Atlantic
Ahmet Ertegun
Herb Abramson
1947年・ニューヨークで創設
Atco・Cotillion を子会社に持ち、Clarion という低予算レーベルがある。Atlantic はR&B・ジャズ・C&W・R&R・ゴスペル・コメディなどのジャンルをレコーディングした。Ahmet Ertegun は1923年にトルコに生まれた。父親はトルコ大使で、彼が11歳の時に米国への就任で一家はアメリカへやってきた。アメリカの音楽に出会い熱中し、兄の Nesuhi Ertegun(1918年生)とともに15,000枚以上のジャズやブルースのSP盤の収集に没頭する。やがて Ahmet Ertegun は哲学を学ぶためにセントジョーンズ大学へ入学し、ワシントンのジョージタウンの大学院に勤めるようになる。この頃に Ertegun 兄弟は、ホールを借りて Lester Young・Sidney Bechet といったジャズミュージシャンのコンサートの企画などを行っている。父親が44年に死去し母親と姉妹はトルコへ戻り兄はカリフォルニアへ向かった。Ahmet Ertegun はワシントンに留まり、レコードビジネスについて学ぶために Waxie Maxie Quality Music Shop(Max Silverman 設立)で働きはじめた。Herb Abramson は1917年に生まれ、ブルックリンの高校に通うジャズ・ブルースのコレクターであった。第二時世界大戦の頃に、彼は Ertegun 兄弟とともにジャズコンサートの企画に協力していた。ニューヨーク大学在学中の44年に、歯科医の勉強をしていた彼は National のパートタイムのプロデューサーとなった。彼のジャズへの造詣が功をなし、Joe Turner・Pete Johnson といったアーティストを送りだした。彼は Billy Eckstine を National と契約させ、Prisoner of love・Cottage for sale や、Dusty Fletcher の Open the door Richard などをヒットさせている。Herb Abramson は2年後の46年5月に National の子会社として Jubilee を設立する。まもなく、Jerry Blaine がパートナーとして Jubilee に参加した。当初はジャズとゴスペルをレコーディングすることが目的で、ゴスペルシンガーの Ernestine Washington の製作にあたっていたが、Jerry Blaine はユダヤ・コメディーレコードの製作を始めヒットさせる。47年9月、彼は Jerry Blaine に買収するように依頼する。一方 Ahmet Ertegun も本格的にレコードビジネスに参入しようと、共同経営者として Herb Abramson を思案していた。彼はニューヨークへ向かい Herb Abramson・Miriam Abramson の夫妻と話し合い、47年10月、夫妻は Turkish Dentist・Dr. Vahdi Sabit 出資のもとで Atlantic レコードを設立、Herb Abramson が社長、Ahmet Ertegun が副社長となった。当初から Atlantic は他の独立レーベルとはあきらかに異なっていた。彼らの出資者は会社に対する圧力を一切行なわなかったために、二人は自分達の思う通りのいい音楽を自由につくり出すことができた。また、彼らは多くの独立レーベルが慣習として行っていたようなアーティストを欺くこともしなかった。二人の正直な行動は会社を成功へ導くだけの評判を得て、多くのアーティストが Atlantic へと集まり、長期の契約にサインすることとなる。Atlantic のやり方は、ビジネスとして最良のミュージシャンを雇うよい見本となった。一般に黒人に対する著作料が2パーセントだった(まったく支払われなかったケースも多い)時代に Atlantic は3〜5パーセントを支払っていた。Atlantic 設立の初期に在籍したアーティストは増えていく一方だった。Stan Kenton Band(Art Pepper・Shelly Manne・Pete Rugolo)・Tiny Grimes・The Delta Rhythm Boys・The Clovers・The Cardinals・Ruth Brown・Stick McGhee・Joe Turner・Erroll Garner・Mal Waldron・Howard McGhee・James Moody・Dizzy Gillespie・Jackie & Roy・Sarah Vaughan・Leadbelly and Sonny Terry・Mabel Mercer・Sylvia Syms・Bobby Short など多彩なジャンルにわたった。これだけの顔ぶれにもかかわらず、Atlantic は Joe Turner と Ruth Brown のR&Bレコードの売り上げが収入の大部分を構成していた。