京都にちょっと詳しくなる案内板 (西京区) |
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地蔵院(西京区) 衣笠山と号する臨済禅宗の寺で、通称、谷の地蔵又は、竹の寺と呼ばれている。この地には、もと歌人の衣笠内大臣藤原家良の山荘があったが、家良の没後、貞治六年(1367)に管領の細川頼之が、宗鏡禅師に深く帰依して、当寺を創建した。宗鏡は恩師夢窓国師を開山に請じて、自らは第二世となった。以後、当寺は、細川家の庇護を受け、次々と伽藍を建立し、境内塔頭三院、末寺二十三寺を数える一大禅刹となったが、応仁の乱により堂舎は悉く焼失してしまった。その後、江戸時代の宝永元年(1704)に、第十四世古霊和尚によって寺観が整えられた。延命安産地蔵菩薩のほか、夢窓国師、宗鏡禅師、細川頼之の木像を安置している。また、方丈前には「十六羅漢の庭」と呼ばれる枯山水庭園があり、本堂前には宗鏡禅師、細川頼之の墓がある。 目次のページへ |
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法輪寺(西京区) 和銅六年(713)行基菩薩の開基と伝え、古義真言宗に属する。もと葛井寺と称したが、弘法大師の高弟道昌僧正が貞観十年(868)堂塔をおこして法輪寺と改め、弘法大師の修行の遺跡として有名な境内の葛井に姿を現した虚空蔵菩薩を自ら彫って本尊としたと伝える。奥州柳井津、伊勢朝熊とともに日本三大虚空蔵といわれ、智福技芸の守護仏として信仰されている。天慶年間(938〜947)に空也上人が参籠し、勧進によって堂塔を修造した。本尊は幼年期から成長期に移ろうとする人生の転換期を守護されるというので、毎年四月十三日に十三歳になる男女が参詣する。これを十三詣りという。本堂は元治元年(1864)兵火にかかって焼失したのを明治になって再建したもので堂内には本尊の傍らに持国天、多聞天立像二体(重要文化財)を安置する。 目次のページへ |
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松尾大社(西京区) 大山咋神と市杵島姫命の二神を祀る。 大宝元年(701)秦忌寸都理が、松尾山大杉谷の磐座の神霊を勧請し、当地に社殿を建立したのが起こりと伝え、平安時代には皇城鎮座の神として、また中世以降は醸造の神として人々の信仰を集めている。 本殿(重要文化財)は「松尾造り」と呼ばれる珍しい建築で、天文十一年(1542)に改築されたものである。宝物としては、等身大の男神坐像二体、女神坐像一体(ともに重要文化財)を有する。 毎年四月に行われる松尾祭には、神輿の船渡御があり、多くの人々で賑わう。 目次のページへ |
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十輪寺(西京区) 小塩山と号する天台宗の寺院である。 寺伝によれば、嘉祥三年(850)染殿皇后(藤原明子)が、安産祈願のため、比叡山の恵亮和尚を開山に請じて創建したものと伝えられている。以後、勅願所として栄えたが、応仁の兵火により堂宇は焼亡してしまった。その後、江戸時代の寛文年間(1661〜73)に、公卿の藤原定好により再建され、さらに藤原常雅により堂宇が整備され、現在に至っている。 鳳賛形をした本堂には、染殿皇后の安産祈願に霊験のあったといわれている本尊の地蔵菩薩(腹帯地蔵)及び花山天皇が西国巡礼に背負ったと伝える十一面観音(禅衣観音)を安置している。なお、当寺には平安時代の六歌仙の一人である在原業平が塩焼をした塩窯の跡や業平の墓と伝える宝篋印塔がある。 また、毎年五月二十八日には業平忌弦法要が営まれる。 目次のページへ |
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善峯寺(西京区) 当寺は天台宗に属し、また西国三十三所第二十番札所として、本尊千手観世音菩薩をまつる。長元二年(1029)恵心僧都の弟子源算の開基で、特に、白河天皇のとき(1073〜1086)、諸堂が建立されたといわれる。また当寺は、観性慈円、証考らの高僧が相次ぎ、その後青蓮院の宮(覚快、道覚、尊道、慈道、尊円、尊証、尊真、尊宝)が入室したので『西山宮』門跡と呼ばれた。往時には僧坊が五十余に及んだが、応仁の乱により大きな被害を受けた。元禄年間(1688〜1704)徳川綱吉の母桂昌院の寄進によって諸堂が復興され現在に至る。広大な境内地は、重要文化財の多宝塔をはじめ、多くの堂塔が立ち並び、池泉や四季の花々で彩られており、特に、眺望がすぐれている。多宝塔の前にある五葉の松は天然記念物で、波に泳ぐ竜のように見えるので、『遊竜の松』と呼ばれる。また、当寺は神経痛、腰痛の祈願所でもある。 目次のページへ |
