間に、熟達したアレンジャーとしてスタッフの中心的存在となっていた。Randy Bachman は、彼が盲目だったことを初めて知り驚いたという。Stanley Jane は、Scepter が76年に売却されるまでレーベルに在籍したが、その後は盲人のための社会福祉事業にはいった。66年に The Guess Whos' の次作 Hey-ho what you do to me(Scepter-12108)がヒットしたが、Chad Allen・Bob Ashley はこのヒットの後にグループを去り、Burton Cummings(ピアニスト・リード)が加入している。4人編成となったメンバーは The Guess Who と改名。69年に RCA と契約し These eyes の大ヒット以降、3枚のゴールドディスクと、20枚以上のチャートシングルをリリースすることとなる。66年に Scepter はもう1つのスターを発掘する。地元の小さなレーベルで何枚かのレコードを出した後に、Pavemaker(Huey P. Meaux 設立)で I'm so lonesome I could cry をリリースしたヒューストン(テキサス州)出身の The Triumphs というバンドに B.J. Thomas というシンガーが在籍していた。Steve Tyrell(Scepter のプロモートを担当)は、彼と高校での同級生であった。I'm so lonesome I could cry が地元でヒットしたのを知り、この曲を Scepter-12129 としてリリースする。彼は Dionne Warwick とともに70年代にはレーベルの頼みの綱となった。B.J. Thomas の最大のヒットは Raindrops keep falling on my head で、70年の映画「俺達に明日はない」(Paul Newman・Robert Redford 主演)で主題歌として使われた。アルバムで聞ける最初のバージョンは、レコーディング当日の B.J. Thomas は喉頭炎を起こしており声が所々うわずっている。数週後に再録したバージョンがシングル(Scepter-12265)で聞ける。この歌は70年にアカデミー賞・グラミー賞の両方を獲得した。60年代に Scepter はいくつかの他のレーベルからリリースし、その中には HOB・Courier・Bunky・Bamboo といった部門があった。Bunky は、シカゴのソウルシーンで活躍していたプロデューサー Bill 'Bunky' Sheppard が運営にあたった。彼は Vee-Jay・Constellation で、Gene Chandler・The Sheppards・The Dukays をプロデュースしている。The Esquires はミルゥオーキー出身のグループで、60年代に唯一のヒットを放った。65年に、低価格レーベルとして Pricewise という子会社を設立し、オールディーズマーケットを狙った(Scepter のラベルが使われた)が短期間で活動を終えている。60年代の Scepter に在籍したアーティストは他に、Just a little bit(Scepter-12116・65年・Rosco Gordon のヒットのリメイク)の Roy Head、I'm stepping out of the picture(B面は Afraid of love(Scepter-12112)の The Crests、I know(Scepter-12113)の Maurice Williams and The Zodiacs、Candy and The Kisses、Theola Kilgore(63年のヒットが Serock レーベルから再発されている)、Paul Vance、Rod Bernard、Splash one(Scepter-12202)の The Clique、Len Barry などが在籍した。カントリーシンガーの Ronnie Milsap も Scepter で数枚のシングルをリリースしたが、スターになるのは数年後である。Dionne Warwick と B.J. Thomas によって Wand は維持したが、他にも、Brenton Wood(のちに Gimme little sign・Double Shot-116 をヒットさせる)、Timmy Shaw・Bessie Banks・Don and The Goodtimes・Nella Dodds・Dee Clark(Vee-Jay でのヒット Nobody but you のライブバージョン・Wand-1177 がヒット)・Bobby Bland・Clarence Reid・Al Wilson・Rosco Robinson・L.C. Cooke(Sam Cooke の兄弟)・Freddy Hughes・The Esquires・Jackie Moore・The Joe Jeffrey Group(My pledge of love・Wand-11200)などが在籍した。これだけのアーティストが在籍したにもかかわらず Wand は60年後半にはチャートを征服できなかった。68年に Chuck Jackson は Wand を去り Motown へ移籍する。70年代の Wand には、The Mad Lads・Earl King・The Independents・The Southside Movement・The South Shore Commission・Walter Jackson・The Rivingtons・Ultra High Frequency・The Five Blind Boys of Alabama・General Crook らが在籍した。Wand 最後のシングル(Wand-11295)は Sweet Music の I get lifted で76年春にチャートインした。一方 Scepter は、71年に The Buoys の Timothy(Scepter-12275)が第17位のヒットとなった。70年代の Scepter には、Buddy Greco・Lloyd Price・Reggie Young・Merrilee Rush・Dickie Goodman・Jackie Ross・Tiny Tim・The Genesis・Nolan Chance・The Ambrosia・Gary Lewis・Otis Williams らが在籍した。シカゴ出身の Beverly Bremers は71年から72年にかけて Don't say you don't remember・We're free をトップ40に送り込んだ。Big Wheelie and The Hubcaps も数枚のシングルをリリースしたが、いずれもリメイク作品ばかりである。70年代なかばのディスコブームでは Bimbo Jet・Bonzai・The Armada Orchestra などがヒットを放った。Scepter Citation シリーズは、Scepter・Wand の再発を専門に行うために72年に開始された。様々な色のラベルに黒文字で印刷されいる。76年に Jesse Green の Nice and slow(Scepter-12424)を最後に、Florence Greenberg はビジネスを終えることに決め、会社を Springboard International へ売却した。Springboard International は、Trip・Up Front というレーベルを持ち、低価格の再発アルバムを扱っていた会社である。ScepterWand は The Shirelles・Chuck Jackson・Dionne Warwick・The Isley Brothers・Maxine Brown・B.J. Thomas と Louie louie を送りだしたレーベルとして人々に記憶される。91年に Diana Reid Haig の優れたインタビューとライナーノートを含めたCD枚組のボックスセット The Scepter Records Story(Capricorn-9 42003 2)がリリースされた。 |