Atlantic は ニューオリンズの Professor Longhair をレコーディングした最初のレーベルでもある。Drinkin' wine spo- dee-o-dee(Stick McGhee・49年2月17日)・Anytime, anyplace, anywhere(Laurie Tate and Joe Morris・50年10月)・Don't you know I love you(The Clovers・51年)・5-10-15 hours(Ruth Brown・52年)など次々とR&Bナンバーワンヒットを放ていった。49年3月には、LPのリリースも始めている。Ahmet Ertegun は、R&Bが成功するチャンスをほとんど持たないのは、未だにSP盤でリリースされていることが原因だと感じていた。そこで Atlantic はR&BのLPを発表しアルバムマーケットへ参入する。彼らの最初の斬新な試みは Walter Benton の This is my beloved で行われた。このアルバムは10インチ盤で、アルバムナンバーは110(マトリックスは TLP-11213・11214)とされた。これは「312-S」で3種類の12インチのSPとしても同時にリリースされた。「312」は、3つの12インチディスクを表し、S は78回転を表している。Atlantic は扱いにくいこのナンバリングシステムをやめ、50年5月から「ALS-」を使用している。Atlantic 最初のLP(51年1月)は Eva LaGallienne・Richard Waring の Romeo And Juliet(ALS-401)である。53年に Herb Abramson は徴兵となり一時経営から離れたが、 Ahmet Ertegun 副社長と、Herb の妻 Miriam(口座を管理保持する副社長)がオフィスを管理した。しかし二人には手に負えない仕事量だったため、Jerry Wexler を入社させた。彼は1917年にニューヨークで生まれ、黒人音楽に興味をもちハーレムのジャズクラブに出入りしていた。41年に徴兵され、兵役中にカンサス大学の通信教育をうけ、退役後にはジャーナリズムを学ぶためにカンサス大学へ進学し、在学中には学校新聞でライターを始めている。やがて学位を得てニューヨークに戻り、ビルボード誌や音楽出版で働いていた。ビルボード誌で書いた記事の中で、彼はブラックミュージックについて言及し、レイスミュージックをリズムアンドブルースと呼び変えることを推進した。このことを知っていた Ahmet Ertegun が彼にプロデューサーとして入社するように持ちかけた。Jerry Wexler は2063.25ドルで Atlantic 株の13パーセントを購入することと、副社長にすることを条件に入社している。彼が与えられた指示は、黒人向けにR&Bを作り出すことであった。同53年、Ahmet Ertegun は Billy Ward and The Dominoes を聞きに Birdland(ナイトクラブ)へでかける。この日の公演に Clyde McPhatter の姿が見当たらなかったので、彼を訪ねて楽屋へいったが、Billy Ward が彼をクビにしたことを知る。理由は規則を守らなかったからであった。店を出た Ahmet Ertegun はハーレムの Clyde McPhatter の部屋を訪ねた。彼は新しいグループの練習をしていることを聞かされ、即座にこのグループと契約した。これが The Drifters である。The Drifters のデビューシングル Money honey(Jesse Stone 作)は53年2月にリリースされ大成功を収め、その後多くのメンバーチェンジをくり返しながらも Atlantic に13年間在籍し、多くのヒットを持った。53〜55年にかけて Atlantic に影響を与える出来事がおこった。それは、ポップシンガーによるR&Bのカバーである。例えば、La Vern Baker の Tweedle dee(R&Bチャート第14位)を Georgia Gibbs がカバー(ポップチャート第2位)したり、The Chords の Sh- boom を The Crew-Cuts がカバーするなどいずれもオリジナルをはるかにしのぐセールスを記録していった。この2枚のレコードから得た経験から、R&Bは黒人・白人をとわず若者にはおおいに支持されると判断した Atlantic は、この音楽を基本においたレコーディングを行うという結論に達し、クロスオーバー・ヒットを狙っていく。 この新しい音楽はやがてR&Rと呼ばれるようになる。54年5月、Big Joe Turner の Shake, rattle and roll をリリースし大ヒットとなり、Bill Haley and His Comets がカバーした。この曲の挑発的な歌詞は白人マーケットのために変えられたが、I'm like a one-eyed cat peeping in a sea food store という部分は、白人の Bill Haley にはそれが何を意味するのか知らなかったためにそのまま歌われている。