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京都にちょっと詳しくなる案内板
(北 区)


今宮神社(北区)
大国主命・事代主命・櫛稲田姫命の三柱をまつる神社で正暦五年(994)に 船岡の上に創立されたといい、疫病の神として信仰が厚い。一条天皇は疫病除のために御霊会を修せられた。本殿は明治二十五年(1829)の再建で、その西にある疫神社は本社が鎮座される以前からあったといい、素盞鳴尊を祀る。今宮の名はこの古い疫神社に対する名称である。なお四月の第二日曜日に当社で行う「安居祭」は開花の頃に行う病しずめの祭事であり、京都の奇祭の一つとして知られている。
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平野神社(北区)
延暦年間(9世紀初頭)平安遷都に伴って大和から遷座した今木神・久度神・ 古開神・比売神の四座を祀る旧官幣大社である。歴朝の崇敬きわめて暑く、祭日には皇太子御参向、親王諸王大臣以下参列する例としていた。本殿(重要文化財)は寛永年間(1624〜1644)の建築で、平野造または比翼春日造と呼ばれ、一間社春日造の四殿を二殿ずつ連絡し、左右両殿の 間に横棟を渡して「合の間」をつくり、正面に向拝をつけ、一見して三間社のように見える独特の形式になっている。境内には桜が多く、珍種に富み、古来「平野の夜桜」の名がある。四月十日に桜花祭を行う。
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鹿苑寺:金閣寺(北区)
北山と号する臨済宗相国寺派の別格本山で、足利義満が1397(応永四)年に 営んだ山荘・北山殿をその死後禅寺に改め、義満の法号をとって鹿苑寺と名付けたものである。金閣(舎利殿)は宝形造りこけら葺きの三層楼閣で、初層は藤原時代の寝殿造り風、第二層は鎌倉時代武家造りの仏間風、第三層は禅宗仏殿風の様式をとり、 二層、三層とも漆塗りの上に金箔を押してある。1950(昭和26)年に焼失し、1955(昭和30)年に再建され、さらに1987(昭和62)年に金箔張替修理が行われた。壮大な池泉回遊式庭園は、特別名勝に指定され、池の北方には、萩の違い棚と南天床柱で名高い茶室・夕佳亭がある。
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大徳寺(北区)
龍宝山と号し、臨済宗大徳寺派の大本山である。大燈国師宗峰妙超が鎌倉末期の正和四年(1315)開創し、朝廷の深い信仰を受けて寺運は栄えた。室町時代には、幕府の保護を辞退して在野の立場をつらぬいた。応仁の乱で建物は焼失したが、四十八世住持一休宗純が堺の商人の保護を受けて復興し、ついで豊臣秀吉や諸大名も建物や寺領を寄付し、搭頭(子院)を創建して、江戸時代初期に現在の建物はほとんど整えられ、寺運は大いに栄えた。現在、三門・仏殿・法堂・経蔵(以上いずれも重要文化財)方丈(国宝)など、禅宗の主要建物はすべて保存され、禅宗の典型的な伽藍配置を示している。唐門(国宝)は聚楽第の遺構と伝えられ、豪華な彫刻に飾られた桃山時代の代表的建物。また、方丈は禅宗方丈建築の典型で、室内は狩野探幽の襖絵(重要文化財)で飾られている。方丈庭園も江戸初期の枯山水庭園として有名である。その他、書画、古文書の寺宝も多く、諸搭頭とともに禅宗文化の宝庫となっている。
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芳春院:大徳寺(北区)
当院は慶長十三年(1608)加賀の前田利家の夫人芳春院が、玉室宗珀を開祖として建立した大徳寺の搭頭で、前田家の菩提寺である。建物はその後火災にあい、現在の本堂は明治初年に建てられたものである。本堂背後には、飽雲池を前にした二重の樓閣呑湖閣があり、金閣、銀閣と同様な樓閣山水庭園として名高い。天湖閣は、元和三年(1617)前田利家の子利長が、小堀遠州に依頼して建てたものと伝えられる。池の上にかかる打月橋には、開祖玉室の筆による「打月」の二字の額をかけている。池中にはかきつばたやすいれんが多く、花時はみごとである。庭園はたびたび改造はされているが、なお創建時の面影を伝えている。墓地には、芳春院の霊屋、かの東寺百合文書の整理を行った前田綱紀の霊屋をはじめ前田家代々の墓がある。
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大仙院:大徳寺(北区)
本院は、大徳寺北派の本庵である。永正六年(1509)に六角近江守政頼がその子古岳宗亘を開祖として創立した。本堂は、入母屋造・銅板葺で、我国最古の方丈建築遺構といわれ国宝である。書院も入母屋・銅板葺で重要文化財である。
庭園は、室町時代の枯山水を代表する石庭といわれ、狭い庭に無数の岩石を配して、山と滝と渓流とを表しており、史跡・特別名勝に指定されている。
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興臨院:大徳寺(北区)
寺院は大徳寺搭頭で、大永年間(1521〜1528)能登の畠山義総が小渓紹怤(仏智大通禅師)を開祖として建立したといわれ、自らの法名を寺号とした。当院の方丈・唐門・表門そして所蔵の椿尾長鳥模様堆朱盆は重要文化財である。方丈は創建後に火災にあったが、天文二年(1533)に再建されたらしく、さらに畠山氏衰微ののち、天正年間(1573〜1592)前田利家によって修復なども行われた。方丈玄関の唐門は室町時代の禅宗様式を見事にあらわしており、表門も創建当初のもので「興臨院の古門」として有名である。一方、バイタラ樹の名木がある枯山水の庭や茶席「涵虚亭」もおもむき深い。なお墓地には畠山家歴代の墓や久我大納言の墓など、当院ゆかりの人々の墓も多くある。
