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京都にちょっと詳しくなる案内板
(左京区)



金戒光明寺(左京区)
紫雲山と号する浄土宗の大本山で、通称黒谷の名で親しまれている。寺伝によれば、承安五年(1175)、法然上人が浄土宗の確立のために、比叡山西塔の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが、当寺の起こりと伝えられている。以後、浄土教の念仏道場として栄え、後光厳天皇より「金戒」の??を賜り 金戒光明雲山と呼ばれるに至った。また、正長元年(1428)後小松天皇より、上人が浄土教の真義を悟った由緒により「浄土真宗最勅門」の勅額を賜った。観音堂には、京都七観音の一つ吉田寺の旧本尊と伝える千手観音立像を安置している。また御廟には上人の命骨を納め、廟前には熊谷蓮生房(直美)と平敦盛の供養塔二基が建てられている。寺宝としては、山越阿弥陀図、地獄極楽図、寺の屏風や上人真筆の一枚起請文など数多くの文化財を蔵し、墓地には国学者山崎闇斎、茶人藤村庸軒、筝曲開祖八橋検校などの墓がある。
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本妙寺(左京区)
祥光山と号する日蓮宗の寺院である。寺伝によると、正和四年(1315)日蓮の法孫、日像が洛北岩倉の地に巡行の際、代官渡辺氏が帰依し、その邸宅を寺として創立したが程なく中絶した。天正二年(1574)本山妙覚十八世日典が再興した。その後、宝永五年(1708)の大火で類焼したが、享保十三年(1728)七世日世が現存の重層造りの本堂を再現した。当寺の鎮守鬼子母神像は大覚自作、日像開眼で安産守護で広く知られる。通称「義士の寺」とも言われ、義士の討ち入り、本懐自刃後の宝永元年(1704)京都存住赤穂浅野藩御用商人綿屋善右衛門が、かねてより昵懇の間柄であり、澤右衛門の三義士と貝賀の妻おさんの四名の合脾を建立している。貝賀の子孫九代目斎藤トラが昭和五年義士の遺品五品、遺墨七十余点を納められたので義士堂を建立。祭られている四十七士の木像とともに毎年十二月十四日の元禄義挙記念祭に一般公開している。
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熊野神社(左京区)
当社は伊ざなみ尊を主神とし、相殿に伊ざなぎ尊、天照大神、速玉男尊、事解男尊を祀る。社伝によれば、弘仁二年(811)紀州熊野大神を勧請したのに始まると伝えられる。嘉承年間(1106〜1108)増譽僧正は聖護院を建立し、当社を鎮守神とし、別当を置いて管理した。平安末期、後白河法皇は度々熊野詣を行ったが、当社にも厚く尊信を寄せ、同法皇が勧請した熊野若王子神社、新熊野神社とともに京都の熊野三山として崇敬を集めてきた。応仁の乱により焼亡したが、寛文六年(1666)聖護院宮道寛法親王の命令により再興され、その寺域は鴨川に修造が行われたが、その後、大正二年(1912)市電軌道敷設により社地をせばめられた。祭礼は四月二十九日神幸祭、五月十六日例祭が行われる。
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須賀神社(左京区)交通神社
平安時代末の康治元年(1142)美福門院の建てた、歓喜光院の鎮守として創祀されたもので、祭神は素戔鳴尊、節稲田比売命を主神に、久那斗神、八衢比古神、八衢比売神を加え、五柱を祀る。もとの社寺は平安神宮蒼竜桜の東北にある四天王塚で、当社は岡崎の東天王柱と相対して古くは四天王柱と呼ばれた。その後、吉田神楽岡に転じ、いまの地に移ったのは大正十三年(1924)のことである。聖護院一帯の産土神とされ、また縁結び、厄除け、交通安全の神として崇敬あつく、ことに節分祭には参詣者で賑わう。五月十五日の祭礼は、角豆祭といい、氏子の家々には遠くの縁者も集まる。ささげのつる葉に多くのさや豆がつくように氏子の繁栄を祝ういみであろう。
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実相院(左京区)