このカバーはR&R時代の幕開けとなる大ヒットとなる。52年には Ray Charles と契約し Roll with my baby でデビューしたが、当時の彼のスタイルは Charles Brown や Nat King Cole の模倣であった。しかし54年11月に I got a woman をレコーディングする頃にはゴスペルスタイルを取り入れた Ray Charles 独自のスタイルを確立し、大ヒットとなった。これはソウルミュージックの誕生ともなった。55年に Sun レコード(Sam Phillips 設立)が Elvis Presley の契約を売却した時に Atlantic も彼の獲得に名を上げ3万ドルの値を付けたが、4万ドルで RCA Victor が勝利している。同55年、Ahmet Ertegun はまだカリフォルニアに住んでいた兄の Nesuhi Ertegun から、ロサンゼルスの Imperial で働くことを電話で知らされた。すでにジャズ界では名を知られた Nesuhi Ertegun というエキスパートが入社するということは Imperial をさらに強力にし、レーベルカタログを充実させるはずであった。Imperial は Atlantic にとって最も大きい競争相手で、すでに十分なアーティストをかかえていた。Ahmet Ertegun は兄に対し非常に激怒し、また Atlantic へ入社をすすめるためにカリフォルニアを訪れた。Ahmet Ertegun のパートナー達が全株を提供することで、Nesuhi Ertegun は Atlantic に入社することとなった。Nesuhi Ertegun は Atlantic のジャズ部門の担当となり、全アルバムの製作最高責任者となる。この結果、55年頃までにアルバムセールスの勢いは急増していた。ファンはさらに良質のレコードを求め、主だったレコード会社はそれに応えていった。これは多大な投資を必要としたため、独立レーベルはとうていマーケットに参入できなかった。50年代後半からの Atlantic のアルバムを見ると Nesuhi Ertegun の仕事がよくわかる。Atlantic がリリースしたアルバムの品質は、どの大手レーベルや独立レーベルのものよりはるかに素晴しいものであった。ジャケット(重いボール紙の使用・光沢の仕上げ・詳しいライナーノート)や、盤(多くが12でなく14曲収録・盤の厚み)の工夫も十分になされたものであった。また Nesuhi Ertegun は、カリフォルニアで出会った Shorty Rogers・Jimmy Giuffre・Herbie Mann・Les McCann など多くのウエストコーストのジャズアーティストを Atlantic に連れて来た。なかでも Modern Jazz Quartet との契約は Atlantic のジャズ部門を充実させた。彼らは20枚のアルバムをレコーディングすることとなる。Nesuhi Ertegun は入社と同時に、10インチアルバムの100・400番台のシリーズを削除した。すでに12インチがスタンダードとなっていたからである。また初期の Atlantic カタログも、新しい12インチアルバムから削除している。新しいアルバムカタログは 1212 から始まっており、1200番台のシリーズは定価4.98ドル。初期のシリーズはジャズとR&Bが含まれた。56年に新しい8000番台のシリーズを定価3.98ドルで開始する。これにはいくつかの1200番台のシリーズのR&Bの再発が含まれ、1200番台のシリーズはジャズが中心のシリーズとなった。このように Herb Abramson が徴兵で不在だった2年間に Atlantic は前例のないほどの成功を得ていた。55年に彼が退役した時には、Atlantic オフィスは大きく様変わりしていた。Nesuhi Ertegun も Jerry Wexler もすでに Atlantic の全てを動かしていたのである。両者の関係は微妙に変化していくことになる。Herb Abramson は Atco という新しい子会社(Atlantic Company を略した)の設立を決定した。55年11月、Atlantic は Spark(Lester Sill・Jerry Leiber・Mike Stoller 設立)というロサンゼルスのレーベルを買収する。Jerry Leiber・Mike Stoller(ともにソングライター・レコードプロデューサー)という2人の若い白人は、The Robins というボーカルグループとともに Atlantic の新たな資産となった。Nesuhi Ertegun がカリフォルニアに在住していた頃にこの二人と出会っており、社長に紹介したのである。彼らは20代初めに、Kansas city を含む多くのR&B作品を持っていた。The Robins の中の2人のメンバー Carl Gardner・Bobby Nunn は Atlantic 移籍ののち The Coasters を結成し、Leiber・Stoller 作品を次々とリリースし、56〜61年まで在籍した。