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三玄院:大徳寺(北区)
天正七年(1589)朝の幸長、石田三成、森忠政(蘭丸の弟)が、春屋宗園(大宝円鑑国師)を開祖として創建した。小堀遠州、古田織部、薮内剣仲、長谷川等伯などは、春屋に禅を学んだ人々である。沢庵、千宗旦らも修行をし、春屋、三成、忠政、剣仲、織部の墓がまつられている。織部好みの三畳台目、八窓の茶室篁庵(江戸時代建築)があり、本堂ふすま絵の八方にらみの虎は原在中の筆による。
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聚光院:大徳寺(北区)
臨済宗大徳寺派に属する。永禄九年(1566)三好義継が父長慶の菩提をとむらうため、大徳寺百七世笑嶺宗訴を講じて建立した寺で、名は長慶の法名に由来する。 千利休が檀家となって以来茶道三千家の菩提所となり、毎月二十八日茶の供養が行われる。方丈は狩野永徳筆花鳥図十六面をはじめ、桃山時代の代表的障壁画四十二面で飾られ、いずれも国宝、重要文化財に指定されている。方丈南の枯山水庭園は利休の作庭と伝えられ、桃山時代の遺風をよくとどめている。方丈につづいて茶席閑隠席、枡床席(ともに重要文化財)があり、また三好長慶ゆかりのものとしては笑嶺の賛がある画像(重要文化財)墓石などがある。
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真珠庵:大徳寺(北区)
永享年間(1429〜41)一休禅師(宗純)を開祖として創建されたが、応仁の乱で焼失し、延徳三年(1491)堺の豪商尾和宗臨によって再興された。方丈は、寛永十五年(1638)の建立で、内部の水墨画山水図、花鳥図は室町時代の曽我蛇足の作と伝え、また、障壁画商山四皓図、蜆子猪頭図は桃山時代の長谷川等伯の作品といわれている。書院の通僊院は、寛政十五年に正親町天皇の女御の化粧殿を移築したものといわれ、庭には金森宗好みの茶室、庭玉軒がある。庭園(史跡・名勝)には方丈の東庭・南庭及び通僊院庭園があり、東庭は室町時代の作と伝え、石組の配列から『七五三の庭』と呼ばれている。寺宝には、国宝の大灯国師墨蹟をはじめ、紙本著色苦行釈迦像、紙本墨画達磨像など多数の貴重な文化財を蔵している。また、境内には茶道の祖、村田殊光の墓がある。
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建勲神社(北区)
織田信長を祀る神社で、通称「けんくんじんじゃ」とも呼ばれる。天下を統一した信長の偉勲を称え、明治二年(1869)明治天皇により創建された。同八年(1875)別格官幣社に列せられ、社地を船岡山東麓に定め、次いで現在の山頂に遷座した。船岡山は、平安京正中線の北延長上に位置し、平安京の玄武の擬され、造営の基準点にされた所で、本能寺の変(1582)の後、豊臣秀吉が正親天皇の勅許を受け、主君である信長の廟所と定めている。信長着用の紺糸威胴丸、桶狭間の合戦の際の義元左文字の太刀、太田牛一自筆本の「信長公記」などの重要文化財のほか、信長ゆかりの宝物を多数有する。十月十九日の船岡祭は祭神、織田信長が永禄十一年(1568)初めて入洛した日を記念したものである。
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大田神社(北区)
古くは恩多社と呼ばれたこともあり、上賀茂神社の攝社である。祭神は天鈿女命と猿田彦命を祀っており、延喜式内の古社で、この付近の沼沢池を開墾して栄えた賀茂氏の崇敬を受けた神社である。
右方東側の沢池を「大田の沢」といい、野生のかきつばたが美しい。藤原俊成の古歌に
 神山や大田の沢のかきつばた
  ふかきたのみは色にみゆらむ
と詠われ、平安時代からこの付近の沢地には、かきつばたが咲きみだれて、名勝となっていたようである。現在でも五月中旬には、濃紫、鮮紫の花が美しく咲く。このかきつばたの群落は、国の天然記念物に指定されている。
なお、例祭は四月十日と十一月十日である。
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賀茂別雷神社(上賀茂神社)(北区)
上古この付近一帯に反映した賀茂氏が創祀した京都最古の神社である。ご祭神として賀茂別雷神を祀る。賀茂伝説によれば賀茂氏の租神建角身命の娘、玉依姫命(ともに下鴨神社に奉祀)が瀬見の小川(賀茂川)を流れ下る丹塗の矢に感じて、別雷神(大自然を支配する神)が出現せられたと伝える。
平安遷都(794)とともに賀茂別雷神に対する信仰は高まり全国雷神の中心となった。皇室でも嵯峨天皇の弘仁元年(810)以来内親王が斎王として奉仕される慣わしとなり、山城国一ノ宮と呼ばれて伊勢神宮と並ぶ崇敬を捧げられた。
社殿は二十一年毎に造営される慣例であったが、中世以来中絶した。本殿(国宝)は流造神殿の典型で権殿(国宝)とともに三間社流造、桧皮葺で文久三年(1863)の建築である。この外社域にある中門、幣殿など四十棟の建物の多くは寛永五年(1628)の造替で重要文化財に指定されている。
毎年五月十五日の賀茂祭は三大勅祭の第一で俗に葵祭の名で親しまれており当日は平安朝の古式ゆかしい行列も都大路に繰り広げられる。さらに五月五日の競馬会、五月十二日御阿礼神事など古式の面影を豊かに伝える行事が四季を通じて行われる。
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