もとは天台宗寺門派であったが、今は単立寺院である。寛喜元年(1229)静基僧正が紫野に開創し、その後今出川通小川に移り、更に応永年間(1394〜1427)12代門跡義運(足利義満の猶子)の時、大雲寺塔頭成金剛院の寺地、即ち今の地に移り大雲時一山を兼摂した。江戸時代の初め、後西天皇の皇子義延法親王が入室され、以来宮門跡として今も尚続いている由緒深い寺院である。宮殿、御車寄せ、四脚門は、東山天皇の中宮、承秋門院の旧殿を移築したものであり、庭園は善阿弥の孫、又四郎の作である。寺宝には後陽成天皇宸翰「仮名文字遣」一冊(国宝)、後水尾天皇宸翰、東西狩野派、元信・探幽・永真・永敬ほか岸駒筆の障壁画類百数十点があり、中世・近世の古文書など重要な文化財数千点を蔵する。
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永観堂(左京区)
聖衆来迎山禅林寺と号する浄土宗西山派の総本山で、通称永観堂と呼ばれている。
斉衡二年(855)空海の弟子真紹が藤原関雄の山荘を寺院としたのが起こりで、貞観五年(863)には天皇から定額を得た。その後一時衰えたが、平安時代の末、承暦年間(1077〜1081)に永観が住持となり、念仏道場を開き寺を中興した。永観はこれにより中興開山と呼ばれ、寺名も永観堂の名で呼ばれるようになった。以後当寺は浄土教を広め、鎌倉時代中期には浄土宗西山派開祖、證空の弟子浄音が住持となり、浄土宗一派の本山の基礎を固めた。
その後応仁の乱により焼失したものの、明応六年(1497)後土御門天皇の命により再興し、以後逐次諸堂が再建され現在の伽藍が整えられた。
寺宝として山越阿弥陀図(国宝)をはじめ、鎌倉時代以来の仏画多数を蔵し、特に本堂の阿弥陀如来立像は首を左に向けた我国唯一の一躯で「みかえりの弥陀」と呼ばれて親しまれている。
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南禅寺(左京区)
臨済宗南禅寺派の大本山で、正応四年(1291)亀山天皇離宮の地を賜り、無関普門(大明国師)規庵祖円(南院国師)によって創建された。以来、歴朝の勅願所として、また、中世五山制度が行われると「五山之上」という最高位に列せられ天下の尊崇を得て今日に及んでいる。
勅使門、三門は重要文化財に、大方丈(清凉殿)、小方丈は国宝に指定され、内部の襖絵の多くは重要文化財に指定されている。方丈前庭は小堀遠州作「虎の子渡し」といい代表的な枯山水庭園として有名である。
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銀閣寺:慈照寺(左京区)
東山と号する臨済宗相国寺派の寺で、足利将軍義政の隠居所東山殿を遺命によって寺としたものである。東山殿は、1482(文明十四)年から建設を進め、東山文化の粋をつくした数々の仏殿、住宅や庭園が造られた。しかし、1558(永禄元)年の兵火により、銀閣、東求堂を残して焼失し、1615(元和元)年に現在の寺観が整えられた。
銀閣(国宝)は1489(長亨三)年の建立、こけら葺き二層建てで、下層は心空殿と呼ばれる書院造りの住宅風、上層は潮音閣と呼ばれる禅宗仏殿風の室となっており、観音像を安置する。実際には銀箔は張られなかったが、北山鹿苑寺の金閣に対し、一般に銀閣と呼ばれる。金閣に比べて枯淡幽雅な特色が見られ、東山文化を代表する名建築である。
東求殿(国宝)は、1486(文明十八)年建立の東山の持仏堂で、日常生活用建築の遺構としては最古のものといわれ、内部には、仏閣、同仁斎などがある。同仁斎は茶室の元祖ともいわれるが、元来は書斎である。
庭園は、西芳寺(苔寺)の庭園を模して義政が作ったものといわれ、上段石組、下段池泉回遊式の二段からなり、銀閣と調和した名園である。
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浄土院(左京区)
清泰山と号する浄土宗地恩院派の寺である。
この地にはもと、浄土寺と呼ばれた天台宗の寺院があったが、文明十四年(1482)、東山殿(後の銀閣寺)造営に際し、相国寺(上京区)の西に移された。
当院は、その跡地に残された草堂を泰誉浄久が浄土宗の寺として復興し、浄土院と名付けたことによるといわれている。その後享保十七年(1732)には泰誉により堂宇が再建され、今日に至っている。
本堂に安置する阿弥陀如来坐像は、等身大のもので、もと浄土寺にあった遺仏といわれている。
また、当院は、通称大文字寺とも呼ばれ、毎年八月十六日大文字の送り火には、精霊送りが行われ、多くの参拝者で賑わう。
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岡崎神社(左京区)
