京都にちょっと詳しくなる案内板 (右京区) |
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大覚寺 (旧嵯峨御所:右京区) 嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の総本山である。 当山は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で天皇崩御の後の 貞観18年(876)寺と改められた、大覚寺と名付けられた。 その後、一時荒廃したが、徳治元年(1308)に 後宇多天皇が 入寺し、寺を復興すると共に大覚寺統を 形成した。 以後、持明院統と皇位継承について争い、明徳三年(1392) 当寺で南北両朝の媾和が成立した。 辰殿は、後水尾天皇の中宮東福院の旧殿を移築したものと 伝え、内部は、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅梅図」 などの豪華な絵で飾られている。その外御影堂、霊明殿、 五大堂、安井堂、正寝殿、庫裏などの堂宇が建ち並び、 旧御所の絢爛さを今に伝えている。 目次のページへ |
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清凉寺(嵯峨釈迦堂:右京区) 五台山と号する浄土宗の寺である。もとこの地には源融の山荘棲霞観があったが、これが後に寺となって棲霞寺と称した。永延元年(987)「然上人が、愛宕山を中国の五台山に模して大清凉寺を建立しようとして志半ばで没し、弟子の盛算がその遺志を継いで棲霞寺内の釈迦堂をもって清凉寺としたのが当寺の起こりである。現在の本堂は、元禄十四年(1701)、徳川五代将軍綱吉、その母桂昌院、大阪の豪商泉屋(後の住友)吉佐衛門らの発起により再建されたものである。本堂内には本尊釈迦如来立像(国宝)、および地蔵菩薩立像(重要文化財)を安置する。霊宝館には、阿弥陀三尊像、十大弟子像、四天王立像、文殊菩薩騎獅像、普賢菩薩騎象像、兜跋毘沙門立像(いずれも重要文化財)等が安置されている。このほか、境内には「然上人、源融、嵯峨天皇、檀林皇后の墓などがあり、境外北側の墓地には、遊女夕霧太夫および十萬上人の墓がある。 目次のページへ |
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宝筐院(右京区) 善入山と号する臨済宗の寺である。 当寺は、平安時代に白河天皇の勅願により創建されたと伝え、当初、善入寺と称したが、南北朝地代に夢窓疎石の高弟黙庵が復興し、室町幕府二代将軍足利義詮によって一時観林寺と改名された。以後、足利氏歴代の崇敬を得て栄えたが、室町幕府の衰亡と共に衰微していった。現在の堂宇は、明治時代以降に再興されたもので、本堂には本尊の千手観世音菩薩を安置している。境内には、貞和四年(正平三年、1348)四条畷の合戦で戦死した楠木正行(正成の子)の首塚と伝える五輪石塔及び義詮の墓と伝える宝筐印塔がある。 目次のページへ |
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中院山荘跡(右京区) この地から東のあたりに、鎌倉時代の初め僧蓮生の中院山荘があった。蓮生は、俗名を宇都宮頼綱といい、下野国(現在の栃木県)の豪族で、鎌倉幕府の有力な御家人の一人であった。しかし、政争に巻き込まれるのを避けて出家し、実信房蓮生と名乗った。(このとき郎党六十余人も同様に出家した。)後に出家し、法然上人、次いで善恵上人証空に師事し、この地に山荘を営んだ。蓮生は和歌の名手で、近くに山荘を構えていた藤原定家とも親交があり、彼の娘が定家の子、為家に嫁いでいる。1235(嘉禎元)年五月、定家は蓮生が山荘の障子に貼る色紙の執筆を依頼したのに快く応じ、色紙の一枚一枚に天智天皇以来の名歌人の作を一首ずつ書いた。「小倉百人一首」はこの時の選歌に後世、鳥羽、順徳両天皇の作品を加えるなどの補訂を施して完成したものと言われている。 目次のページへ |
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二尊院(右京区) 小倉山と号し、天台宗山門派(延暦寺)に属する。承和八年(841)慈覚大師が創立した華台寺の旧跡と伝えられるが長く荒れていたのを法然上人の高弟湛空が再興した。本堂に發遣釈迦と来迎弥陀の二尊像(重要文化財)をまつるところから二尊院の名が起こった。境内は楓樹が多く、本尊の後の山は、百人一首の 小倉山峰のもみじ葉心あらば 今一度御幸またなん 忠平 の歌で名高い小倉山で、昔から紅葉の名所として知られている。また大堰川開墾者角倉了以や儒者伊藤仁斎、その子東涯などの墓がある。定家卿が百人一首を選んだ時雨亭は、この小倉山の山腹にあったともいわれる。 目次のページへ |
