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京都にちょっと詳しくなる案内板
(中京区)



二条陣屋(小川家住宅:中京区)
豊臣秀吉に仕えて伊予今治七万石の城主となった小川土佐守祐忠は、 関ヶ原の合戦に破れて出家し、その長男千橘が、萬屋平右衛門と名乗って、この地で米、両替を商ったが、この建物は、その住宅として1670(寛文10)年頃に創建されたものである。当家屋は、二条城や京都所司代の伺候する諸大名の陣屋として、また奉行所の公事宿としても利用されたもので、ただの住宅ではなく、特殊な構造・設備が施され、防火上の工夫も多い。建築様式は数奇屋造りで、極めて繊細、優美であり、 建築学的価値も非常に高いとされている。1944(昭和41)年、防火建築として、陣屋建築として、数奇屋建築としての三点から、当寺の国宝保存法に基づく国宝に指定され、現在は重要文化財に指定されている。
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壬生寺(中京区)
律宗の大本山で宝幢三昧寺、又は心浄光院と号し、本尊として地蔵菩薩立像(重要文化財)を安置している。寺伝によれば、創建は奈良時代と伝え、正暦二年(991)三井寺の快賢僧都により復興され、小三井寺と呼ばれていた。その後、火災により堂宇を焼失したが、正元元年(1259)平政平により復興され、さらに正安二年(1300)円覚上人が、仏の教えを身振り動作に仕組んだ壬生大仏狂言を創始し大いに栄えた。現在の本堂は、昭和37年に焼失したため昭和42年に再建されたものである。
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誠心院 (中京区)
華獄山東北寺誠心院と号する真言宗泉涌寺派の寺で 通称和泉式部の名で知られている。 寺伝によれば、関白藤原道長が、女の上東門院 (藤原彰子)に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが当時の起こりといわれている。当初御所の東側にあったが、その後一条小川(上京区)に再建され、さらに天正年間(1573〜91)この地に移された。和泉式部は平安時代の代表的な女流歌人で、才色兼備で知られ、代々の勅撰集に収められている和歌は247首に及んでいる。本堂は小御堂と呼ばれ、堂内には本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの像を安置している。境内には、式部の墓と伝える宝篋印塔及び式部の歌碑が建てられている。また傍らの梅の木は、式部が生前愛木した「軒端の梅」に因んで、後に植えられたものである。
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安養寺 (中京区)
浄土宗西山禅林寺に属する寺である。由緒は極めて古く、寛仁二年(1018)恵心僧都が奈良県当麻に建てた蓮台院が当時の起こりで、次いで恵心の妹安養尼が居住して安養寺と改名した。天永年間(1110頃)隆暹が京都に移し、鎌倉時代に入って証仏が大いに寺運をひろめた。天正年間(1580頃)豊臣秀吉によってこの地に移された。本尊は阿弥陀如来立像で、八枚の蓮華を逆さに置いた上に立っているのが特徴で、このころから倒蓮華寺と呼ばれる。伝説によれば、本尊をつくる際、連座がどうしても壊れるので、蓮華を逆さまにしたところ、無事完成した。これは女人は業が深く心の蓮華はさかさまとなっていて、極楽往生できないので、これを救済するため、わざと蓮華を逆さにしたのだといわれる。この本尊にまつわる伝説によって、昔から特に女性の信仰が深い。
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錦天満宮 (中京区)
