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京都にちょっと詳しくなる案内板
(東山区)



青蓮院(東山区)
天台宗に属し、三門跡のひとつで粟田御所とも呼ばれる。 比叡山東塔南谷に伝教大師最澄が僧侶の住居として建てた青蓮坊が起こりで、その十二代行玄(天台座主)が鳥羽法皇の御帰依を得て、その皇子覚快法親王を托されて、京都の里坊を拡充して以来、門跡の称号が起こり、親王は第二世親王となられた。皇族・摂関家の子弟で入室される例となって、天台宗で最高の寺格をもつ寺となった。この地は、鎌倉時代に青蓮院に合併された十楽院門跡の里坊にあたり、青蓮院は三条白川坊、吉永坊などが老朽化したのちはもっぱらこの坊を維持して今日に至っている。建物は応仁の乱で焼失したが、江戸時代に再建され、天明の京都大火にさいし後桜町上皇の仮御所となった。門主には代々名僧が任じられ、十七世入道尊円親王は能書をもって知られ、青蓮院流(のちの御家流)を開かれた。現在の建物は明治二十六年火災後の再建のものが多いが、江戸時代門跡寺院の格式を再現している。辰殿、小御所は狩野派の優美な襖絵で飾られ、明治の火災をまぬがれていた。叢華殿は勤王志士が国事を相談した維新史跡である、 粟田山の山すそを利用し、竜心池を中心とした優美な庭で、主庭は相阿弥作、霧島の庭は小堀遠州作と伝えられている。他に寺宝は多く、中でも不動明王二童子画像(国宝)は世に「青不動」と呼ばれて有名である。
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円山公園 (東山区)
平安の昔、今の円山公園一帯は一面真葛や薄などが生い茂り真葛ヶ原と呼ばれていました。鎌倉時代、慈円僧正が
  『わが恋は松を時雨に染めかねて
    真葛ヶ原に風さわぐなり』(新古今集)
と詠んでから一躍和歌の名所となり、以来多くの歌に歌われました。江戸時代に入ると安養寺搭頭の六阿弥(左阿弥、世阿弥などいずれも何阿弥と称した六坊)が席貸を始め、次第ににぎやかさを増してきました。この頃から『慈円安養寺』の「円山」をこのあたりの呼名となったと伝えられています。明治19年10月、京都府は円山一帯を公園地に指定し、同22年12月市制が施行されると同時に京都府から京都市の管理に移されました。その後何度か拡張工事を行い、大正2年、平安神宮神苑をはじめ無隣庵、碧雲荘などの名園を創り出した造園家、小川冶兵衛氏の手により中央に池を配した回遊式日本庭園に造り変えられたのが現在の円山公園の姿です。
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知恩院:三門 (東山区)
此の門は三解脱門と言い、空・無相・無願を表す。元和7年(1621年)徳川二代将軍秀忠公の寄進による。明治35年に国の「特別保護建造物(現在重要文化財)」の指定を受けたわが国最大の門である。昭和62年から国の助成と全国の檀信徒並びに一般の方々の浄財喜捨に依り、創建以来370年振りに本格的に大修復が行われ、平成4年3月末に落成したものである。規模
 高さ:24m  巾:50m
 奥行:23m  瓦総枚数:約7万枚
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八坂神社 (東山区)
素戔鳴尊、櫛稲田姫命およびその御子八社神を祭神とする。明治以後八坂社と称し、古くは祇園社と呼ばれ 、一般に「祇園さん」の名で親しまれており、全国祇園社の根本神社である。この神社は貞観18年(876)僧円如が牛頭天王を迎えたのが起こりといわれ、牛頭天王が行に際し京都の人々はこの神を祭って疫神をはらおうとした。こうして祇園会が始まり、平安時代中期から山鉾巡行も起こり、幾多の変遷を経て現在も毎年7月祇園会が当社の祭礼として盛大に行われる。一方本殿は、平安時代の初め藤原基経がこの地に観慶感神院を建て寺内に本殿を設けたのが始まりと言われる 。現本殿(重要文化財)は承鷹三年(1654)の再建であるが 、平安時代末期の様式を伝え祇園造として有名である。東山通に面する樓門は西門で室町時代の建物(重要文化財) である。毎年元旦未明に行われるおけらまいりも有名で 多数の市民で賑わう。
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退耕庵(東山区)