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大原野神社(西京区) 祭神として奈良の春日大社と同じ建甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売大神の四大明神を祀っている。 当初は桓武天皇の皇后である藤原乙牟漏の意によって藤原氏の氏神として長岡京に勧請されたが、嘉祥三年(850)藤原冬嗣の奏請により神殿が建てられ、京都の守護神としてこの地に祀られたものである。 平安時代の中期には藤原氏の隆盛とともにその氏神として大きな地位を占め、天皇や皇后の崇敬も厚く官祭である大原野祭には勅使が派遣されていた。また、伊勢の斎宮や加茂の斎院にならって当社にも斎女がおかれていた。しかし、応仁の乱後は、社運が次第に衰え、祭儀も途絶えがちになり、社殿は荒廃した。現在の春日造総桧皮葺の本殿は慶安年間(1648〜1652)に再建されたものである。 境内には奈良の猿沢の池を模した『鯉沢の池』や古歌に多く詠まれた『瀬和井の清水』と呼ばれる名水がある 目次のページへ |
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正法寺(西京区) 真言宗東寺派に属する。寺伝によれば、天平勝宝六年(754)鑑真和上とともに唐から来朝した智威大徳のため、ここに大原寺を創建したのが当寺のはじまりである。 慶長年間(1596〜1614)戒律の復興者槙尾西明寺明忍律師の同士徴円律師が当寺を復興し、元禄年間(1688〜1703)将軍綱吉の母桂昌院の帰依を受け代々徳川家の祈願所となった。 寺宝には本尊聖観菩薩(弘仁時代)三面千手観世音菩薩(重要文化財)を徳川氏関係の文書などがある。 境内にある石庭は鳥獣戯画を思わせる趣がある。 目次のページへ |
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大歳神社(西京区) 祭神は大歳神で養老二年二月の創建と云う。延喜式神名帳に記され、山城国鎮座社の内大社に列せられていた。この境内は栢の森と称し社を栢の社と云う。農耕生産の神、ひいては方除け祈雨にも霊験ありと知られ当地の守護神である。相殿に石作神と豊玉姫命を祀ってある。石作神は代々石棺などを造っていた豪族の租神であり、火明命の後裔である。垂仁天皇の后、日葉昨姫命おかくれの時、石棺を献上し、石作大連公の姓も賜った。 大日本史に石作神社今灰方村大歳神社内にありと記され、石作氏衰微後、当社に合祀されたものである。石作神は昭和49年6月愛知県岡崎市に建立の石工団地神社に分霊す。豊玉姫命は海人であり彦火火出見命の后である。例祭は十月二十一日、氏子祭は十月第三日曜に行い、江戸中期より引き続き金剛流家元による奉納舞あり。 目次のページへ |
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大悲閣(西京区) 正しくは、嵐山大悲閣千光寺と号する禅宗の寺である。 当寺は、慶弔19年(1614)角倉了以が二尊院の僧、道空了椿を中興開山に請じて建立した寺院である。了以は、我国民間貿易の創始者として、南方諸国と交易し海外文化の輸入に功績をたてた人物で、国内においては、保津川、富士川、天竜川、高瀬川等の大小河川を開鑿し船運の便益に貢献した。晩年は、この地に隠棲し、開鑿工事に関係した人々の菩提を弔うため、この寺を建てたと言われている。 本堂には、了以の念持仏であった本尊の先手観音像及び法衣姿の木像了以像を安置している。 境内には了以の子、素庵が建立した林羅山の撰文による了以の顕彰碑や夢窓国師の座禅石と伝える大きな石がある。 目次のページへ |