此の神社も平安時代には洛中にあったが、桃山時代豊臣秀吉の都市計画にかかり、天正年間現在地に移り、以来四百年間、街の中心・人々の心の寄り所となっている。繁華街唯一の鎮守社。霊験あらたか。地元の人々の日参は勿論、全国からの参拝で賑わっている。拝殿には、古い懸額・唐獅子・随身もある。境内には四季の花が咲き、安産塩竃神社、日乃出稲荷神社、白太夫神社、七社もある。また境内には「京の名水」(にしきみず)が地中より湧き出し、街の人々の憩いの場所・オアシスにもなっている。門前西へ寺町京極まで、社有地参道があり、特に寺町の鳥居は両側の民家に突っ込んで有名である。此の神社は、新京極・寺町京極・錦市場の商店街の接点にあり、ここは京都のど真中の中心地。最も近代的・経済的な商店街と最も古い伝統精神文化の神社仏閣が調和共存し、永久に栄える土地柄は、最近「近代日本縮図」と世人の注目する所となってきた。
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本能寺(中京区)
法華宗本門宗派の大本山で応永二十二年(1415)、日隆上人によって創建された。当初は、本応寺と称していたが永亨五年(1433)、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、更に天文十四年(1545)油小路蛸薬師一帯に、広大な寺域を得て大伽藍を復興した。本寺は、天正十年(1582)、織田信長が明智光秀によって襲撃(本能寺の変)され、自刀した所として世に名高いが、その折三十余りの宿坊を構えた大伽藍は、 灰燼に帰した。その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正十七年(1589)現在の地に移転再建したが、江戸時代後期に天明・天治の大火にかかり堂宇は 悉く焼失し、現在の本堂は昭和三年(1928)に再建されたものである。寺宝には。花園天皇宸翰、伝藤原行成筆の書巻等の貴重な逸品を蔵し、境内には、織田信長及びその側近達の供養塔、並びに江戸時代後期の 南画家浦上堂父子の墓などがある。
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六角堂:頂法寺(中京区)
寺号を紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六角宝形造であることから一般に「六角堂」の名で人々に親しまれている。開基は聖徳太子で、四天王建立の用材を求めて太子がこの地を訪れた時、霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。早くから人々の崇敬を受け、弘仁十三年(822)には嵯峨天皇の勅願書となり長徳二年(996)花山法皇の御幸があり、西国三十三ヶ所観音霊場(現十八番の札所)となったと伝える。建仁元年(1201)、親鸞上人が当寺に百か日間参籠して霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。
本堂には、聖徳太子の持仏と伝える本尊如意輪観音像、親鸞像、毘沙門天立像(重文)などを安置する。
また、本堂前の六角形の礎石は臍石といい、古来京都の中心にあたるとされてきた。また、本堂北の本坊は池坊と呼ばれ、室町地代以降、多くのいけ花の名手を輩出したところで、華道発祥の地として有名。現在も池坊華道の拠点となっている。
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空也堂(中京区)
正しくは紫雲山極楽院光勝寺と号し、天台宗の寺で、俗に空也堂という。もと、時宗の寺で三条櫛笥にあったので、櫛笥道場といい、空也上人(903〜972)の創立といわれる。上人は市中に疫病が流行したとき、自ら十一面観音像(六波羅密寺本尊、重要文化財)を刻み、それを車にのせて洛中を曳き廻り、その仏に供した薬湯の茶を病人にあたえて疫病を救ったと伝える。上人の弟子定坐(?)はその遺風を伝えて茶筅を作り世に弘めた。それが当時の「王服茶筅」の起こりである。「空也の踊り念仏」といって世に有名な法会空也忌は毎年十一月十三日ここで行われる。
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三条大橋(中京区)