Young blood・Searchin'・Yakety yak・Charlie Brown・Along came Jones・Poison ivy・Little Egypt など多くのヒット作を Atco に残すこととなる。57年頃にはレコーディングにステレオテープの利用が可能となり、Atlantic ではモノラルが主流だったが、マルチトラックレコーディングを行うために携帯用のステレオレコーダーを導入、ステレオ録音した最初レーベルの一つとなる。Clyde McPhatter の Lover's question・Chuck Willis の What am I living for・LaVern Baker の I cried a tear・Bobby Darin の Splish splish・The Coasters の Yakety yak・Ray Charles の What'd I say などがステレオでレコーディングされたが、リリースはモノラルで行われステレオ版の多くは68年までリリースされなかった。Leiber・Stoller は Atlantic で独立プロデューサーとして活動し、Atlantic 傘下で色々なレーベルからリリースも行ったが、業績の多くは Atlantic からで、The Coasters・LaVern Baker・・Ruth Brown・Clyde McPhatter・Ben E. King・The Drifters らに多くの作品を提供したことである。58年、Leiber・Stoller は The Drifters の There goes my baby でR&Bにストリングスを用いた最初のレコードを製作した。Ahmet Ertegun はこれをあまり好きになれず、Jerry Wexler もこの作品を dogmeat と呼び、約1年間はリリースを認めなかったが、59年4月に発売したとたんナンバーワンのヒットとなり、Atlantic 最大のヒットの1本となった。一方の Herb Abramson は Atco に Bobby Darin を迎えたが、あまり成功しているとはいえない状態だった。自作曲のレコーディングを拒否された Bobby Darin は、Ahmet Ertegun に曲の提供を依頼し、Splish splash をリリースする。この大ヒットで Bobby Darin は Atlantic の最初のポップシンガーとなった。続いて Mack the knife・Beyond the sea のヒットで、10代のアイドルから主流のポップススターへとなった。Herb Abramson の Atco は The Coasters・Bobby Darin をヒットさせたが、Ahmet Ertegun との溝は深まっていった。Atlantic が社長を Herb Abramson から Ahmet Ertegun への交代を決議すると、Herb Abramson はストライキを起こし長期にわたる交渉の結果、58年12月に彼の Atlantic 所有株は30万ドルで買収され、Miriam Bienstock(Abramson 設立)・Dr. Sabit の所有した株も、Ahmet Ertegun・Jerry Wexler・Nesuhi Ertegun(Atlantic 所有者)に売却された。Herb Abramson は Atlantic を去り、Triumph(傘下に Blaze を持った)を設立し、58年と59年に数枚のシングルをリリースしたが、短命に終わった。58年の Going back to my love(Gene Pitney が Billy Bryan という名前でリリース・B面は Cradle of my arms・Blaze-351)などがあった。60年に、Festival を設立し、King が配給した Butterbeans and Susie というコメディアンのアルバムをリリースした。60〜70年代にかけて Herb Abramson は A-1 Recording Studio を所有し、他のレーベルを通してリリースを行っている。Titus Turner・Tommy Tucker・Otis Blackwell・Louisiana Red などをプロデュースした。彼の最大のヒットは63年の Tommy Tucker の Hi- heel sneakers で、Checker にマスターをリースし、R&Bチャート第11位に達した。80年代にカリフォルニアへ移住し、ヒットレコードを求めて細々とレコードビジネスを続けた。彼は50年代後半に Drifters・Clyde McPhatter・Joe Turner・LaVern Baker・Ruth Brown・Ray Charles・Coasters らをヒットさせ、Atlantic をクロスオーバーレコードマーケットで成功させた。