祭神として素戔鳴尊、奇稲田姫命、及びその御子三女五男八柱神を祀る。社伝によれば、桓武天皇の平安遷都に際し、王城鎮護のため平安京の四方に建てられた社の一つで、都の東にあることから東天王と称した。その後、社殿が炎上したため、貞観十一年(869)社殿を造営して、あらためて播磨国(現在の兵庫県)広峰から上記祭神を迎え祀ったという。古くから産土神として付近氏子の信仰を集めていたが、治承二年(1178)中宮の御座の奉幣を賜ったことから安産の神として信仰され。また、住時の王城鎮座方除の勅願により方除厄神として信仰されている。例祭は七月十六日に行われる。氏子祭は十月十六日で、この日行列を整えて氏子町々へ神幸があり、櫓太鼓を先頭に十一基の振鉾を連ね、神輿の渡御が行われる。この振鉾のうち、特に太鷹鉾は平安時代の姿を伝える名鉾として有名である。
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平安神宮(左京区)
明治二十八年(1895)桓武天皇の平安遷都1100年を記念し、桓武天皇を祭神として創建された神宮である。後に平安京最後の天皇である考明天皇も合祀された。
社殿は、平安京の政庁の中心であった朝堂院の形式を約二分の一に縮小して復元したものである。二層の神門は応天門、中央正面一層の入母屋造の拝殿は大極殿、拝殿左右の楼閣は、東は蒼龍楼、西は百虎楼と呼ばれている。いずれも鮮やかな朱で色どられ、ありし日の平安京の姿を偲ばせるものである。また、拝殿の奥には御神殿がある。
神殿背後の約三万平方メートルからなる神苑は、四つの池を中心に、各時代の庭園形式を幅広く入れた池泉廻遊式の庭園で、四季折々に美しい花が咲き乱れる。
例祭は、四月十五日、また十月二十二日の時代祭りには、御所から当宮まで、各時代の風俗行列の巡行がある。
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吉田神社(左京区)
祭神として健御賀豆知命・伊波比主命・天之子八根命・比売神の四神を祀る。
貞観元年(859)藤原山蔭卿が平安京の鎮守神として藤原氏の氏神である奈良の春日社四神を勧請したのが、当社のはじめである。以来人々の信仰厚く、式外社ではあるが、二十二社に加えられ、延文元年(1356)正一位の神階を授けられた。ついで室町時代の中頃、神官吉田(ト部)兼倶が吉田神道(唯一神道)を大成し、東南山上に斎場所太元宮を造営してから、吉田流神道の総家として明治に至るまで神道会に大きな権威をもっていた。
本殿は慶安年間(1648〜1651)の建築で朱途春日造りである。このほか四脚中門・御廟・神供所などがある。
境内には太元宮のほか、末社・攝社が多く、中でも神楽岡社は「延喜式」にも記載された地主神として、また雷除神として有名である。神竜社には吉田兼倶を祀っている。
祭礼のうち節分祭(毎年節分の当日を中心に前後三日間にわたって本宮及び太元宮で行われる)は疫神祭・追儺式・火炉祭の三部に分れ、室町時代以来の伝統をほこる神事で多数の参詣者で賑わう。
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聖護院(左京区)
円珍(智証大師)を開基とする。初め岩倉にあって常光院といったが、 寛治四年(1090)白川上皇が紀州熊野に御参詣の際、増誉大僧正がその先達となって護ったので上皇はその労をねぎらい、増誉を熊野三山の検校職に任じ、修験道の統轄を命じられ、また院名を聖護院と改められた。延宝三年(1675)焼失し、翌年から四年間を要して再興したのが現在の主な建物で、書院(重要文化財)は京都御所の御殿を移したものという。天明八年(1782)京都御所炎上の際、光格天皇は三年間当院に居を移された。また、安政元年(1854)火災の時にも考明天皇と皇子祐宮(明治天皇)は 当院に非難され、一時假皇居となったので、「聖護院旧假皇居」として史跡に指定されている。有名な「大峰入り」の修行は毎年夏に六日間にわたって行われる。
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下鴨神社(左京区)