この橋の架けられた年代については明らかでなく、室町時代前期には、すでにごく簡素な構造をもつ橋として鴨川に架けられていたものと推定されるが、本格的な橋となったのは天正十八年(1590)で、豊臣秀吉の命により奉行増田長盛が大改造を行った。また、擬宝珠は天正と昭和のものが混用されているが、その銘によると、「落陽三条の橋は後代に至るも住還の人を化度とせしむるもの也、盤石の礎は地に入ること五尋、切石柱は六十三本也(以下略)…」とあり、いかに大工事であったことをうかがわせる。かつてはここが東海道五十三次の西の起点にあたり、重要な交通上の要衛であった。以後たびたび流失したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐに修復された。元禄以来、たびたびの改造を経てきたが、昭和二十五年の改造によって今の姿に改められた。現在の橋の長さは七十四メートル、幅十五.五メートル。なお、橋の西詰めは、高札場とされたところで、現在も天正年間の大改造の際に使用された石の柱が残されている。
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御所八幡宮(中京区)
応神天皇、神功皇后、比売神の三神を祭神する。もと御池通り堺町西南角御所八幡町にあったが、太平洋戦争中、御池通りの強制疎開によってこの地に移転した。この八幡社を御所八幡と呼ぶのは、足利尊氏が邸内の守護神として勧請したと伝えられる由緒によってであり、尊氏の法名によって等持寺八幡とも、また高倉八幡とも呼ばれ親しまれてきた。特に安産と幼児の守り神として有名で、三宅八幡とならんだ「むし八幡」と呼ばれて世間の信仰を集めている。
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粟嶋堂(中京区)
当堂は、西山浄土宗に属する宗徳寺の一堂で、堂内に粟嶋明神を祀することから粟嶋堂の名で知られている。寺伝によれば、応永年間(1349〜1428)南慶明神を勧請して上洛する際、当地あたりで急に御神体が重くなったので神意としてここに祀ったのが起こりといわれている。以来、宗徳寺の鎮守社、粟嶋神社として祀られてきたが、明治時代の神仏分離により粟嶋堂と改められた。粟嶋明神は、古来より婦人の守護神とされ、婦人病平癒や安産祈願に後利益があるといわれ、当堂にも婦人の参拝者が絶えない。与謝蕪村も当堂を訪れ、娘の病気回復を祈願した。その時詠んだ句が境内石碑に刻まれている。また、当堂北の庭内にある石灯篭は、応永二十八年(1421)の刻名がある石仏が用いられている。
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高瀬川一之船入(中京区)
川の西方掘割を一之船入という。高瀬川は慶長十六年(1611)頃角倉了以が開いた運河でここを通行する高瀬舟の荷物のあげおろしをする船溜所を舟入といった。角倉氏は保津峡の開発等数々の土木工事に成功しており、京都の中心部に物資を運び入れるためこの川を開いたもので、このあたりを起点として鴨川の水をとり入れ鴨川に平行して十条まで南下し、さらに鴨川を横断して伏見に通じていた。底が平たく舷側の高い高瀬舟が盛時には百数十艘が上下し、大阪などの物資を運び入れた。木屋町筋には「木屋町」という町名の由来となった材木屋をはじめ多くの問屋が立ち並んで賑わい、船入はこの一之船入をはじめ数箇所に設けられた。明治以後高瀬川は舟運の目的を失ったが、両岸の柳を植えた景観は京都情緒の大きな要素となっている。一之船入は江戸時代の交通運輸の貴重な遺跡として史跡に指定されている。
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瑞泉寺(中京区)
茲舟山を号し、浄土宗に属する。豊臣秀吉の甥、豊臣秀次の菩提を弔うために建立された寺である。秀次は、秀吉の養子になり、関白の位を継いでいたが、秀吉の嫡男秀頼が生まれてからは次第に疎んじられ、文禄四年(1595)七月、高野山において自害させられた。次いで八月、秀次の幼児、妻、妾たち39人が当寺の近くの三条河原で死刑に処せられた。遺骸は、その場に埋葬され、塚が築かれ、石塔が建てられていたが、その後鴨川の氾濫などにより次第に荒廃した。慶長十六年(1611)角倉了以が、高瀬川の開削中にこの墓石を発掘し、当地に移し塚を再建して堂宇を建立した。これが当寺の起こりで、僧桂叔を開基として、寺号は、秀次の法号、瑞泉寺殿をとって瑞泉寺と名付けられた。本堂には、本尊阿弥陀如来像を安置し、寺宝としては、秀次及び妻らの辞世の和歌を蔵している。境内には、妻、妾たちの墓及び犠牲者49人の五輪塔がある。