R&Bのカバーに満足していなかった若い白人の若者を狂喜させたのは彼の作った Atlantic であったが99年11月9日に82歳で死去した。のちに Wall of Sound と呼ばれるプロデューサー Phil Spector は60〜61年に Atlantic に入社している。彼は Atlantic の配給会社だった Trey(Lester Sill・Lee Hazlewood 設立・カリフォルニア)でレコードを製作していた。Phil Spector はウエストコーストでのレコーディング状況に限界を感じ、Lester Sill に対し Jerry Leiber・Mike Stoller(当時は Spark にいた)への紹介を求めた。60年5月、Phil Spector は Leiber・Stoller のもとで働くためにニューヨークに移った。当初は、The Coasters・Ben E. King・The Drifters らのセッションギタリストとして参加していた。彼のギターソロは On Broadway(The Drifters)で聞くことができる。やがて Leiber・Stoller は Phil Spector に Dunes のシンガー Ray Peterson の Corrine, corrina や Curtis Lee の Pretty little angle eyes のプロデュースを担当させ、両方ともに大ヒットさせてしまった。Atlantic は Phil Spector の仕事の注目し、スタッフプロデューサーとして再契約した。Twist and shout は Phil Spector にとって失敗作となったが、この曲のオリジナルを歌った Top Notes を生み出したのも彼である。Bert Berns(この曲の作者)はこれを聞いた時、Phil Spector はこの歌をぶち壊わしていると激怒し、どのように歌うべかを示すため彼を訪れたという。のちに Bert Berns は The Isley Brothers でこの曲を大ヒットさせている。Phil Spector は Atlantic 在籍中に、Jean DuShon・Billy Storm・LaVern Baker・Ruth Brown をプロデュースしたが、61年に退社し Lester Sill とともに Philles を設立した。60年、Buster Williams(メンフィスのプレス工場のオペレーター)は Jerry Wexler(Atlantic 所有者)に、Satellite(Jim Stewart 設立)という地元の小さなレーベルの Cause I love you(Carla Thomas and Rufus Thomas)の膨大な数のプレスを依頼する。彼はさっそく連絡を取り、5000ドルで Satellite とのマスターリース契約を結んだ。Cause I love you は Atlantic からリリースされ大きなヒットではなかったが、1年後に Carla Thomas は Gee whiz を Satellite からリリースした。この曲に目をつけた Jerry Wexler はすぐに契約で得た権利を行使。Atlantic から全米でリリースを行ないビルボードで第5位というビッグヒットとなったのである。Satellite はまもなく Stax と改名され、Atlantic はこのレーベルと8年間の契約を結ぶ。Stax のレコーディング機材・スタジオ改善を行い、才知に長けた Atlantic のスタジオエンジニア Tom Dowd を担当に就任させ、Stax 作品のリリースを始めた。Jerry Wexler は、作曲から手配までをこなす Stax のハウスバンド(Booker T Jones・Steve Cropper・Al Jackson・Duck Dunn・Wayne Jackson・Andrew Love)の雰囲気に感銘を受け、やがて彼は Atlantic のアーティストたちをメンフィスでレコーディングさせるようになっていく。60年代初頭に、Atlantic から Ray Charles が ABC-Paramount へ、Bobby Darin が Capitol にそれぞれ移籍してしまう。この二人は Atlantic の収益の3分の1を捻出していたために痛手であった。61年秋に、Solomon Burke が予告もなく Jerry Wexler のオフィスに現れる。Jerry Wexler は Solomon Burke のファンでもあり契約を望んだが、彼はすでに Apollo と契約を結んでいた。Atlantic は Solomon Burke の契約が終了するのを待ち、61年9月に Just out of reach をリリースし大ヒットとなる。彼はヒットメーカーとなり68年の Atlantic では最多のヒットを持つこととなる。Atlantic・Atco は、Warner Brothers・Reprise レコードとともに Warner-Seven Arts Corporation の傘の別会社として運営されるはずであった。