太古、この地を占有していた賀茂氏が創祀したわが国最古の神の一つである。祭神として、賀茂建角身命と玉依姫命を祀る。玉依姫命は賀茂氏の租神賀茂建角身命の子で、瀬見の小川(賀茂川)の川上から流れてきた丹塗りの矢によって身ごもり、別雷神を生んだという。賀茂御祖神と呼ぶのはこのためである。平安遷都(794)後は王城の守護神としてあがめられ、賀茂斎院、行幸式日、参篭御幸、関白賀茂詣、式年遷宮などの制度も設けられ、中世には山城国一ノ宮と呼ばれ崇敬をあつめた。境内糺の森は、約十二万平方キロメートル(約三万六千坪)で、古代山城北部が森林地帯であった頃の植生と同じ生態が保たれている貴重な森林であり、国の史跡に指定されている。社殿は、文久三年(1863)再建の国宝の本殿二棟と重要文化財の殿舎五十三棟などがあり、平成六年(1954)世界文化遺産に登録された。毎年五月十五日、都大路に王朝絵巻を繰り広げる葵祭は有名である。行列が当神社に到着すると「社頭の儀」が行われる。また、流鏑馬、御蔭祭など数々の伝統神事が行われている。
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光福寺(左京区)
正しくは干菜山斎教院安養殿光福寺と号する浄土宗知恩院派の寺院で、俗に 「ほしな寺」と呼ばれている。寺伝によれば、寛元年間(1243〜47)に道空上人が西山安養谷(長岡京市)に建立した一寺(斎教院)が当寺の起こりと伝え、天正十年(1582)に月空宗心によって現在の地に 移された。道空は、六斎念仏を世に広めたことで知られ、その由緒をもって 後柏原天皇から六斎念仏総本寺の勅号を賜った。また文禄二年(1593)に豊臣秀吉が、鷹狩の途次に当寺に立ち寄った時、住職宗心が乾菜を献じたことによ、 秀吉から干菜山光福寺の称号を与えられたと言われている。本堂には正和二年(1312)花園天皇から賜った閉目の阿弥陀如来像を安置し、収蔵庫には、六斎念仏興起書等の諸文献や、秀吉寄進の陣太鼓及び秀吉画像などを収納している。
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詩仙堂(左京区)
正しくは六六山詩仙堂丈山寺と号する曹洞宗の寺院である。当寺は、江戸時代の文人石川丈山が寛永十八年(1641)隠棲のため建立した山荘で、凹凸かとも呼ばれている。丈山は、三河国(愛知県)の人で、徳川家康に仕えていたが、禄を辞して京都に住み、 詩作に励むとともに林羅山ら一流の文化人とも交わり、茶道においては奥義を極めた。晩年は当地で悠々自適の生活を行い、寛文十二年(1672)八十九歳で没した。建物は詩仙堂、嘯月楼など十の区画からなり、詩仙堂には狩野探幽筆による中国三十六詩人の肖像と詩を描いた額が掲げられている。庭園は、東には滝を、前庭にはつつじ、皐月の刈り込みを配した枯山水庭園で、庭の奥から丈山愛好の僧都(鹿おどし)の音が風情を添えている。毎年五月二十三日には、丈山忌が営まれる。
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真如堂(左京区)
鈴声山真正極楽寺と称し、天台宗に属する。叡山の戒筭上人が永観二年(984)一条天皇の御母東三条院藤原詮子の御願によって神楽岡東の離宮内に堂を建て、慈覚大師の作と伝える阿弥陀如来像を安置したのがこの寺の始まりである。その跡は、現寺地の東北に当たり「元真如堂」という。のち幾度か寺地を変え、文明十七年(1485)足利義政が旧地に再興したが、その後また他に転じ、元禄六年(1693)旧址の西南、現在地に復した。今の堂舎は宝永二年(1705)再建で、本堂の本尊阿弥陀如来立像一体(重要文化財)は平安時代後期の作である。寺宝には室町時代の真如堂縁起三巻(重要文化財)ほか、寿永二年(1183)仏師運慶の願経として名高い法華経六巻(国宝)などがある。境内には後西天皇の皇女真珠院宮の墓をはじめ、藤原氏一門や春日局の生父、斎藤内蔵助利三など著名な人の墓が多い。また、紅葉の名所として知られている。
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宗忠神社(左京区)
黒住教の教祖黒住宗忠を祀る。宗忠は安永九年(1780)備前国(現在の岡山市)今村宮の神主の家に生まれ、文化十一年(1814)の冬至の日、日の出を拝している時に 神人一体の霊感を受け、黒住教を創始した。以後布教を重ね、嘉永三年(1850)二月二十五日に没した。安政三年(1858)朝廷から「宗忠大明神」の神号を与えられ、文久二年(1862)高弟の一人、赤木忠春を中心とした門人たちがこの社殿を建立したものである。幕末には考明天皇唯一の勅願所となり、皇宮やニ條家、九條家などの公家からも厚い崇敬を受けた。現在の本殿は流造で、明治四十五年(1912)に、また拝殿も昭和十三年(1937)に改築されたものである。本殿と並ぶ神明宮は、ニ條家より遷したものといわれ、天照大御神を祀る。例祭は本殿は四月、神明宮は十月に毎年とり行われる。