臨済宗東福寺の塔頭寺院である。貞和二年(1346)東福寺第四十三世住持性海霊見によって創建され、応仁の乱の災火により一時荒廃したが慶長四年(1599)安国寺恵瓊によって再興された。茶室作夢軒は、再興時に恵瓊によって建てられたもので、豊臣秀吉の没後、ここで恵瓊、石田光成、宇喜田秀家らが、関ヶ原の戦いの諜議を行ったと伝えられている。庭園は、書院をはさんで南北二庭からなり、南庭は美しい杉苔に覆われた枯山水庭園で北庭は池泉式庭園となっている。地蔵堂に安置する高さ約2mの地蔵菩薩像は、胎内に小野小町に寄せられた多数の艶書を収めていたことから「玉章地蔵」の名で知られている。なお、慶応四年(1868)の鳥羽伏見の戦いの際には、東福寺に長州藩の陣が置かれていたことから、当庵はその戦いの殉難者の菩提所となっている。
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同聚院(東山区)
臨済宗東福寺に属し、東福寺の塔頭の一つである。東福寺の寺地一帯は、平安時代中期延長二年(924)頃に藤原忠平が法性寺を建立した所で、寛弘三年(1006)に藤原道長が五大明王を安置する五大堂を境内に造営した法性寺はその後も藤原氏が造営に力を入れたが、鎌倉時代には衰微し、その故地九条道長が東福寺を建立した。本寺は藤原道長が建立した五大堂の遺跡で、五大明王の中尊不動明王坐像が祀られている。この像は、仏師定朝の父、康尚の作で、重要文化財に指定されている。世に「じょう不動」と称され、毎年二月二日に「じょう」の字を書いた御符が授与される。「じょう」は「土力」(土地の守護)又は「十万」(十万の従者を従える。)の二字を一字にした文字といわれ、火災除けをはじめ、 除災の霊験あらたかな不動として信仰が深い。
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新熊野神社(東山区)
後白河天皇は紀州熊野権現を深く信仰され、しばしば御幸されて、御参籠になったので、世に熊野御幸として知られている。永暦元年(1160)熊野三山をこの地にあった仙洞御所法住寺殿の内に勧請して当社を創立された。以後皇室の尊崇あつく社域広荘社殿荘厳をきわめたが、応仁の乱後荒廃した。霊元天皇の御代(寛文年中)に聖護院の道寛法親王が皇室の御寄進を得て再建したのが現の社殿である。境内にある「楠の木」は後白河天皇お手植の神木といわれ、かつては天然記念物に指定されていた巨木で当社創建の際熊野から移植したものと伝えており、高さ約19m周囲約6mに達する。
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養源院(東山区)
豊臣秀吉の側室淀殿が父浅井長政の追善のため文禄三年(1954)成伯法印(長政の従弟)を開山として建立した。寺号は長政の法号養源院をとったものである。もとは天台宗であったが、今は浄土真宗遣迎院派に属する。建立後ほどなく火災で焼失したが、元和七年(1621)徳川秀忠夫人崇源院が伏見城の遺構を移して本堂を再建した。この本堂の正面と左右の廊下の天井は、慶長五年(1600)関ヶ原合戦の前哨戦で伏見城が落城した際、家康から同城の守備を命じられていた鳥居元忠以下の将士が自刀した時の板間を用いたものといわれ、俗に血天井と呼んで知られている。本堂の松の間の襖絵「松図」十二面及び杉戸八面 (いずれも重要文化財)は俵屋宗達の筆と伝えられ、杉戸には唐獅子、白象、麒麟を描いている。
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専称寺(東山区)
この寺は慶長十六年の創設で、現在の本堂は禄十二年に再建され天台宗妙法院門跡の末寺であったが、今は浄土宗西山禅林寺派に所属している。醍醐三宝院開山の理源大師が大峰山を切り開かれし時に、自作の念持仏馬観世音菩薩を當寺で祀ることになり、馬頭山専称寺と称し、通称「馬頭山のお寺」と呼ばれるようになった。寺には文政年間名陶欽古堂亀祐自作の陶墓と青磁象香炉等数点があり、貴重なる美術工芸品として陶器家達から重宝がられている。また文化重宝類数点を保有する。
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将軍塚(東山区)