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落柿舎(右京区) ここは、芭門十哲の一人として名高い向井去来の閑居として知られている。この庭の柿の実が一夜の中にことごとく落ちたことがあり、かねて買約中の商人が驚いて破談にしたことから落柿舎と名付けられたといわれる。芭蕉も三たび当庵をおとずれている。庭には柿の木をよんだ 柿ぬしや木ずゑは近きあらし山 の句を刻んだ碑がある。去来はもと長崎の人で、幼い時京に上り、芭蕉について俳諧を学びその師芭蕉に「落陽に去来ありて鎮西に俳諧奉行なり」と云われた。彼は極めて温厚な人で芭蕉に仕えるさまは、ちょうど親に対するようであったという。その句 何事ぞ花見る人の長刀 というのは最も人に知られている。 目次のページへ |
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常寂光寺(右京区) 日蓮宗の寺院である。慶長元年(1596)本国寺十六世究竟院日モェこの地に隠棲して開設した。寺域が小倉山の中腹を占め、幽雅閑寂で日蓮宗教義にいう常寂光土の観があるところから常寂光寺の寺名がつけられたという。多宝塔(重要文化財)は元和六年(1620)の建立で、並尊閣といい、前面に霊元天皇の勅願を掲げている。本堂は伏見城の建物の一部を当寺二世通明院日韶が移転修造したものといわれる。仁王門はもと本国寺客殿の南門を移転、妙見堂は能勢妙見を文祀し、歌仙祀には藤原定家・家隆・徳川家康の木造を安置する。また、時雨亭は定家山荘がこの付近であるとして建てられたものである。 目次のページへ |
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天竜寺(右京区) 当寺は暦応二年(1339)奈良県吉野の行宮で崩御された南朝の後醍醐天皇の冥福を祈るために足利尊氏が発願し北朝の光嚴天皇の勅許を得て、名僧夢窓国師を開山として創建された寺である。 詳しくは霊亀山天竜資聖禅寺といい、室町地代京都五山第一位に列せられた。この地は始め後嵯峨亀山両上皇の離宮亀山殿であり、後醍醐天皇は幼少より青年期に至るまでここで成長修学された、因縁の場所である。 当寺建立のためには光嚴天皇、足利尊氏は諸国の荘園領地を寄進させたが更に御朱印船、天龍寺船という貿易船を中国に派遣して、そお利益を以って建立の資金とした。それに依り応永年間(1425)には七堂伽藍をはじめ120の支院等があり、4km四方にわたる壮大なものであった。然るに、八回の火災に遭い、その最後は幕末元治元年(1864)蛤御門の変の時薩摩の兵火にかかり、全灰燼に帰した。明治十三年に至って漸く現在の伽藍を復興するに至り、現境に至っている。特別史跡名勝天龍寺庭園曹源池は方丈の西にあり借景に依る池泉回遊式の禅宗庭園としては、開山夢窓国師晩年の作庭として随一を誇るものである。 目次のページへ |
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臨川寺(右京区) 霊亀山と号する臨済宗天龍寺派の寺である。 天龍寺開山、夢疎石(夢窓国師)が1351(正平6)年入寂したところでもあり、その廟所となっている。初め、後嵯峨、亀山両上皇の離宮亀山殿の別殿、川端殿であったが、亀山上皇の皇女昭慶門院(嘉子親王)の御所となり、女院の養子になった世良親王(後醍醐天皇の皇子)はここで北畠親房国師らから教養を受けた。親王の死後、その遺命により、川端殿は元翁本元を開山として、禅寺に改められたが、これが当寺の起こりである。(なお、この後、建武新政寺に本元の法兄である国師が新たに開山となった。)その後火災などにより変遷があり、当初の臨川寺の建物はすべて失われ、現在は開山塔頭である三会院がその名を継いでいる。 本堂(開山堂)は、国師と親王の塔所である。堂内には国師像を安置し、その床下蓮華形自然石の下に国師の遺骸を納め、堂背後東寄りに親王の墓がある。また、客殿内には狩野派の絵師によると見られる障壁画があり、中門には、足利義満筆と伝える三会院の額が掲げられている。なお、1990(平成二)年四月二日、開山堂、客殿、中門の三棟が京都市の有形文化財に指定された。 目次のページへ |
