京都にちょっと詳しくなる案内板 (上京区) |
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白峰神宮(上京区) 当神宮は、崇徳天皇及び淳仁天皇を祀る。 明治天皇は父考明天皇の遺志を継ぎ保元の乱により讃岐国(香川県)へ配流になった崇徳天皇の慰霊のため、明治元年(1868)に讃岐の白峰陵より神霊を迎えて、当神宮を創建した。 次いで明治六年(1873)には、奈良時代に僧道鏡と恵美押勝の争いにより、淡路島に配流された淳仁天皇の神霊を迎えて合祀した。 例祭は四月十四日(淳仁天皇祭)、九月二十一日(崇徳天皇祭)で、蹴鞠や薪能が奉納される。 この地は、蹴鞠、和歌の宗家飛鳥井家の邸跡で、同家の守護神「鞠精大明神」が祀られ、球技愛好者に崇敬されている。ほかに、「伴緒社」、「潜龍社」などの境内があり「おがたまの木」は京都市の天然記念物に指定されている。 目次のページへ |
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大報恩寺:千本釈迦堂(上京区) 瑞応山と号する真言宗智山派の寺院で、千本釈迦堂の名で知られている。承久3(1221)年義空上人が藤原光隆の臣、岸高より寄進を受けたこの地に、小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起こりといわれている。当初、倶舎、天台、真言の三宗の霊場として堂塔伽藍も整い壮麗を極めたが、応仁の乱を はじめ、度々の災火のため堂宇を焼失してしまった。現在唯一残る本堂(釈迦堂)は、本市に現存する最古の仏堂遺構で、国宝に指定されている。堂内には行快作の本尊釈迦如来坐像及び、快慶作の 木像十大弟子立像をはじめ、銅像誕釈迦立像、六観音菩薩、千手観音立像などを安置している。また毎年、二月には阿亀福節分会、五月には花供養、七月には陶器供養、八月には精霊迎え、十二月には大根炊きなど多彩な行事が営まれ、 多くの人々で賑わう。 目次のページへ |
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北野天満宮(上京区) 菅原道真公を祀り、一般に「北野の天神さん」と呼ばれて、学問の神として 崇められている。 天暦元年(947)の創建と伝え、天徳三年(959)藤原師輔によって社殿が整備され、天正十五年(1857)には、豊臣秀吉が、付近一帯の松原で北野大茶会を催した。本殿(国宝)は、豊臣秀頼が、慶長十二年(1607)に造営したもので、権現造の代表的遺構である。また、中門は?門と呼ばれ、後西天皇の筆の勅願 「天満宮」を掲げている。宝物としては、紙本著色北野天神縁起絵巻(国宝)などの貴重な文化財を蔵している。毎年二月二十五日には梅花祭。十月四日には瑞饋祭が催されるほか、毎月二十五日の道真公の命日には多くの参拝者で賑わう。 目次のページへ |
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晴明神社(上京区) 天文博士安倍晴明を祀る。晴明は朱雀、冷泉、円融、花山、一条の六朝に仕え、天文学を通じ、移りゆく星をみて宮中の変革、遠国の吉凶を判断したといわれ、一条天皇の時に天文博士となった。寛弘二年(1005)なくなったが、その後、一条天皇によって晴明の邸址に当社が創立された。晴明の邸は、東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売の各通りに及ぶ広大なものであったが、これを社域とした当社も、その後、たびたびの戦火によって衰えたままであったものを、近年晴明九町組を中心とする崇敬者によって復興され、 年をおって現在の規模になった。 目次のページへ |
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護王神社(上京区) 桓武天皇に遷都を進言し、平安京の都造りを推し進めた和気清麻呂とその姉 広虫を祭神とする神社。もとは、神護寺境内にあったが明治十九年(1886)この地に移された。広虫が慈悲深く、京中の孤児を養育したことにより子育ての明神と呼ばれ、育児の神として信仰される。拝殿の前に狛犬のかわりに猪像があるが、これは清麻呂を猪が守護したという故事にちなむ。十一月一日に亥子祭がある。 目次のページへ |