将軍塚は八世紀の末、桓武天皇が平安京造営に際し、王城鎮座のため、高さ八尺(約2.5m)の土の人形に甲冑を着せ弓矢を持たせ、京都の方を向けて埋めた塚であると伝えられている。平安末期以後天下に異変があるときは必ずこの塚が鳴動して前兆をあらわすという伝説が生まれ、「源平盛衰記」によると源頼朝挙兵の前年治承三年七月には、三度にわたってこの塚が鳴動し、ついでまもなく大地震が起こったという。
この付近からは、古墳石室や経筒などが発見され、古墳一つは大日堂の枯山水庭園の一部となっている。
なお大日堂に安置する本尊大日如来像は付近の山中から発見された花頂院の遺仏と伝えられる。境内には日露戦争で活躍した東郷元帥や黒木大将の手植の松があり、美しく整備されている。
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建仁寺(東山区)
東山と号する臨済宗建仁寺派の大本山である。
建仁二年(1202)、我国の臨済宗の開祖である明菴栄西禅師により創建され。寺名は年号をとって名付けられた。
以後、正嘉二年(1258)円爾弁明、正元元年(1259)には、蘭渓道隆が住んだことで、禅宗寺院として確立し、室町時代には京都五山の第三位を占めるに至った。
勅使門は、俗に「矢の根門」と呼ばれ、切妻造、銅板葺の鎌倉時代後期の唐様建築で、方丈は、銅板葺、単層入母屋造、慶長四年(1599)に、安芸(広島県)の安国寺から移建した室町時代後期の大建築である。
寺宝としては、俵屋宗達の代表作、紙本金地著色風神雷神図、海北友松の紙本墨画竹林七賢図など、桃山時代の貴重な屏風絵、水墨画、障壁画を多数蔵している。
また、毎年四月に方丈で行われる「四頭の礼」は、禅宗寺院の茶礼の古態を今に伝えている。
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安井金毘羅宮(東山区)
祭神として崇徳天皇、大物主神、源頼政の三神を祀る。
社伝によれば、保元の乱(1156)に敗れて讃岐(香川県)で崩じた崇徳天皇の霊を慰めるため、建治年間(1275〜77)に大円法師が建立した光明院観勝寺に当社の起こりといわれている。その後、観勝寺に応仁の兵火により荒廃し、元禄八年(1695)太秦安井(右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐金比羅宮より勧請した大物主神と源頼政を祀ったことから、安井の金比羅さんの名で知られるようになった。
本殿東の絵馬館には、当社に奉納された大小様々な絵馬が陳列されており、江戸時代に画家山口素絢等の作品も含まれている。
また、境内にある「久志塚」は、古い櫛の供養のため築かれた塚で、毎年九月十五日には櫛祭が行われる。
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青竜寺(東山区)
見性山と号し、浄土宗鎮西派に属する。
大宝寺と称したが、平安遷都とともにここに移ったという。その後荒廃していたが、建久三年(1192)法然の弟子見仏が再建し、法然を招き、別時念仏の道場として引導寺と改めた。さらに寛永年間(1624〜1643)霊嚴によって青竜寺と改称された。
本堂に安置する本尊観音像は平安時代の作品で、伽羅観音ともいい、桓武天皇が仏教大師に命じて、唐から渡来した伽羅の木で彫刻されたものと伝える。
本堂の前にある大小二つの石を念仏石といい、むかし見仏らが六時礼讃を行うとき、鏡のかわりにこれを叩いて礼讃の調子をとったという。
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高台寺(東山区)
鷲峰山と号する臨済宗建仁寺派の寺である。
慶長十年(1605)豊臣秀吉の夫人北政所(高台院)が、秀吉の菩提を弔うために創建した。現在の開山堂、霊屋、表門、観音台および茶室の傘亭と時雨亭は創建時のもので、いずれも国の重要文化財に指定されている。霊屋には秀吉夫妻の木像を安置し、須弥檀及び屋内の蒔絵は、高台寺蒔絵として名高い。池泉観賞式の庭園は小堀遠州の作と伝え、国の史跡・名勝に指定されている。寺宝としては、絹本著色豊臣秀吉像など数多くの貴重な文化財を蔵している。
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芭蕉堂(東山区)
この堂は、江戸時代中期、俳聖松尾芭蕉をしのぶため、芭蕉にゆかりの深い地に、加賀の俳人、高桑闌更が営んだのに始まる。
