京都にちょっと詳しくなる案内板 (長岡京市・向日市) |
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乙訓寺(長岡京市) 真言宗豊山派長谷寺の末寺。洛西観音霊場第六番目札所。本尊、合体大師像。寺伝によれば、推古天皇の勅願によって聖徳太子が開いたとされる。長岡に都があった延暦四年(785)に早良親王(桓武天皇の弟)が幽閉された地として、また、嵯峨天皇の弘仁二年(811)に空海(弘法大師)が別当となった寺院として、歴史の表舞台にも登場し乙訓随一の大寺院として栄えていた。江戸時代の元禄八年(1695)の聖持院隆光が五代将軍綱吉の母桂昌院の援助により再興した。また、重要文化財の毘沙門天像や市指定文化財の十一面観音像等がある。境内には、ぼたんが二千株余りあり「ぼたん寺」としても名高く、洛西屈指の古刹である。 目次のページへ |
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光明寺(長岡京市) 当寺は西山浄土宗の総本山で、寺伝によれば、建久九年(1198)に蓮生法師(熊谷次郎直実)により創建され、法然上人を開山第一世としています。境内は広く、洛西一の伽藍を誇り、主要な建物は山内に点在して廊でつながれています。応仁、元亀、天正の兵火にあい、江戸時代には享保十九年(1734)の火災により焼失し、大半の建物は それ以後の建立です。総門をくぐり、美しい石畳の参道を登ると、正面に壮大な御影堂が、その右奥には阿弥陀堂があります。御影堂は宝暦三年(1753)の再建で、派手な装飾はないが全体的構成の整美性を意匠の主眼としたものです。阿弥陀堂は寛政十一年(1799)の建立で、本堂より少し華やかな造りになっています。御影堂の後方にある御廟は明暦二年(1656)の再建で禅宗様を基調とした華麗な造りです。軒下回りの組物には多くの彫刻が施され、廟内の板壁は飛天や雲、蓮の花などが極彩色で描かれています。その前にある拝殿は山内では最も古い承応二年(1653)の建物です。御影堂の左下には、元文元年(1736)の釈迦堂、勅使門があり、庫裏、講堂へと続きます。天保四年(1833)に建立された講堂は食堂とともに浄土宗寺院でも檀林(仏教の学問所)に関する類例の少ない遺構群であります。 目次のページへ |
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長岡天満宮(長岡京市) 御鎮座地長岡は、菅原道真公が御生前に在原業平らとともに、しばしば遊んで詩歌管弦を楽しまれたゆかりの深いところである。公が大宰府へ左遷された時、この地にお立ち寄りになり「わが魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しまれた縁故によって、公御自作の木像をお祀りしたのが当神社の創立である。爾来皇室の崇敬篤く度々御寄進御造営をうけ、寛永十五年(1638)には八条官智仁親王によって八条が池が築造された。中提両側には樹齢百数十年のきりしまつつじが多数植えられており、その見事さはわが国随一と言われ、花の季節には観光客で賑わう。現在の本殿は、昭和十六年に京都の平安神宮の本殿を移築したものである。 目次のページへ |
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向日神社(向日市) 当社は延喜式名帳に記載された式内社であり、神名式においては山城国乙訓郡向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社を併祭して今日に至っている。 この両者は、同じ向日山に鎮座されたので、向日神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。 当社の創建は、大歳神の御子、御祭神がこの峰に来られ向日山と称されこの地に永く鎮座されて、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより、御歳神を向日神と申し上げることになったのである。 社伝によると創始は養老二年(718年)である。 目次のページへ |
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南真経寺(向日市) 当寺の創建は 寺伝では鎌倉時代末の徳治2年(1307)とされています。 御開山日像上人は宗祖日蓮聖人の帝都に日蓮宗を布教せよとの遺命を受け、鎌倉時代末期に上洛されたが、他宗派の迫害を受けてしばしば京都から追放され、三黜三赦(三度追放されその度に赦される)といい、徳治2年(1307)頃乙訓郡山崎付近にとどまって布教活動を行っていました。当時鶏冠井には真言寺という真言宗の寺院がありましたが、住僧 実賢は日像上人の教化によって日蓮宗に改宗し、寺名も真経寺と改めました。(真言寺の真と、日像上人の幼名経一丸の経をとられた真経寺は、関西における日蓮宗の最初の寺院となり、以後日像上人の布教活動の拠点となりました。現在向日神社の参道前の左に日像上人が石に座して説法された「説法石」が祭られています。 真経寺は、はじめは、一寺でありましたが、江戸時代の承応3年(1656)南北の二つに別れ、北真経寺は壇林(仏教の学問所)、南真経寺は鶏冠井村民の信仰の場となりました。法華経の信仰を現した鶏冠井題目踊りは京都府無形文化財に指定され踊り継がれています。 明治時代の初め頃に整理された台帳には、山門正面にある開山堂が寛永11年(1634)に、本堂が正徳4年(1714)、鐘楼は元禄12年(1699)の建立と記されています。また、『真経寺』の額は本阿弥光悦により、『鶏冠山』(1673)の額は南峯信海により書かれたものです。 寺宝は、御霊宝箱に納められ南北真経寺の間で半年毎に管理されています。この中には、尊性法親王消息翻慴法華経開結共十巻は、国の重要文化財に指定されています。 目次のページへ |
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