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化野念仏寺(右京区) 華西山東漸院と号する浄土宗の寺である。化野は古来より。鳥辺野、蓮台野とともに葬地として知られ、和歌では「化野の露」として人生の無常をあらわす枕詞に使われている。寺伝によれば当寺は空海が弘仁年間(810〜824)に小倉山寄りを金剛界、曼荼羅山寄りを胎蔵界を見立てて千体の石仏を埋め、中間を流れる川(曼荼羅川)の河原に五智如来の石仏を立て、一宇を建立し、五智如来寺と称したのが始まりといわれている。当初は真言宗であったが鎌倉時代の初期に法然の常念仏道場となり浄土宗に改められ、名も念仏寺と呼ばれるようになった。正徳二年(1712)黒田如水の外孫の寂道が再建したといわれている本堂には、本尊の阿弥陀如来坐像を安置し、境内には西院の河原を現出した多数の石塔石仏が立ち並んでいる。なお、毎年八月二十三日、二十四日の両日には、これら石塔石仏に灯を供える千灯供養が行われ、多くの参詣者で賑わう。 目次のページへ |
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鹿王院(右京区) 鹿王院は、康歴二年(1380)、足利義満が春屋妙葩を開山として創建した宝幢寺の開山搭所に始まります。室町時代に任庵主が作庭した名園がありましたが惜しくも廃絶し、現在客殿の南に広がる庭園は宝暦13年(1763)頃の作庭です。舎利殿を中心に石組がなされており、背後ははるか嵐山が望まれます。天明7年(1787)刊の「捨遺都名所図会」に描かれる庭の鳥瞰図によると、当時からモッコク、モチ、カゴノキなどの樹木が 配植されていたようで、現在これらは古木として風格を備えるに至っています。昭和62年5月1日、京都市指定名勝とされました。 目次のページへ |
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車折神社(右京区) 平安時代末期の学者で、明経博士の清原頼業公(1122〜89)を祀る。社伝によれば、後嵯峨天皇が牛車に乗ってこの社前を通ろうとした時、突然牛が動かなくなり、車の轅が折れたところから、車折神社と呼ばれるようになったといわれている。昔から学問向上、商売繁昌、売掛金回収の御利益があるといわれ、社務所で授与された小石に願いを込め、家に持ち帰り、願いが成就したらお礼の石を一個添えて神前に返納するという慣わしがある。境内には、芸神道の祖神といわれる天宇受売命を祀った芸能神社や当社の宮司でもあった宮岡鉄斎の筆塚などがある。毎年五月の第二日曜日に行われる三船祭は、新緑の嵐山大堰川に、御座船、龍頭船、鷁首船をはじめ、扇流し船など多くの芸能奉納の供奉船を浮かべて、平安時代の優雅な風情を再現するものである。 目次のページへ |
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等持院(右京区) 山号を万円山といい、もと仁和寺の一院であったが南北朝時代の暦応四年(興国二年、1341)足利尊氏が夢窓国師....して中興し、三条高倉の等持寺の別院とした。延文三年(1358)尊氏の歿後この寺に葬り、その法名をとって等持院と名づけた。のち、等持寺を合併して臨済宗天竜寺派に属するようになった。足利氏の菩提所として堂塔伽藍は衣笠山麓に威容を誇ったが、長禄年間(1457〜60)以来しばしば火災にあって荒廃し、現在の建物は江戸・文政年間(1818〜30)の建立である。方丈は、元和二年(1616〜...)建立した妙心寺海福院の方丈を移建したものと伝えられ...(以降ほとんど読めません) 目次のページへ |
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六請神社(右京区) 古来、衣笠山麓に鎮座していたので衣笠御霊とも衣笠岳御霊とも呼ばれ、その山に鎮まる先人の霊を合わせ祀ったのに始まる。おそらくは上古この地に開拓者の代々の霊を祀ったものであろう。昔は開拓の祖神を天照国照神または大国御魂神と呼んだところから、その天照国照がいつしかこの社の祭神天照大神ら六柱を勧請して六請神というようになったのである。足利氏の等持院創立以来はその鎮守社として境内にまつられていた。神仏分離の時から現地に移ったという。衣笠はその名の示すように中世以来埋葬地となっていたところから霊を守る六地蔵の信仰と習合して六の字が社号に加えられ、したがって、祭神数が伊勢、石清水、賀茂、松尾、稲荷、春日の六に限定されたのは民俗学的に興味のある問題である。いずれにしてもこの方面の功労神である。 目次のページへ |