鎌倉時代の初め、諸国を旅して自然を友とした西行が、この地に阿弥陀房を訪ね、
   柴の庵と聞くはくやしき名れども
      よにこのもしき住居なりけり (山家集)
と詠んでいる。芭蕉は、この西行を心の師とし、西行を慕って旅の生涯を送ったが、この地で、さきの西行の作歌を踏まえて、
   しばの戸の月やそのままあみだ坊  (小文庫)
の一句を詠んだ。この句を生かして闌更が営んだのが、この芭蕉堂なのである。
堂内には、蕉門十哲の一人、森川許六が刻んだ芭蕉の木像を安置する。
毎年四月十二日には花供養、十一月十二日には芭蕉忌が行われる。なお、東隣の西行庵庭内には、各務志考が芭蕉十七回忌に建てた「かな書の碑」がある。
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八坂塔(東山区)
霊応山と号し、臨済宗建仁寺派に属する。寺伝によれば、聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げにより建立し、 往時は延喜式七ヶ寺のひとつに数えられ隆盛を極めたが、現在は八坂塔(五重塔)と太子堂、薬師堂の二宇を残すのみである。八坂塔は本瓦葺五層、方六メートル、高さ四十六メートルの純然たる和様建築で、白鳳時代の建築様式を今に伝えるものである。創建以来たびたび災火により 焼失したが、その都度再建され、現在の塔は永亨十二年(1440)に足利義教によって再興されたものである。塔内には本尊五智如来像五体(大日、釈迦、阿しゅく、宝生、弥陀)を安置し、須弥檀の下には古い松香石製の大きい中心礎石があり、中央には舎利器を納めた三重の凹孔が残っている。寺宝としては塔を中心に当時の社寺を描いた紙本著色八坂塔絵図のほか、足利義教画像、法観雑記など貴重な文化財を蔵している。
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知積院(東山区)
真言宗智山派の総本山で全国に三千余の末寺がある。もと紀州根来山の学頭寺智積院であったが、豊臣秀吉に攻められたとき、京の学頭玄宥増正は、 難を京都に避け、後に徳川家康の帰依を受けて慶長五年(1600)この地の祥雲寺を賜り、智積院の名を継いだ。祥雲寺は、秀吉が長男棄丸の菩提の ために建立した寺で、当時は東山第一といわれた。収蔵庫にある豪華な襖絵(国宝)は祥雲寺以来のもので、長谷川等伯の筆といわれ、桃山時代の代表的障壁画として知られている。このほか、張即之筆 金剛経(国宝)、南画の祖といわれる王維の龍図(重要文化財)をはじめ仏画、経巻など多数の指定文化財を蔵している。庭園(名勝)も同じく桃山時代の作庭といわれ、築山と苑池からなる観賞式林泉で京洛名園の一つに数えられている。
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即成院(東山区)
光明山と号する真言宗泉涌寺派の寺である。当院は、正暦三年(992)恵心僧都により伏見に建立された光明院を始まりとする。寛治年間(1087〜94)には橘俊綱が山荘造営にあたり、当院を持仏堂として傍に移設し、伏見寺または即成就院と呼ばれていた。文禄三年(1954)、豊臣秀吉の伏見城築城のため深草大亀谷に移転し、さらに明治に至り、泉涌寺山内に再興され、即成院と呼ばれるようになった。本堂には、本尊阿弥陀如来像を始め、二十五菩薩坐像が安置され、境内には、那須与市の墓と伝えられる石造宝塔がある。寺伝によれば、与市は出陣する途中病にかかったが、当院に参篭し、本尊の霊験で平癒し、屋島の戦で戦功をたてたので、仏徳を感じて出家し、当院に庵をむすび、歿したと伝えられている。
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今熊野観音(東山区)
泉涌寺の塔頭で、正しくは新那智山今熊野観音寺という。西国三十三ヶ所観音霊場第十五番目の札所になっている。空海が自ら観音像を刻んで草堂に安置したのが当寺のはじめというが、斉衡年間(854〜857)左大臣藤原緒嗣が伽藍を造営したとも伝える。文暦元年(1234)後堀河上皇を当寺に葬るなど、歴朝の崇敬を得て栄えた。伽藍は応仁の兵火で焼失したが、その後、復興されて現在に至っている。本堂には空海作と伝える十一面観音像を安置する。寺域は幽静で、郭公鳥の名所として名高く、本堂背後の墓地には慈円僧正・藤原忠通・同長家の墓と称せられる見事な石造宝塔三基がある。
