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京都にちょっと詳しくなる案内板
(南区)



教王護国寺:東寺(南区)
真言宗の総本山である。延暦十五年(796)平安遷都とともに羅城門の東に創建された。弘仁十四年(822)、空海(弘法大師)に給預され、真言宗の根本道場となった。中世には朝廷、公家、武家の信仰を集め、諸堂の法令がさかんに行われ、その荘園の数も八十数か所に及んだ。また、東寺の「三宝」といわれる頼宝・杲宝・賢宝の学僧を輩出している。弘法大師に対する庶民の信仰は深く、毎月21日の大師の命日(御影供)は「弘法さん」と呼ばれ、数万人の参詣者で賑わっている。東寺の伽藍は文明十八年(1486)土一揆などで大半を焼失したが、古式に則って再建され現在に至っている。京都のシンボルとして有名な五重塔(国宝)は、高さ54.843mでわが国最高の塔である。講堂(重要文化財)内部には創建以来の仏像を含め二十一くの仏が安置されている。大師堂(国宝)は仏師運慶の子康勝が製作した弘法大師像(国宝)を安置している。これらの他に、伝真言院曼茶羅(国宝)や風信帖(国宝)などをはじめとする彫刻・絵画・工芸品・書跡・典籍等、多数の国宝・重要文化財などを所蔵するわが国の仏教美術の宝庫である。
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羅城門跡(南区)
この地は平安京の昔、都の中央を通過する朱雀大路(今の千本通にあたる)と九条通との交差点にあたり、平安京の正面として羅城門が建てられた。門は二層からなり、瓦ぶき、屋上の棟には鴟尾が金色に輝いていた。
正面十丈六尺(約32m)、奥行二丈六尺(約8m)内側、外側とも五段の石段があり、その外側に石橋があった。
嘉承三年(1107)正月、山陰地方に源義親を討伐した平正盛は京中男女の盛大な歓迎の中をこの門から威風堂々と帰還しているが、この門は平安京の正面玄関であるとともの凱旋門でもあったわけである。
しかし、平安時代の中後期、右京の衰え、社会の乱れとともにこの門も次第に荒廃し、盗賊のすみかとなり、数々の奇談を生んだ。
その話に取材した芥川龍之介の小説による映画『羅生門』はこの門の名を世界的に有名としたが、今は礎石もなく、わずかに明治二十八年建立の標石を残すのみである。
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六孫王神社(南区)
六孫王神社は、応和元年(961)に清和源氏の祖、源経基が死去したのち、嫡男満仲経が基邸宅跡に霊廟を建てたことに始まると伝える。中世には衰退したが元禄十四年(1701)に江戸幕府により再興されたのが現在の社殿である。
建物は桁行三間、梁行二間切妻型で平入の...。その前方に建つ桁行五間梁行三間、入母屋造り平入の拝殿が造合で連結された複合社殿である。ただ、権現造とは異なり接合部分の屋根には棟をつくらず、本殿と拝殿の軒がそのまま接している。
唐門は、入母屋造の屋根前後の唐破風をつけた四脚門で両脇に各桁行六間、梁行一間の回廊が接続する。
なお屋根は当初本殿が桧皮葺、拝殿、唐門、回廊は??であった。
当社の本殿は例の少ない切妻造本殿で、拝殿と造合で連結された複合社殿である点に特色がある。また唐門、??も同時期の造営になり、これら一連の社殿は江戸時代??中規模神社の形態を知るうえで貴重であり、昭和六十二年六月二日、京都市指定有形文化財に指定された。
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宇賀神社(南区)
当神社は宇賀之御魂神を主神として併せて天照大神を奉祀しあります。
山城名勝誌に「宇賀塚は九条の南東洞院東??(現在の札の辻)にあり、土人云う判官塚の一町ばかり南なり」と誌されています。
また陶原月輪両槐門図に「昔藤原鎌足公(千二百年余前)がこのあたりを遊漁中に金?を得、後世この辺りに都が遷されて 我が子孫が繁栄(?)することを予知してこの金?を蔵めたのが今の宇賀塚である」と記載されてあるのをみても宇賀塚の由来は 飛鳥時代や近江大津の宮の頃のものであって、京都の数多い神社の中で極めて古いものであります。
鎌足公の没後125年を経て、この予知のとおり都が京都に遷されて藤原一族が長く?関家として??を伝えたことは御神徳の顕れと みることができます。祭神の宇賀之御魂神は五穀の神?産業の神であって繁栄、福徳を招来し給う東九条唯一の産土神として古くから 崇敬を集め、護持?承されて来?したが、現今商売繁盛、家内息災、学徳成就、交通安全、芸能上達などに霊妙神通、霊験あらたか なるものがあると広く信じられています。
なお、例祭は毎年九月十五日に執り行われ境内の大?銀杏の老木は「京都市の巨樹古木」に指定されています。
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