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御霊神社:上御霊神社(上京区) 祭神として崇道天皇(早良親王)、吉備真備はじめ十三柱の神霊を祀る。延暦十三年(794)平安遷都に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良・平安時代初期に不運のうちに薨じた八柱の神霊を祀ったのが当社の初めである。のち明治天皇の後願により祭神五柱が増祀された。平安時代には御霊信仰(天変地異や疫病流行は怨霊のたたりであるとする信仰)が盛んであったが、当社は古来疫病除の霊社として有名である。本殿は享保十八年に下賜された賢所御殿の遺構を復元したものであり、当社には神輿、牛車等皇室の御寄附品多数を蔵する。境内には「御霊の柱」といい、応仁元年(1467)正月十八日畠山政長と義就の合戦が行われた応仁の大乱の発端となったところである。五月一日に神幸居祭、同月十八日還幸祭、八月十八日に例祭(社頭の儀)が行われる。 目次のページへ |
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梨木神社(上京区) 実萬公は、当時「今天神」と人々から尊称され、才識兼備のお方であった。光格・仁考・考明三天皇に仕え、皇室の中興に尽し、王政復古の大儀を唱えて、明治維新の原動力ともなられ、安政の大獄の折、幕府より圧迫を受けて一乗寺村に幽居の後、五十八歳で薨去された。明治二年その功績を愛で、天皇より"忠誠公"の諡を賜り同十八年十月旧邸の地名にちなみ、梨木神社として創祀せられるに至った。実美公は、父実萬公の意思を継ぎ朝威回復、攘夷決行の急進派少壮公卿の中心人物として活躍。しかし、文久三年八月十八日の政変で頓挫し同志の公卿と共に長州西国へ赴かれ艱難辛苦を経て維新の大業を達成せられた。そして明治新政府では、右大臣、太政大臣、内大臣等を歴任された明治の元勲である。公は明治二年東京へ遷都の際、御所廃止の論が起こるも、これに極力反対された。今日なお栄えて在京都の大恩人である。大正四年、大正天皇即位ご大典の折合祀せられた。 目次のページへ |
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廬山寺(上京区) 日本廬山と号する円浄宗の大本山である。当寺は、最初938(天慶元)年慈恵大師良源(元三大師)が北山に開き、與願金剛院と称したが、1245(寛元三)年法然上人に帰依した住心房覚輪によって船岡山麓に復興され、廬山天台講寺と改められて、円・浄土・戒・密の四宗兼学寺院となった。その後、後醍醐天皇の勅願寺となったが、応仁の兵火に遭い、天正年間(1573〜1592)当地に移った。現在の堂宇は、1788(天明八)年の「天明の大火」による炎山以後のものである。本堂には、恵心僧都作と伝える阿弥陀三尊等を安置する。その後、当寺は、国宝の慈恵大師自筆遺告状のほか、重要文化財として鎌倉時代の如意輪観音半跏像、後伏見天皇正親町天皇辰韓、法然上人選択集などを蔵し、また境内には光格天皇父の閑院宮典仁親王(慶光天皇)陵、中山愛親天皇の墓などがある。なお、年中行事として、鬼の法楽と呼ばれる節分会の悪疫退散の行事が有名である。 目次のページへ |
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出世稲荷神社(上京区) 足軽から関白太政大臣へと世にも希な立身出世を成し遂げられた豊臣秀吉公は幼少の頃から稲荷五社の信仰が篤く、天正十七年(1587)に聚楽第を造営する際、天下統一の成就は稲荷信仰のおかげと感謝して邸内に稲荷社を勧請されました。 これが当出世稲荷神社の始まりです。翌年、聚楽第行楽の折に稲荷社に参拝された後陽成天皇より『出世』の称号を賜り、諸大名が開運出世祈願する社として大いに栄えました。 寛文三年(1663)にこの地に移されてからは秀吉公の出世にあやかって出世開運を願う人々がいつも絶えず、江戸時代後期には鳥居の数も二百二十九本に達したと伝えられています。境内には秀吉公と北野政所をお祀りした豊の社があります。 出世稲荷には『開運出世の福』『衣食住の福』『地位名望の福』『農工商その他一切の生業に大繁栄の福』等十種の神徳があるとされています。 境内の水天宮には水難・火難・病難・盗難除けのご利益があるとされ、寿石、福石、禄石の三つの石を御神体にした三石大神はかつて『勝石・取石・打出し石』などと呼んで大変信仰した勝負運の神様です。 目次のページへ |