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泉涌寺(東山区)
泉山と号する真言宗泉涌寺派の総本山である。寺伝によれば、当地には天長年間(824〜833)に、弘法大師によって建立された法輪寺(後に仙遊寺と改称)があったが、健保六年(1218)宋(中国)から帰朝した月輪大師(俊芿)が再興し、寺名を泉涌寺に改めたと伝えられている。以後、歴代の天皇、皇室から厚い崇敬を受け、密室の御香華院(菩提所)として栄えた。広い境内には、仏殿、開山堂、舎利殿、御座所、霊明殿など数多くの伽藍が建ち並んでいる。寺宝としては、国宝の泉涌寺勧縁疏の文書ほか多数の貴重な文化財を蔵している。毎年、一月十五日に催される七福神巡りには、数多くの参拝者で賑わう。
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雲龍院(東山区)
真言宗泉涌寺派の別格本山である。応安五年(1372)後光厳法皇が竹巌聖皐律師を招いて菩提所として建立されたのがこの寺の始まりで、その後、歴代天皇の信仰があつく、たびたびこの寺に行幸されている。とくに後円融天皇(在位1371〜82)は勅願として如法写経会をはじめられ、この法会は現在までつづいている。寺は応仁の兵火によりいったん焼失したが、後柏原天皇より、後土御門天皇使用の御殿の寄進をうけ、本堂として再建し、江戸時代には寺領も多く、来り学ぶ僧侶も多数にのぼり寺運もっともさかんであった。後光厳天皇はじめ歴代天皇の尊牌をまつる霊明殿は明治初年に完成した。宝物には、この寺の歴史にゆかりのふかい土佐光信筆の後円融天皇宸影(重要文化財)はじめ歴代天皇の宸筆など文書、絵画多数を蔵している。なお、裏山には、仁考天皇二皇女、考明天皇皇女の陵墓が営まれている。
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豊国神社(東山区)
豊臣秀吉を祀り、一般に「ホウコクさん」の呼称で人々に親しまれている神社である。慶長三年(1598)に六十三歳で亡くなった秀吉は、後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、遺骸は、遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られた。また、その麓には、廟社が造営され、その偉観は豊国祭礼図屏風(重要文化財)にも描かれており、壮観を極めた。しかし、豊臣氏滅亡後、その廟社は徳川幕府により取り壊され、秀吉の御霊は新日吉神社に移された。その後、明治十三年(1880)当地に社殿が再建され、別格官弊社として復興された。また、廟についても阿弥陀ヶ峰頂上に再建された。唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、その両脇の石灯篭は、秀吉恩顧の大名が奉献したものである。
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京都霊山護国神社(東山区)
当神社は、幕末維新に殉じた志士と第二次世界大戦にいたる京都府出身の英霊七万三千十柱を奉祀する。幕末、各藩が東山三十六峰の中心であるここ霊山にそれぞれ殉難者を祀ったのが当神社の起源で明治元年五月、太政官布告をもって我国初の官祭招魂社とすべきことがきめられた。この布告により各藩は社殿を建設し、同年七月には盛大な祭典が挙行された。ついで明治十年には皇室より巨費が下賜せられて神域が整備され、全国招魂社のうち最も崇敬をあつめた。さらに昭和四年六月には今上陛下御即位大礼の建物を下賜せられ、現社殿を整備し、昭和十四年に護国神社を改称して現在に及んでいる。霊山神域内には、坂本龍馬、中岡慎太郎、木戸孝允、平野国臣、宮部県蔵をはじめ蛤御門の変、天誅組の挙兵等に加わった志士の墓三百余基があり、1336柱が合祀されてあり、この地は明治維新をしのぶ大霊域史跡である。
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霊山歴史館:りょうぜんれきしかん(東山区)