しかし68年に Stax と Atlantic 間で分裂が起こる。Atlantic の販売のために、1965年に交わされた契約には「Atlantic が売却された場合の Stax レコードの生産・配給は再交渉すること」が明記されたいた。Atlantic が Stax の旧カタログを再発しても、利益は Atlantic にしか流れないことを身に染みて感じていた Stax のオーナーの Jim Stewart は契約の改善を望んだ。Atlantic の弁護士から、65年に交わした契約には「この合意は、配給に関する合意以降から、Atlantic のリリースする Stax マスターの全所有権は Atlantic に与える」という条項を含んでいたことを知らさ、たった1ドルですでに全ての Stax カタログを譲渡していたことに愕然となった。彼にはほとんど交渉する余地もなく、やがて Stax を Gulf+Western に売却した。彼は自叙伝で「Jerry Wexler も Atlantic の弁護士(Paul Marshall)がこの条項を記載していたことに、配給契約の時点ではまったく知らなかった。Jim Stewart がスタジオで作り出したレコードの所有権は彼が持つべきだと話した」と語っている。Jerry Wexler は Jim Stewart の代理人として Warner-Seven Arts と口論を交わしたという。しかし一介の従業員となった身分では、この説得も効果はなかった。69年に David Geffen(Stephen Stills のマネージャー)は Jerry Wexler と会談し、Stephen Stills の新しいアルバムをリリースするように依頼したが、この話は見送られた。これに激怒した David Geffen は、Stephen Stills が新しく結成したグループを Columbia へ売り込むと話した。Jerry Wexler と口論となった翌日、Ahmet Ertegun は Columbia に行く代わりに Atlantic との契約を打診し合意に至った。Atlantic は Crosby Stills and Nash を獲得したのである。やがて David Geffen は Ahmet Ertegun のもとで働きはじめ、Warner・Elektra・Atlantic 統合後に傘下レーベルとして Asylum を設立し、さらに Geffen で成功する。Seven Arts 傘下の Atlantic・Warner-Reprise は69年に Kinney Corporation に売却された。Kinney Corporation は、駐車場・オフィス清掃・レンタカー・雑誌配送・葬儀場などエンターティメントビジネス全般を扱う複合企業であった。Kinney 傘下で、Ahmet Ertegun は Warner Brothers・Atlantic の総合プロデューサーとして就任した。70年に Kinney は Elektra を買収し、WEA(Warner・Elektra・Atlantic)を設立、Columbia・RCA といった大手レーベルと十分に対抗で新会社となり、全米の主な地域での配給を一手に集中させた。Kinney(のちに Warner Communications となる)は、多くの失敗に終わったレコード会社(例えば Gulf+Western・Stax・Dot・Transamerica・Liberty・United Artists など)とは異なり、Ahmet Ertegun(Atlantic)・Jac Holtzman(Elektra)・Mo Ostin や Joe Smith(Warner Brothers)といった経験豊かな者に運営を任せたというのが理由の1つかも知れない。WEA の3つのレコード部門は互いと競争し、次々とセールス記録を塗り替えた。Atlantic は現在 Time-Warner の一部となり、40〜50年代に独立した少数のレコード会社の1つとして事業を続けている。Warner は、Columbia(Sony が所有)RCA(BMG が所有)よりも世界中の音楽マーケットで最も大きいシェアを持っている。96年に Atlantic は縮小されたが、Ahmet Ertegun は現在も在籍している。Ahmet Ertegun は「Rock and Roll Hall of Fame」の設立に尽力した。彼の伝記「Music Man:Ahmet Ertegun, Atlantic Records, and the Triumph of Rock 'n' Roll」が90年に Dorothy Wade・Justine Picardie によって書かれた。Jerry Wexler はすでに退職しフロリダに住んでいる。彼は93年に自叙伝「Rhythm and the Blues」を出版した。Nesuhi Ertegun は Warner Record Records International Division の社長だったが、87年に引退し89年に71歳で死去した。