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上七軒(上京区) 今出川通七本松西入から北野天満宮東門に至る両側で、真盛町、杜家長屋町、鳥居門町の地域。 『京都府下遊郭由緒』の伝えるところによると、往古より七軒茶屋を相唱、足利氏武勝の頃、北野天満宮再建の残木を以って、七軒の水茶屋を神社東門に建てたことから上七軒の名称が起こったという。其後、豊太閤秀吉、北野大茶会の折、上七軒から差し出された土地の名産、御手洗団子を賞誉有之山城一円の茶屋株を与えられた。これにより上七軒の御茶屋では御手洗団子を『定紋』とし、毎年秀吉を祀る豊国神社に御手洗団子を奉納する慣わしがあった。 四月上旬『北野おどり』十月には『寿会』が芸妓衆によって開催される。京都最古の、第一の遊里でもある。 目次のページへ |
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大将軍八神社(上京区) 当社は、平安建都の際に都城の方除守護神として造営されたのがはじまりとされ、当初は大将軍堂と称したが、江戸時代初期になって 大将軍社と改められ、更に大将軍八神社となって現在に至っている。 大将軍とは、陰明道にいう星神天大将軍で、方位をつかさどる神である。このため、建設、移動、旅行などに関し、方除け、 厄除けの神として世間の崇敬を集め、その時々の権力者達も当社を厚遇したといわれる。 当社には、平安時代中期から末期にかけての大将軍信仰高潮期に奉製されたと思われる『神像』百余体が所蔵されている。このうち、 武装像、束帯像、童子像合わせて八十体が昭和47年(1972)に重要文化財に指定された。いずれの像も、独特の表情、装束で異彩を放って おり、興味深い。また、陰明道に基づく吉天文暦道資料(府指定文化財)も蔵されている。 目次のページへ |
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椿寺(上京区) 正しくは昆陽山地蔵院といい、浄土宗の寺である。726(神亀3)年に、行基菩薩が聖武天皇の勅願によって摂津国の昆陽野池のほとりに建立した 地蔵院が始まりという。その後、平安時代に衣笠山麓に移され、室町時代初期に戦災で焼失したが足利義満が金閣寺建立の余財で再建し、 1589(天正17)年に豊臣秀吉の命によって現在地に移った。 地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、行基作の当初からのものと伝え、また、堂背後の板扉はもと北野神社にあった多宝塔の遺構とされる。 書院の前庭には、かつて、有名な『散り椿』(文禄の役(秀吉の朝鮮侵略)の際に加藤清正が朝鮮蔚山城から持ち帰って秀吉に献上し、 さらに北野大茶会のときに当寺に献木されたもの)があったが、惜しく、枯れ死し現在は樹齢約百年の二世椿が花を咲かせている。 境内には忠臣蔵で有名な天野屋利兵衛の墓といわれるものや、与謝野蕪村の師にあたる夜半亭巴人の墓などがある。 目次のページへ |
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舟橋(上京区) この地は、古くから舟橋と呼ばれていますが、昔、堀川がはんらんしたとき舟を繋いで橋としたことから起こったと言われています。 『京町鑑』では、足利尊氏の執事、高師道の邸があり、泉殿の下に舟橋を浮かべて結構を尽くしたのが地名になったと記されています。 応仁の乱では、西陣の将、山名宗全の本陣が近くの山名町にあって、西陣の地名になりました。 目次のページへ |