当館は、幕末・維新の志士の遺墨や遺品100点余りを展示し、維新の姿や精神を伝えることを目的とする幕末維新史の総合資料博物館である。霊山護国神社は、幕末・維新の殉難者を祀るため、明治元年、我国最初の招魂社として創建された。また、神域一帯には志士の墓300余基がある。景勝の地であるこの地は明治維新の姿をしのぶ屈指の霊域なのである。昭和43年に明治百年を記念して霊山顕彰会が設立された。志士の霊魂をなぐさめ、その精神をながく後世に伝えることを目的に、墓や神域を改修し、参道を「維新の道」と名付けて整備した。さらに、昭和36年の第二室戸台風で倒壊したもと参集殿跡にこの歴史館を設立したのである。
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翠紅館跡:すいこうかん(東山区)
ここに、幕末の頃、西本願寺の別邸で、翠紅館と呼ばれる屋敷があり、たびたび志士たちの会合の場所となっていた。
文久三年(1863)正月27日には、土佐藩武市半平太、長州藩井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、ついで同年6月17日にも長州藩桂小五郎、 久留米藩真木和泉守らが集まった。この数年前から攘夷運動は次第に高まり、反幕府の政治勢力となりつつあったが、 これら各藩士代表者の会議で、攘夷の具体的な方法が検討された。世にこれを翠紅館会議という。
同年8月13日には、孝明天皇の大和行幸の詔書が出されて攘夷運動は頂点に達した。しかし、8月18日に政変が起こって攘夷派は失脚、 代わって公武合体派が主導権を握り、幕末の政局は混迷の度を加えていった。
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耳塚(鼻塚)(東山区)
この塚は、16世紀末、天下統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、王辰、丁酉の倭乱、1592〜1598)にかかる遺跡である。
秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに、朝鮮軍男女の鼻や耳をそぎ、塩漬けにして日本へ持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。これが伝えられる『耳塚(鼻塚)』のはじまりである。
『耳塚(鼻塚)』は、史跡『御土居』などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に建つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ、塚の築城から程ないころの創建と想われる。
秀吉が捲き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、戦役が遺したこの『耳塚(鼻塚)』は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を歴史の遺訓として、いまに伝える。
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六波羅密寺(東山区)
真言宗智山派の寺で、西国三十三ヶ所観音霊場の第十七番札所として古くから信仰されている。
本尊十一面観音立像は、天暦5年(951)に空也上人が疫病平癒のため開創した当時のものといわれる。空也上人は歓喜踊念仏唱和の功徳を広めた六斉念仏の始祖である。
往時は寺域も広く、平氏の邸館や鎌倉幕府の探題も置かれ、源平盛衰の史跡の中心である。現在、旧堂や末寺の諸像を伝存し、本道も鎌倉様式を伝える遺構である。
地蔵菩薩立像は今昔物語にも伝えられ、定朝の作といわれる。運慶の菩提寺十輪院の本尊地蔵菩薩坐像や脇侍運慶、湛慶坐像もあり、運慶とその子湛慶、運助の作という。その他、康勝作の空也上人立像、長戒作の弘法大師像、閻魔王坐像、平清盛像など鎌倉時代の傑作も多く、美術史上貴重な存在である。境内に阿古屋塚や清盛の石塔がある。
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若宮八幡宮(東山区)
当社はもと六条醒ヶ井にあり、源頼義(八幡太郎義家の父)が八幡の若宮として祀ったものと伝えられる。
当初は六條八幡、左女牛八幡とも呼ばれ、源氏一族や多くの武士から信仰厚く、室町時代には足利歴代将軍の崇敬を集め隆盛を極めた。