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法雲寺(中京区)
清水山洗心院と号し、もと浄土宗知恩院派に属していたが、今は単立寺院である。この地は関白太政大臣藤原兼家が、その邸宅二條第を正暦元年(990)寺に改めて創立した法興院の旧地である。その後しばしば大火にあって平安末期以来伽藍は廃絶していたが、旧第の池水のあとと思われる清泉のみが残っていた。永禄十年(1567)源蓮社清善上人がこの泉のほとりに草庵をむすび、元和元年(1615)に清久上人がこのあとに堂宇を建立したのが当寺の起こりと伝えている。本堂は文化十五年(1818)に再建されたもので本尊阿弥陀如来像を安置している。清泉の跡は本堂の西北角いまなお旧跡をとどめている。庫裡の東に「菊野大明神」が祀られている。良縁は結び、悪縁は切るという縁切り祈願の神として民間信仰の得意な存在である。
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革堂(中京区)
霊鹿山行願時と号する天台宗の寺院で、西国三十三ヶ所観音霊場の第十九番の札所である。寛弘元年(1004)行円上人によって、一条小川(上京区)に創建され、上人が常に皮の衣をまとい、人々から皮聖とも呼ばれていたころから、当寺も革堂と呼ばれるようになったといわれている。以後、人々からの厚い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の災火により寺地を転々とし、宝永五年(1768)大火の後、この地に移された。現在の本堂は、文化十二年(1815)に建てられたもので、堂内には行円上人作と伝える本尊千手観音像を安置している。境内には、都七福神巡りの一つになっている寿老人神堂をはじめ、愛染堂、鎮宅霊符神堂、加茂明神塔などがある。また、宝物館には、若い女性の幽霊が描かれている幽霊絵馬が展示されている。
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八木家住宅(中京区)
八木家は、壬生村きっての旧家で、かつて壬生郷士の長老をつとめていた。また、幕末には新選組の近藤勇、土方歳三らの屯所となり、旧壬生屯所として知られている。
建物は、長屋門が東に開き、その奥に主席が南面して建つ。当家に残る普請願から長屋門は文化元年(1804)、主屋は文化六年の造営と知られる。主屋は、西端に土間を置くまで通し、土間に沿って浴室を三室づつ二列に配する。その北に仏間、奥座敷を一列に並べて格式ある構成をとっている。長屋門の外観は、腰に下見板を張り、与力窓や出格子窓を開くなど、昔のおもかげをよく残している。
壬生地区は今日市街化が著しいが、かつては洛中に近接した農村であり、当家は幕末期の農家の遺構として、また、新選組ゆかりの建築として貴重であり、昭和58年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。
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新撰組発祥の地(中京区)
ここは、幕末の頃、京都の浪士取締りや治安維持に活躍した新撰組の宿所があったところである。
文久三年(1863)春、将軍家茂の上洛警護のため、清川八郎率いる浪士組が入洛したが、その宿所の一つとして使われたのが、当時壬生郷の郷士宅であった当屋敷であった。浪士組は、在京二十日余りで再び江戸に戻ったが、当所に分宿していた、芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三らは、引き続き京都の警護のために残留し、京都守護職松平容保の支配に属して『新選組』と名のった。