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梅宮大社(右京区) 祭神は酒解神、大若子神、小若子神、酒解子神の四座、式内神で二十二社に列し、もと官弊中社であった。橘諸兄の母懸犬養三千代の創建といわれ、古くは橘氏の氏神であった。酒解神(大山祇神)の御子酒解子神(木花咲耶姫命)は大若子神(瓊瓊杵神)と一夜の契りでやがて小若子神(彦火火出見尊)をお生みになった。そこで姫は歓喜して狭名田の稲をとって天甜酒を造り、これを飲ませたという神話から当社は安産と造酒の神として古くから有名である。現在本殿、拝殿、幣殿、回廊、中門などがあるが、これは元禄十三年(1700)の再建になるものである。境内には、大堰川の水がひかれ、池辺にはかきつばたや花菖蒲が多くあり、西方の梅林も美しい。また、境内の砂は安産の民間信仰があり、「またげ石」は、これを跨げば子供を授かると伝えられる。 目次のページへ |
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野宮神社(右京区) 伊勢の神宮奉仕する内親王が潔斎のために居住された跡で今三つの祠があり、中央に天照大神を祀り、左右に愛宕、松尾の神を祀っている。歴代天皇は未婚の皇女を神宮に奉仕せしめられ、これを斎宮といった。斎宮に立たれる内親王は、まず皇居内の初斎院で一年余り潔斎されてからこの野宮に移り、三年間の潔斎の後はじめて伊勢に向かわれたが、そのときの行列を斎王郡行といった。斎宮は垂仁天皇のとき皇女倭姫命をして奉仕せしめられたのがはじまりで、その後北朝時代(十四世紀後半)以後廃絶した。 野宮は源氏物語にもあらわれ、謡曲、和歌などにうたわれているが、黒木の鳥居や小柴垣は昔のままの遺風を伝えるものである。 目次のページへ |
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滝口寺史跡(右京区) 当初は、もと良鎮上人の開祖にかかる往生院の子院で、三宝寺と称し、浄土宗に属したが、明治維新の際廃絶してしまった。 かつて三宝寺には滝口入道と横笛の悲恋物語が伝えられていたところから、滝口寺と呼ばれていた。近年、有志によって庵室が建てられ、清涼寺内の史跡となって甦った。本堂には、三宝寺遺物である滝口入道と横笛の木像を安置している。 滝口入道は、名を斎藤時頼といい宮中の警衛に当る滝口の武士であったが、建礼門院の雑仕横笛を見染めて恋に陥った。しかし、彼の父は、その恋を許さずそのため時頼は、わずか19歳にして王生院に入り出家したのである。横笛は、これを聞き王生院を訪ねるが、滝口入道は修行の妨げと会わず、そのため、横笛は悲しみのあまり大堰川に身を沈めたとも、奈良、法華寺に出家したともいう。滝口入道は、のち、高野山清浄院に入って高野聖となり、元暦元年(1184)、紀伊勝浦での平維盛入水に立合っている。 目次のページへ |
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祇王寺(往生寺)(右京区) 往生院祇王寺と号する真言宗の寺である。寺伝によれば、この地は、平安時代に法然上人の弟子、念仏房良鎮が往生院を開創し、後に祇王寺と呼ばれるようになったと伝えられている。 平家物語によれば、祇王は、平清盛に仕えた白拍子であったが、仏御前の出現により清盛の心が離れてしまったので、母刀自、妹祇女と共に出家し、当地に移り住んだ。後には、仏御前も加わり念仏三昧の余生を送ったと伝えられている。 現在の本堂は、明治28年(1895)に再建されたもので、堂内には本尊大日如来像をはじめ、平清盛と祇王ら四人の尼僧像を安置している。 境内には、祇王姉妹の墓と伝える宝筐院塔および平清盛の供養塔などがある。 目次のページへ |
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壇林寺門跡(右京区) この寺は平安時代の初め嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(786-850)が創立したのに始まる由緒深い寺である。皇后は容姿美しく婦徳にひいでて学芸を愛された。 橘氏の学校とし(日本最初)設けたのも皇后である。そして深く仏教を信仰し嵯峨の地に壮大な寺院を営んだ。これが壇林寺で官寺となり、塔頭には十二坊をかぞえたといわれる。皇后は、当時来朝した中国の僧義空を先生として、この寺で禅が唱えられた始めである。壇林寺こそは平安初期の仏教と文化の一中心であり、皇后の諱を壇林皇后という。 本堂は山城国一の寺と示すように宝蔵造りで三層楼屋根の長峯に青銅彫刻の瑞鳥があり正面下層の中央部を切って一段上へ屋根を高く石段は九重の段として従法に基く寺格で日本仏教の伝統を十分生かして構成されている。本堂内と宝物館である霊宝館には皇后ゆかりの品をはじめ日本、中国の仏教美術の数々が集められ往時の壇林寺をしのぶよすがとしている。 目次のページへ |
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