しかし、応仁の乱により社殿は荒廃し、以後社地も転々とし、慶長十年(1605)にこの地に移った。
現在の社殿は承応三年(1654)に再建されたもので、本殿には仲哀天皇、王神天皇及び神功皇后を祀り、相殿には仲恭天皇を祀っている。
毎年八月七日から十日までの間には若宮祭とその協賛行事として陶器祭が行われる。陶器祭は後に合祀された陶祖椎根彦命の祭礼で、氏子陶器業者が中心となり、五条坂一帯で盛大な陶器市が開かれる。
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五条坂(東山区)
この立札の建っているところを中心として西は坂を登って清水坂に至るまでの間を五条坂という。
近年道路の整備拡張に伴い、昔の姿は失ったが、このあたりは清水坂と共に清水焼の陶工の家が多く、上品で風雅な清水焼が作り出されたところである。
清水焼は、室町時代中頃に始まるといい、寛永年間(1624〜1644)に野々村清兵衛(仁清)が出てその名声を高めた。その後、青木木米、高橋道八、尾形周平、清水六兵衛、清風与平、真清水蔵六、三浦竹泉など多くの名工が輩出して、製法と意匠の研究が進められ、西陣織、京友禅と並ぶ京都の代表的な伝統産業となった。その独自の芸術性は海外まで高く評価されている。
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六道珍皇寺(東山区)
大椿山と号し、臨済宗建仁寺派に属する。
平安遷都以前、東山阿弥陀ヶ峰山麓一帯に居住した鳥部氏の氏寺(宝皇寺)が前身とも、空海の師慶俊僧都が創建したとも伝えられているが、鎌倉(南北朝)時代の貞治三年(1364)に建仁寺の僧、良聡によって再興改宗され、現在に至っている。
俗に六道の辻と呼ばれる境内一帯は、毎年八月七日から十日まで『六道詣り』といわれる精霊迎えのため、多くの参詣者で賑わい、この期間、霊を現世に呼び戻すといわれる『迎え鐘』の音で響き渡る。
境内には小野篁が冥土の入口にしたといわれる井戸があり、閻魔堂には、篁作の木像閻魔大王像とともに篁像も祀られている。
また、薬師堂には木像薬師如来坐像(伝授大師作 重要文化財)と毘沙門天(弘法大師作)地蔵菩薩(定朝作)を安置する。

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恵美須神社(東山区)
事代主神、少彦名神、大国西神を祀る。
社殿によれば、建久二年(1191)栄西禅師が宋国(中国)より帰途、舟が暴風雨にあい遭難になりそうになったが、海上に蛭子神が現れ、その加護により難を免れたといわれ、建久二年(1202)建仁寺創建に当り境内に恵美須を祀り、鎮守社としたのが当社の起こりと伝えられている。応仁の乱後、建仁寺再建の際、当所に移転し、以後、当地の産土神として人々の崇敬を受けている。
境内の岩本社には平安時代の歌人在原業平を祀り、小松天満宮には菅原道真を祀っている。また、財布塚、名刺塚は古くなった財布や名刺の供養のため築かれたものである。
毎年一月十日を中心として前後五日間行われ『十日ゑびす』の大祭には商売繁盛、交通安全を祈願する多くの参詣者で賑わう。
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烏寺(東山区)
熊谷山専定寺と号し、浄土宗西山禅林寺派に属する。
寺伝によれば、昔、専定法師という旅僧がこの辺りの松の木の木陰で休んでいると、二羽の烏が梢にとまり、 「今日は、蓮生坊(熊谷直実)の極楽往生の日である。我々もお見送りしようではないか。」と語り合い、南の空へ飛び立った。 法師が不思議に思って蓮生坊の庵を訪ねたところ、烏が話していた同日(??二年(1208)−九月十四日)・同刻に亡くなっていた。 そこで法師は、ここを有縁の霊域と感じ、草庵を結んだのが当寺の起りといわれている。かつては、この故事を伝えるため、 境内の松の梢に土焼の烏が置かれており、大仏(方広寺)七不思議の一つに数えられていた。
本堂内に安置されている本尊阿弥陀如来坐像は、後白河法皇の念持仏と伝えられ、平安時代後期の作風を示し、 また金箔による像内化粧を施してあるなど貴重なもので、京都市の文化財に指定されている。
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