当所、新選組は、当屋敷に『新選組宿所』の標札を掲げ、隊員はわずか十数名で発足したが、次第に隊員が増加し、付近の農家にも分宿した。以後、市中の治安維持に努め、元治元年(1864)の池田屋事件で一躍その名を響かせた。翌年の慶応元年(1865)4月、屯所は西本願寺に移された。
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梛神社:元祇園社(中京区)
素戔鳴尊を主神とし、宇賀魂命、伊弉冉命、誉田別尊などを配祀する。貞観十一年(876)京都に疫病が流行したとき、牛頭天皇(素戔鳴尊)の神霊を播磨国広峰から勧請して鎮疫祭を行ったが、このときその神輿を梛の林中に置いて祀ったことがこの神社の始まりであるという。後に神霊を八坂(今の八坂神社)に遷祀したとき、当地の住人は花を飾った風流傘を立て、鉾を振り、音楽を奏して神輿を八坂に送った。これがのちの祇園会の起源といわれる。また当社は八坂神社の古址にあたるので、元祇園社と呼ばれる。維新の頃は田圃の中の一小祠であったが、明治七年(1874)と昭和四年(1929)の復興を経て現在に至った。
境内の隼神社は延喜の制度の大社で、大正七年(1918)蛸薬師坊城からこの地に移祀された。梛神社とともに厄除け、疫病払いの神である。
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三条東殿遺址:さんじょうひがしどのいし(中京区)
現在の三条烏丸交差点の東北に位置する方四十丈(約120m)の地は、古の三條東殿の遺址にあたっている。
十一世紀の初め、ここには伊豫守藤原済家の邸宅があり、それは子孫の宮内卿藤原家通に傳えられた。崇徳天皇の天冶二年(1125)、白河法皇はこの地を得られ、ここに見事な殿舎を造営し、院の御所とされた。法皇の崩御後鳥羽上皇は、三條東殿をやはり院の御所とされ、后の待賢門院と共に住まれ、それは長承元年(1132)7月の消亡まで続いた。
その後この地は皇子・後白河天皇の院の御所となった。平治元年(1159)12月9日の夜、源義朝は軍勢500余をもって三條東殿を襲撃、法皇をここから連れさって幽閉し、かくして平治の乱が勃発した。その時、武士と火焔にせめたてられた多数の官女が三條東殿の井戸に入って非業の死をとげたという。
このように三條東殿址は、院政時代における政治的、文化的中心地のひとつであり、その点で永く記念されるべき遺跡である。
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土佐稲荷神社・岬神社(中京区)
社殿によれば、貞和四年(1348)鴨川西寄りの中洲の岬に祠を建てて祀られたのが始まりで、その後江戸初期になって、備前島町に建てられた土佐藩京屋敷内に遷座される折、倉稲魂命、石栄神二座を祭神としたため通称土佐稲荷・岬神社とされた。
当屋敷内の人々は勿論、幕末の志士坂本龍馬等もこの祭神をあがめ、近隣周辺の人々からも手厚く尊崇されたので、町衆にも屋敷内の通り抜け参詣を許すなど異例の措置をとったという。
特に、先斗町・木屋町の町衆などからは、近隣の産土神として崇敬されたが、明治維新になり土佐藩京屋敷が売却されるとき、一時、下大阪町に奉還。その後、神社の衰微を憂い、備前島町の近江屋(初代・井口新助)が、元土佐藩用人邸を買い取り、明治二十年遷座したのが現在地である。
大正二年には先斗町・木屋町その他近隣在の信徒が募金を行って大規模な造営を行い、現在の社殿が建立された。
さらに近年におよび先斗町・木屋町など周辺の有力町衆信徒により、崇敬会が設立され、浄財により社殿及び明治十年より伝わる『みこし』も完全に修復し、近隣団結のシンボルとなり、日除け、厄除け、大願成就或いは縁結びの神として地元町衆に信仰されている。
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先斗町(中京区)
この地はもと鴨川の州であったが、寛文十年(1670)に護岸工事のため埋め立て石垣を築き町屋が出来て、これを新河原町通りといった。その後三条一筋南から、四条まで、即ち南北600m、東西50mにわたる地域に人家が建ちならび俗にこれを先斗町と呼ぶようになった。正徳二年(1712)に茶屋、旅籠屋両株と茶立の女子を置くことを許され爾来花柳の街として繁昌、現在に至っている。