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法然院(左京区)
善気山万無教寺と号し、浄土宗捨世派の本山である。この地はもと法然上人が弟子の住蓮、安楽と六時礼讃を勤めた旧跡で、寛永年間(1624〜1644)ほとんど廃絶していたのを延宝八年(1680)知恩院第三十八世万無心阿上人と弟子忍徴が中興したものである。本堂には恵心僧都作阿弥陀如来坐像と法然上人自作木像を安置し、直壇には毎晨朝に二十五の生花を散華する。方丈は桃山御陵の遺物を移建したものといわれ襖絵十四面の「桐に竹図」「若松図」「槇に海棠図」及び屏風の松図はいずれも重要文化財に指定されている。
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檀王法林寺(左京区)
「だんのう」の名で親しまれている檀王法林寺は、もとは天台宗に属し蓮華蔵寺と称していたが、文永九年(1272)、望西楼了恵がこれを浄土宗に改め、悟真寺と称したことに始まる。その後、永禄年間(1558〜70)焼失、廃絶したが、慶長十六年(1611)袋中上人が当寺を再興して、現在の名称に改めた。本堂は、文久三年(1738)から寛延三年(1750)頃にかけて再建されたもので、彫刻、彩色等の装飾的要素が多用されている点に特色がみられ、また、平面構成は江戸時代中期における浄土宗寺院本堂としては異色なものである。西門は、本堂とほぼ同時期の寛延四年(1751)に造営された朱塗の一間薬医門である。霊屋は、墓地の北棟隅に二棟並ぶ方一間の小さなもので、東と西にそれぞれ開山、第二世の仰搭を収めている。いずれも後補材が多いものの、造営年代は 江戸時代前期と考えられ、小規模ながら質の高い建物である。
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赤山禅院(左京区)
仁和四年(888)天台宗座圭安慧が、師の慈覚大師円仁の遺命によって創建した天台宗の寺院である。本尊の赤山明神は慈覚大師が中国の赤山にある康山府君(陰明道祖神)を勧請したもので、天台の守護神である。後水尾上皇の修学院離宮御幸の時には、上皇より社殿の修築及び、赤山大明神の勅願を賜った。
御神体は、毘沙門天に似た武将を象る神像で、延命富貴の神とされている。この地は、京都東北表鬼門にあたることから、当院は、方除けの神として人々の崇敬を集めている。また、赤山明神の祭日にあたる五日に当院に参詣して懸取りに回ると、よく集金ができるといわれ、商人たちの信仰も厚く、俗に五日払いといわれる商習慣ができたと伝えられている。
閑静なこの地には、松、楓が多く、秋には紅葉の名所として多くの人々で賑わう。
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一乗寺下り松(左京区)
平安中期から中世にかけこの辺りに一乗寺という天台宗の寺があった。
天元四年(981)山門衆徒と寺門衆徒の対立の中、寺門派の僧穆算(ぼくさん)が難を逃れて当寺に住んだことや永延二年(988)円融法王が一夜を宿したことなどで知られるが、南北朝の動乱以後に衰えて廃絶した。この寺が地名の由来である。
また、ここにあった松の下で、江戸初期の剣客、宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘したという伝説が残されており、ここから東にある八大神社には当時の松の古木が保存されている。
『下り松』と呼ばれ、古くから旅人の目印として植え継がれてきたこの松の樹は、現在四代目にあたるといい、傍らの記念碑は大正十年に建立されたものである。
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鞍馬寺(左京区)
鞍馬寺は鞍馬仏教の総本山で、宇宙の大霊(尊天)を本尊とする信仰の道場であり、山内一帯は尊天より 活力をいただくべく心浄かに祈りを捧げる浄域である。
宝亀元年(770)に鑑真和上の高弟鑑禎上人が毘沙門天を祀る草庵を結び、延暦十五年(796)には 藤原伊勢人が王城鎮護寺として伽藍を建立、爾来、衆庶の信仰を集めて来た。
豊かに恵まれた大自然の中に、牛若丸ゆかりの地や『九十九折』など名勝古跡が散在し『初寅大祭』 『竹伐り会式』など年中行事も多く四季を通じて訪れる人々の心にやすらぎを与えている。
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