先斗町の呼名は、ここの人家すべてが川原の西側にたち、先ばかりに集中したところから先斗町と呼ばれたともいい、??語(PONT)、英語の(POINT)の発音によったともいわれる。京の年中行事『鴨川をどり』は明治五年に創始、今日迄京の春秋をあでやかに色どっている。
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島津製作所創業の地(中京区)
この付近一帯は、わが国近代科学発祥の地の一つにあげられている。
明治の初期ここ『一之舟入』は高瀬舟の終着駅として交通の要衝であり、二条通を隔てて東北に京都舎密局(現ホテルフジタ)および銅駝美術工芸高等学校の地−今でいう工業試験場−が、南には勧業場(現京都ホテル・オークラの地)・栽培試験所(現京都市役所の地)、西には織殿(現日本銀行京都支店の地)と当時最新の西欧文化を取り入れた理化学工芸を中心とする殖産施設が設けられ、近代科学技術の波紋を全国へ広げていった拠点である。
明治八年(1875)島津製作所の創業者初代島津源蔵(天保十年、1839−明治二十七年、1894)はこの地を選んでわが国で初めて理化学機械製造の業を興し、二代目島津源蔵(蓄電池製造法の発明で十大発明家の一人に選ばれる)が、これを継いだ。父子は『科学立国』の情熱を燃やし、理化学機械製造や新技術、新製品の開発を通じてわが国科学技術の発展に尽くした今日の島津製作所の始めである。
碑は昭和十三年初代源蔵生誕100年にあたり島津製作所ゆかりの人たちが先覚者への思慕と事業の発展を祈念してここ創業の地にこれを建てた。
碑文の『源遠流表』は故九鬼隆一男爵の揮毫になる。北側に続く建物は明治初期の島津製作所の事業場で、いまにその面影を残している。
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悲田院の遺祉(中京区)
悲田院は、平安遷都の際、東西二箇所に設けられた施設であって、京中の捨児、孤児、貧窮者、 老残者等を収容した。東の悲田院は、この地、すなわち京極大路(寺町通)の東、姉小路の北に 所在した(南北120m、東西約150m)。院には常時、五百人ほどが収容されていたが、寛仁元年(1017) 七月に鴨川が氾濫した折には三百人の収容者が水に押し流された。
政府や有力な貴族たちは、悲田院の維持、経営に励んだ。しかし鎌倉時代の末葉にはひどく衰退していたので 、永仁元年(1293)頃、僧如導は、これを佛寺となし、上京区の扇町に移徒した。しかしそれも また衰えたので、正保二年(1645)、それは泉涌寺の境内に移され、現在に至っている。平安京の悲田院は 、施薬院(公衆病院)と共に日本人が世界に向かって誇りに足る福祉施設であった。
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目疾地蔵 (中京区)
正しい寺名は仲源寺といい、浄土宗に属する。安貞二年(1228)に鴨川がはん濫したとき、防鴨河使勢多判官為兼が、地蔵菩薩のお告げにより洪水を防ぐことが出来たので、ここに地蔵尊座像を安置し、「雨止地蔵」と名づけたのが起こりと伝えられる。一説には、雨にふられた人がここで雨宿りをしたことから雨止地蔵と呼ばれ、「雨止」が転じて「目疾」になったともいい、眼病の治療にも霊験があるとの信仰から、目疾地蔵と呼ばれるようになった。本尊の地蔵尊像のそばにまつる阿弥陀如来座像は、室町時代の作といわれる「山越阿弥陀像」であり、観音堂に安置する木造の千手観音座像(藤原期作)は、重要文化財に指定されている。
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神泉苑(中京区)
延暦十三年(794)、桓武天皇が平安京の造営に当たり、大内裏の南の沼沢を開いて設けられた苑地で、 常に清泉が湧き出すことから神泉苑と名づけられた。
(以降ほとんど読めません...)
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